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044...利き腕の逆で

寒夜客来茶当酒  ――客はあれども酒はなく
竹爐湯沸火初紅  ――炬火終にして朱ならず
尋常一様窓前月  ――月の明かりは常なれど
纔有梅花便不同  ――梅花香りて宵に映ゆ

 どこの店へ行っても、茶の専門店の壁には杜秉(とへい)の漢詩がかけられている。冬の今ならまだいいだろうが、夏に梅の花だとか、竹炉の湯だとか聞かされたところでしっくりくるとは云豹には思えない。それでも台湾、のみならず、おそらく中国全土のほとんどの茶の販売店にはこの漢詩が架けられているに違いないだろう。客である自分ですらそのうち諳んじてしまいそうだと思い、云豹は店主の花子に尋ねてみた。
「覚えてしまいそうだな」
「え?」
 花子は湯で茶壷を温める手を止めて、カウンターに頬杖をついた云豹へと視線を上げる。一本のほつれもない絹糸の束のような髪が、彼女の肩から滑り落ちる様は緞帳、あるいは、ぬるりとした夜の闇のようだ。茶壷に零された熱湯の湯気が、霞のように一瞬それを遮る。
 云豹は組んでいた脚の上下を変えつつ、花子から視線をそらした。何気なく目で追った湯気の残滓は、天井に到達する間もなく消える。
「杜秉だ」
「ああ……覚えてなんかないわ」
 苦笑しながら彼女は茶葉の入った缶を取り出した。年季の入った木製の引き出しが、縦横それぞれ十五ずつはあるだろう茶箪笥。さきほどそこから云豹は、上等の東方美人を選んだ。「相変わらず目が肥えてるし、図々しいこと」という、皮肉交じりの苦言と引き換えに。
「案外、いつも見ているものほど覚えないものね」
「成程。そうかもしれんな」
 静かな夜だ。
 古い大きな石油ストーブの上に薬缶がかけられている。子供のころ、こんな光景をよく見ていた記憶があった。あたたかなもの、思い出、そんなものについて考えることはしたくない。そんなものは、自分とは関係ない。
 花子が洗茶をした湯を捨てると、こうばしい香りがそう広くはない店舗中にふわりと広がる。同じく霧散するように、幻肢痛も消え去ってはくれないだろうか。
 云豹は細い目で、窓の外の月を見ている。完全な円に近い月の、目に見えてわかる表面のざらつきが彼は嫌いだった。閉店後の店には二人以外の人影などない。
「覚えてみたら?」
 揶揄するような口ぶりだった。花子は遠い昔を思い出したように笑う。
「あなた、苦手だったものね、暗記とか」
「……忘れたな」

 月のない夜だった。
 消音器を装備したガバメントが人を肉塊へ変えていく。引き金は何よりも軽い。何人も殺す度に感覚が麻痺していく……などという、しみったれた感傷は一切ない。最初から自分は、狂っていたに違いないから。そう信じていれば何も感じずにいられるのだから。
 ばたばたと零れ落ちて地面に染み込んで行く血を見つめたまま、彼は考える。
 なぜ殺しているのだろう。なぜ手を下すのが自分なのだろう。
 標的を追ううちに、ずいぶんと表通りに近づいていたらしく、耳に喧騒が届き始めた。伸び切ったカセットテープが流す、古い流行歌のメロディーが聞こえる。
 まずいな。考えながら、云豹は冷静だった。
『おい山田、車はそっちじゃないぞ?』
『こっちの路地から行くほうが近いんだ』
 おい、こっちに来るな。関係のないやつでも、今の俺は殺さねばならん。
 ――違う、人を殺すことを恐れてなどいない。罪悪感など微塵もない。今更そんな言葉を吐く資格など俺にはないのだから。
 グリップを握りなおす。声のするほうへ銃口を向ける。不運な男の姿を認めるまで、あと数秒。
『先に行っててくれ!』
 彼はさらに、考える。
 なぜ、あの男なのだろう――

 茶杯の水面には、古ぼけた電球が月のように映り込んでいる。湯気にさえぎられ、それはさながら朧月夜にも思えた。
「残念だったな」
 顔を上げた視線の先には、白黒写真の男が笑っていた。自分が殺した男だ。何の恨みもない、何の関係もない。ただその場に居合わせただけ。口封じのために、殺しただけ。
「……何が?」
「亭主のことだ」
 花子は事実を知らない。
 知らぬままの彼女が白い旗袍を着て喪に服したまま、数か月が過ぎていた。
「ああ……」
 花子は相槌を打つときに薄く笑う。それが彼女のくせだ。
 幼い頃は「気味が悪い」と疎まれ、いつのころからか「あれは男を誘っている」と後ろ指を指されるようになった。云豹は「田舎の年寄どもが言うことなど気にするな」と言ったものの、花子が紅の唇をわずかにゆがめるのは確かに、妖艶さがある。
 それを知った上で、やつらは下卑た言葉を投げつけたのだ。侮辱だ。あのような目で見ることが、花子への侮辱に他ならない。
 爺どもが。
 云豹の口の端には嫌悪感がにじんでいた。

 引かれた腕、麻の粗野な服、怒号と罵声――
 砂埃の道を二人で走った。寒い夜だった。月があったかどうかなど、今となっては覚えてもいない。
 そこを抜け出せればそれでよかった。他は何も、考えていなかった。
 台北へ出てきてよかった。よかったのだ。花子は働き口を見つけて、しばらくして結婚した。云豹は、実力で天道連に居場所を得た。なぜそうなったのか、そうしたのか、わからないし考えたこともない。覚えていないだけかもしれない。
 しかし本当に、それでよかったのだろうか。

「分不相応だったのよ」
 たった一年にも満たない穏やかな生活を、花子はすでに手放しているし、諦観交じりの笑いさえ浮かべている。少しやつれて幸薄い未亡人然となった相貌は、しかしこれまでで最も美しい。
「幸福だったか」
「そうね」
 花子の眼差しには希望もない。決して云豹を見ようとはしない。
 この女は知っているのかもしれない。何が彼女を奈落へ突き落としたのかを。
「だけど、わたしにはこんな境遇が……お似合いだわ」
 気づいているのかもしれない。云豹に連れられて台北へ出てきたことがすべての元凶なのだと。
 云豹に無意識にそうさせたのが己であることも。

「だったら――」
 ならば来るか。ともに来るか。お前を不幸にした男、お前の幸福を奪った男と、果てのない闇に堕ちるか。
 それは何よりも簡単だろう。飲み干したこの茶杯を床にたたきつけ、粉々にするよりも容易い。
 北風が窓を揺らす。花子は一瞬だけ、そちらへと目を向けた。
 空けた茶杯には、白梅の花。窓には月。とてつもない罪悪感と、既視感が呼び覚まされた。
「云豹?」
 紡がれない言葉の続きを待ちきれず、花子はカウンターへと身を乗り出した。再び、一つにまとめていた髪の房がぬるりと落ちてくる。ぼとぼとと傷口から溢れて落ちる、血の流れのようだと思った。
「……なんでもない」
「注ごうか?」
「いや」
 もういいと片手を挙げる。すると花子は、空になった茶杯を回収しようと手を伸ばしてきた。

 何をしたとて、手には入らなかった。奪ったつもりが遠ざけていた。自分はそうとわかっていて、彼女の幸福を奪った。本心では、偶然を僥倖と思い、あの夜引き金を引いたのだ。
 手に入らないのなら、誰のものにもならなければいいと――

 一瞬だった。
 云豹は利き腕で彼女の手を引き、利き腕の逆で首の後ろから抑えこんだ。唇が重なったのはわずかな間だったと、彼は思う。しかし再び目を開けてみれば、花子の赤い唇は、紅色を乱されていた。
 流れる黒は幻のごとく、かすかな芳香を残している。
「……もう、ここには来ない」
 その薄倖に対して己が責任を負おうなどと考えていたわけではないし、ましてそうすることをひどく恐れたわけでもない。花子がこれ以上の憂目に合うことをおそらく本心では望んではいないし、望んでいないと信じたい。願うことはもっと別のことだ。この先、生きていれば今よりは多少マシな人生が待っているだろう、と。
 できることは一つだけ、己の欲との決別だ。
 これが最後になるのならば。そう思うと、花子の顎に触れたままの手を引きかねた。花子は困惑したような、非難するような、得も言われぬ目を向けている。
 云豹の手が離れる。彼はそのまま、後ろに数歩後ずさり、店の引き戸を荒々しく開閉して出て行った。
 残された花子は己の唇にそっと触れ、手のひらをぐうと握りしめる。
「……ばかね」
 言うとおり、云豹は二度と現れないだろうことを確信したまま。
 もう誰も、どこにも行けないことなどずっと前からわかっていたというのに。

 月の大きな夜だった。寒空の下を歩けば、薄い唇から白い息が漏れる。
 ふと思い出したように云豹は唇をぬぐった。赤い口紅がうっすらとにじんでいる。
 どうかしていた。
 恥じ入るように自嘲し、彼は手のひらを下穿きでぬぐう。いまだ洗い流せぬ血のごとく、それは染み付いて離れることはなかった。梅の残り香がまとわりつくのと同じように。

- end -

20140812

冒頭の日本語訳的な何かは超適当意訳なので信用しないでください。