100 Title



052...手がしびれる

「最近前髪が目の中に入って痛むの」

次の瞬間に、わたしはこの男の下まつ毛を一本残さずむしりとってしまいたくなる。男のくせに、男のくせになんてもったいないのかしら。こういう美しいものはすべてわたしのものになってしまわなくてはいけない。そんなわがままな気分を彼は察したのか、それともそんなことはどうでもいいのか、彼はわたしの額をあやすように撫でた。滑らかなソファはドレスを着たわたしには、その感触を味わうことを許さない。一部分を除いて。大きく開いた背中、押し倒されてさらに取り払われる絹がなくなった部分だけを除いて。

「君のからだの神経は――」

ディエゴはわたしのからだを押し倒して、指の先だけで背中に触れる。浅く深くひっかかれて、とんでもなく気持ちいい。ぞわぞわと這い上がってくる快感に目を細めると、向かい合った先の、近づきすぎた頬が僅かに愉悦に歪んでいる。
憎い。この男が憎い。

「どこかおかしいに違いない」
「どうして?」
「愉しいことを“したく”なると必ずどっかが痛むだろう?」
「そうかしら?」
「そうさ」

ディエゴは何もかも知っているふうに鼻をひくつかせた。実際、彼はなんだって知っているのかもしれない。
わたしがどうしたらよろこぶのかも、わたしの髪が目にかかるくらいに伸びていないことも。
この男が憎い。この男の唇が憎い。薄皮を破って赤い血が流れるよう噛みついてやりたい。ディエゴが痛みを感じたらどんな顔をするのだろうか。痛みを感じるのだろうか。
わたしは何も知らない。やわらかい薄絹を何枚も重ねたものにくるまれ大事に育てられた世間知らずの令嬢は、この男に手籠めにされた。それがどのくらい前のことだったか、わたしは知らない。それが自分自身に降りかかった出来事であると知っていながら。
一つだけわかることがある。ディエゴ・ブランドーは今日のわたしの新しいドレスより、中身のほうを好んでいるということ。けれど大した価値のない情報に過ぎない。なぜならば生身の男は生身の女の体を嫌うわけがないから。
パニエを重ねたドレスが鬱陶しくて、脚を思い切り跳ね上げるとディエゴは噴出した。

「困った」
「何故?」
「この脚に頬ずりしたいし背中も撫でていたい。君の眼球を舐めてもあげたいけど、残念ながらオレは一人っきゃいない」
「遺憾だわ」
「オレが三人いたほうがいい?」
「それもいいわね。でも、それじゃあ“よすぎて”わたし、死んじゃうかもしれないわ」
「ふぅん」

ディエゴは、わたしの言葉が気に食わない、と言いたげな意思を見せた。

「なぁに今の」
「だって、オレ一人だけじゃ、“よすぎない”って言うんだろ」

あらいやだ、あなた変よ自分に嫉妬するなんて。言おうとした言葉はわたしの頭のなかでぐるぐる泳ぎ回る。嫉妬するなんて、嫉妬するなんて――言葉から意味が奪われて、理解できるのは中枢に打ち込まれた快感だけになる。あまく疼く、決定打にかける恍惚がたまらなくて、わたしはきっとだらしなく口をあけて酸欠の魚のようにあえいでいるに違いない。
ディエゴの腕の中はぬるい温度の水槽に似ている。不愉快だったのに、いつのまにか抜け出せなくなっている。外は寒いから。その外にはわたしを愉しませるものが何もないと教えてくれたから。

「うそつきな君が好きだな」

ディエゴは指の先でわたしのいいところをぐにぐにと責め立てる。ディエゴは何でも知ってる。わたしのからだの隅々まで知っている。ディエゴの言うとおりだ。たった一人だけでこれだけでからだがいうことをきかなくなる。気持ち良すぎて変になる。そう、残念ながら死んじゃったりはしない。死んじゃうには惜しすぎる快感を手放したくなくて、あらわな脚を彼の腰にからめた。

「痛がってオレを誘う君も好きだ」

ディエゴは結局背中を撫でるわけでも眼球舐めるわけでもなく、片手でわたしの髪をもてあそんで、もう一方の手は――令嬢の口からはちょっと言えない。馬鹿ねわたしたち、貴族が揃って退廃的でみだらな遊びにふけっている。貴族らしいといえばこれ以上ないくらい貴族らしいのかもしれないけれど。
そういえば彼は既婚者だった。おかしくてわたしは笑う。忘れていたことがおかしかったのか、その事実そのものがおかしかったのか、わたしにはもうどうでもいい。天に召された老婦人は彼の手練手管を味わったのだろうか。もしかしたらそれが死因だったりして――

「体中のあちこちが痛くなってもオレにしか診せないから好きだ」

わたしは老婦人に嫉妬していない。むしろディエゴの妻となってくれたことに感謝すらしている。おかげで彼は若い体を求めてわたしの元を何度も何度も訪ねてくれる。もしもディエゴが誰かのものでなかったなら、わたしのような小娘は彼の視界にも入らなかっただろう。そう考えるとわたしの心も体も、醜い炎に焦がれてばらばらになりそうになる。そうしてその紅蓮の中に彼も引きずり込みたくなる。
満足な環境でいたしたことはないけれど、それがいいの。普通じゃなくていい。逸脱していていい。この一瞬だけ彼はわたしのもので、わたしは彼のものになる。どちらがどちらに溺れているのかなんてもうどうでもいい。

「ディエゴ、ディエゴ」

自分でも信じられないくらいかわいらしい嬌声に笑いそうになった。ディエゴはわたしの差し出した人差し指を口に含んで、甘露をむさぼるように舌をからめる。まるで動物のようだった。時折歯を立てるその隙間から彼の唾液が漏れ溢れる。もしもわたしが男だったら(男でも?)彼の姿態にとんでもなく心動かされるにちがいない。女の身である今でさえ、「そそられる」 どころでは済まないくらいに物狂おしいのだから。

「ディエゴ、だめ、ディエゴ」
「駄目じゃない」

ちゅぱ、と、品のない水音を立てて彼の口が離れた、かと思ったらまた捕まる。今度は中指もまとめてとらわれて、わたしは彼の眼に射抜かれた。

「ジェーン、」

正直であること。淑女たるもの、正直であること。

「ジェーン、駄目じゃない。お前はすごく気持ちよがっている。とんでもなくみだらで、とんでもなくきれいだ」

そう、駄目なんかじゃない。最高に気持ちいい。わたしのからだの神経が一本残さず彼を感じてやまない。細胞は一つ残らず彼を捉えて離さない。
この男が欲しい。

「ディエゴ、すきよ、ディエゴ」

こんな子供のような馬鹿げた言葉で、興奮したように鼻息を荒くする彼が好きだ。

「わたしの全部を駄目にしたあなたが、たまらなくすき」

唇を合わせたところで、わたしに噛み付かせる暇も与えてくれない彼が好き。ディエゴ、ディエゴ、あなたこうしていると子供みたいね。わたしを大人にしておいて、自分だけ子供みたい――ああ。

この男が欲しい。たまらなく、欲しい。
きっとディエゴもまた、この女が欲しいと渇望しているに違いない。視線の先、欲に濡れた眼でディエゴが鮮烈な牙を剥いているから。
尤も、わたしはわたしの魅力なるものに自信があるわけではない。

ただわたしは、わたしたちは、お互いの内なる黒々とした炎を、分け合い貪っているに過ぎないことを知っているだけ。

- end -

20130813

なんか微妙にエロいの書きたくなっただけです。ディエゴっちゅうかSBR以降の荒木せんせいのキャラは唇がえろすぎる。