100 Title



037...ボタンをとめる

「これは?」
「右」
「これは?」
「上」
「上から順に?」
「K、J、E、G、X、P」
 淡々と読み上げられるアルファベットをわたしも目で追いながら、少女の声を聞いている。抑揚に欠ける冷たい声音に、ふと、昔読んだ童話の女王を思い出した。
「次は左目」
「はい」
 彼女は特別だという話を聞くが、見た目からはまったく想像もつかない。粒子の動きを感じられるというのは確かに稀有な才能……というよりは知覚の変異なのかもしれないが、こんな少女を捕まえてきてまで結果を出さなければならないのはあまりにも馬鹿げていると思う。
「これは?」
「左」
「これは?」
「上」
「これは?」
「右」
 視力、問題なし。
「オーケーよ。着替えていいわ」
 クリップボードのカルテにチェックのサインをし、わたしはアイラに検査の終了を告げた。少女は無表情のまま衝立の後ろへと姿を消した。
「世界大会まであと一週間、なんの問題もないわ」
 これはすべて一週間後に控えている世界大会のためのものであり、わたしはフラナ機関の研究員として職務を遂行しているにすぎない。言っても、今の検査は学校で行われるものと同じようなものだ。脳波やらのもっと精密な検査は別の部署が、それこそ医者の資格を持っているような所員が行っている。
 あっちはわたしと、比べ物にならないような額の給料をもらっているのだろう。
 雀の涙程度の対価で雑用をこなす毎日。飽き飽きしていたのは最近の話ではない。アイラの面倒をみるようになってからは明確に、「もうやめようか」 と考えるようになった。
 それでも辞めないのは、この少女を残しては行けないと思っているからだ。
 お目付け役のナインは完全にそうとは言えないようだが、どうにもここの連中はアイラを人間扱いしていないように思える。アイラ自身、「あたしのこと抱きしめてくれるのは、ジェーンだけ」 とこぼすのだからそうに違いない。姉のように慕ってくれる彼女のことを、わたしもまた、妹のように思っている。
「ジェーンは、いっしょにこないの?」
 着替え終わったアイラが、わたしの袖を引く。
「……残念だけど、ここに残らないといけないの」
「……」
 アイラは寂しそうに顔を伏せた。
「ごめんなさいね」
「ううん」
 いいの、と、ため息のような返事をする彼女は、いじらしい。
 詳細を知っているわけではないが、ここ以外に行き場もない彼女は、逃げ出すことなどできない。あまりに酷だ。
「でも今日は、約束、してたでしょ?」
「え……」
「わたしのうちにおいでって、言ってたでしょ?」
「ほんとう……? いいの……?」
 アイラの頬が、少し赤く染まる。彼女は感情を見せると、こんなふうに少しだけ、幼く見えるのだ。
「もちろん。ナインにも許可はもらっているもの」
「……やったぁ!」
 アイラが飛び上がってわたしに抱きつくと、腰掛けたままのスツールがきしんだ。細いからだを受け止めながら、わたしは胸が苦しくなるのを堪えられない。こんなふうに感情を表に出すことを、彼女は普段、しないからだ。

§


 わたしの家に来たアイラは、ものめずらしそうに調度品を眺めたり、決してよいとは言えない、マンションからの眺めを堪能しているようだった。
 つめたい色の長い髪を後ろから見つめながら、思わずわたしは口を開いた。
「たいした部屋じゃないけれど」
 あまり趣味がいいとも言えないし、見ようによっては貧相な部類に入る家が少し、恥ずかしくて。
「ううん、素敵だと思う」
 アイラは明るい声を張り上げる。それを耳にしたわたしは、自分の発言を後悔した。
 素敵かどうかは問題じゃない。たとえ貧相なものであっても、彼女はあたりまえの、普通の暮らしがしたかったのだろう。
 ぎゅうと手のひらを握り締める。悔しいが今のわたしにはこの子を助けることなどできない。一時の癒しは与えられても、恒久的な居場所の提供は無理だった。
「あのね、ジェーン」
 にごった空を背にして、振り返るアイラは何を思うのだろう。

「……おなか、すいちゃった」

§


「にしても、よく食べたわねぇ……」
 トマトベースのニョッキを大皿に二杯、サラダはゆうに三人前は食べただろうし、彼女にとってスープは飲み物なのかもしれない。
 そういえばナインが「アイラの食べっぷりはおかしくないか」 と医療班に詰め寄っていた記憶がないでもない。結局何らかの疾患によるものではないだろうという結論が出たらしいのだが、それにしても旺盛な食欲だった……と、いうより、留まるところを知らない食欲だ。
「……これ、たのしい!」
 何をしているのかというと、アイラは冷凍のパイシートをクッキー型で抜いている。甘いものが食べたいと言った彼女に丁度いいものは、うちにはこれしかなかった。グラニュー糖をまぶしてオーブンで焼けば、とりあえずのデザートになるだろうと思ったのだが、意外と作業自体を楽しんでいるらしい。
 ハートの形に抜いたものを、てきぱきと天板に並べていくのを見ていると、案外彼女が起用であることがわかる。
「うまい、うまい」
「ほんとう?」
「ええ」
 わたしは手伝うこともせず、紅茶を片手にその様子を眺めていた。
 本当に、こんな日常が彼女にも許されればいいのにと思いながら。
 不意に、アイラはこんなことを零す。
「早く世界大会が終わらないかな」
「どうして?」
 苦笑したような顔に尋ねてみても、その答えはなんとなくわかっていた。
「だって、ジェーンと会えないのは寂しいもの」
「……」
 それはわたしだって同じだし、なんならわたしは不安すら抱いている。勝てばアイラはこの先も利用されるだろうし、負ければ最悪、捨てられてもおかしくはない。
 考えるだけで、嫌になった。
「ジェーン、どうしたの……?」
 思いつめたような顔をしていたのだろう。アイラに顔を覗き込まれる。
 この子は他人を思いやることもできる子なのだ。優しい、少女なのだ。
「なんでも、ないのよ」
「……うそ」
 そして、鋭い子でもある。
 わたしはごまかすように言葉を探した。
「世界大会にはあなたと同じくらいの歳の子も、たくさん参加するみたいよ」
 アイラがハート型に抜いたパイ生地を、わたしは天板の上でその向きを変えた。下方の頂点同士を揃えて四つ並べると、ちょうど四葉のクローバーのようになる。こんな飾りを、彼女は帽子につけていたことを思い出した。
「でも、だれが相手でも、あたしが勝つし……強いから」
「そうねぇ」
 そう思うようになっても仕方がない。わたしは苦笑しながら、アイラの目を見つめた。
 彼女の目だけではない。髪も肌の色も、儚げな印象を与える色味をしている。
「でも、お友達にはなれるかもしれないわね」
「友達ぃ?」
 嫌悪感すら滲ませる声に、わたしは純粋に驚いた。
「あら、嫌なの?」
「だって、あたし、ガンプラバトルなんて嫌いだし。そんな大会に出るような、ガンプラ好きな人と仲良くなれるわけないし……」
 もしかしたら、アイラもこんなふうにではなく、ガンプラバトルと出会いたかったのかもしれない。もしもそうだったなら純粋に楽しめたかもしれないと、彼女自身思っているのかもしれない。
 でも、今からだって遅くはないと、わたしは思う。それに、ガンプラバトルに関係なく、同じ年頃の子供がいれば仲良くなれる、そんな子なのだ。本来の彼女は。
 他力本願で情けないのだが、アイラのかたくなな心を溶かしてくれるような誰かが、いてくれないだろうか。そう願うことを、とめられない。
「無理よ、やっぱり」
「そうかしら……?」
「そうだよ」
 しかしアイラは聞く耳を持たぬふうな顔で、とけてゆるくなり始めたパイ生地を弄んでいるだけだった。

§


 出立の日、アイラは白い衣装に身を包んでいた。相変わらずむっつりと黙り込んだまま、地面のあたりをじっと見ている。
 スポンサーの会長が見送りにくるはずもなく、空港にはわたしを含めて二三人の職員しかいない。そのうえ見送られる側はアイラやナインのほかに多くの研究班がいるので、なんだかちぐはぐな印象を受けてしまう。
「留守の間はよろしく頼みます」
「ああ、君も頑張ってくれたまえ」
 ナインは所長と形式的な握手を交わし、他の所員はそれを見るともなく見ていた。搭乗ロビーはただでさえざわめきに満ちているが、どうにも今日は、自分達に注目されているような気分になる。
「アイラ、」
 こっそりと――する必要もないのだが――わたしは彼女に耳打ちする。わたしは正直に言うと、何を言おうとしていたわけでもないのだが。
「日本にはおいしいものがたくさんあるらしいわよ」
 すると、アイラは拍子抜けしたようにぱちぱちと瞬きし、控えめに笑いをこぼした。
「ぷっ……なにそれ? わたし、ガンプラバトルのために行くのに」
「でも、おいしいもの食べたりしてもいいじゃない」
 もしも素敵な友達が出来たり、一緒にいたいと思える人ができたなら、その出会いを大事にしてほしい。
 わたしはアイラと離れたくはないけれど、彼女がここに戻って来る必要がなくなるのなら、それが一番だとも思う。
「いいのかな?」
「いいわよ。でも、ナインに見つからないようにね」
「え? ……ジェーンったら、そんなこと言っていいの?」
「いいのいいの! 羽を伸ばしてらっしゃいよ」
「ん……」
 どうかこの子の進む先に、幸せな未来が広がっていますように。
「いってらっしゃい、アイラ……あら?」
 帽子につけている飾りが取れかけている。藤色の花のブローチは、彼女の髪に確かによく似合う。
 こんなかわいらしい少女が、幸せになれないはずがない。わたしはそう、信じている。
「これでよし」
 ピンを止めなおすと、アイラの顔が名残惜しさのためにかゆがむ。頼りない顔に微笑みかけたわたしの指先は、アイラの頬をそっとなでた。
「大丈夫よ」
 本当は、何を言ったものかと思っていた。だけどわたしは本心からアイラの幸福を願っている。
 きっとこんなふうに、誰にでも、いつも笑顔を見せてくれる日が来ると信じている。
「うん、いってきます!」

§


 それからしばらくして、わたしはテレビ越しにアイラのありのままを観ることになる。
 世界大会の準決勝でようやく重いヘルメットを脱ぎ捨てて思いのたけを吐露した彼女は、きっと自分がどうしたいのか、見つけることができたんだろう。
 よかったわね、アイラ。
 あんなふうに笑う彼女を、わたしは見たことが無い。
 彼女はもうここには戻らないだろう。だけど、これでいいのだと思う。
 アイラは心から望む居場所を、見つけたに違いないのだから。

- end -

20140310

アイラちゃんの幸せを応援し隊