100 Title



059...長くなった爪

薬品の匂いは嫌いではないので、彼は目を覚ましたときに別段、顔をしかめるわけでもなかった。
ただ、片手が寝台ではないものの上に乗っている違和感と、自分以外の誰かがすぐ近くにいる、ということはわかった。

「(……殴られて、気を失ったのか)」

最後に見たのは流竜馬のあの、ふてぶてしい顔だった。キレてしまっているような、落ち着いているような顔に殴られたような気がする。
果て、何故殴られたのか。
考えるまでも無く思い出す。ゲッター2で研究所を襲おうとしたはず、だ。
殴り倒して止める竜馬は、おそらく思ったよりも良心はあるのだろう。などと思う。

それはわかる。
ただ、規則正しく指先に伝わる微かな衝撃については心当たりが無い。
最初に目に入ったのはぼってりとした唇だった。赤い。滴り落ちそうなくらいに赤い。
その唇はきつく結ばれているようだが、反面柔らかなものにも見える。
唇の持ち主はちらりと隼人のほうを見、それから視線を元に戻した。元に、というのは、彼女は彼の長く伸びた爪を丁寧に切りそろえている最中だったからだ。
何を言うでもない、元(と、過去を付していいものか)テロリストにおびえる風でもない。
冷たい手のひらが、隼人の手を包んでいる。指先はぎらぎらと光るニッパーに添えられている。あまりに不釣合いで、思わず歯科医の道具かと思った。

隼人の爪は、硬く厚い。其れ用のニッパーでも力を入れなければならないようだ。
血のこびりつかない日の無い爪の先は切り落とされ、ゴミ箱に捨てられていく。
武器でもあった己の一部が切除されていくのを見ながら、隼人は意識が覚醒してくるのを待った。

おそらくここは研究所の一室で、薬品の匂いがするということは医務室の類だろう。
部屋の中は薄明るい。温い大気が滞っているようなまとわりつく感覚がする。
女は初めて見る顔のようだった。誰かに似ているような気もする。だが、どうでもいい。
問題は―

「何故俺の爪を切る?」
「不潔だったからよ」

即答したのは、顔色一つ変えずに爪を切っていた最中もずっとそう思っていたからだろう。
これにはさすがに隼人も苛立ちを覚え、彼女の手を振りほどこうとした。
というより、一度振りほどいたのだが、向こうは向こうで手を伸ばして追いかけてくる。
避けるのも子供染みているようで、彼はおとなしく手を差し出した。
一瞬視界に入った己の右手は、すでに親指から中指までが短くなっていた。

「お前は人の爪を切ることを生業にでもしているのか」

気に入らない爪だったら誰でも、こうして切ってやっているのかと、皮肉を込めて尋ねてみた。
再び彼の右手は、女の太腿の上に乗せられる。

「いいえ」

そっけない返事よりも、やわらかい感触のほうが、このとりわけ凶暴だった男には意識を向けさせるのに役立ったらしい。
聞こえた声を反芻しながら、彼はゆっくりと上体をおこした。
案の定彼女は目の前の皮膚の一部にしか興味が無いようで、気にする風でもない。
かといって隼人も、何をするでもなくただそれをじっと見ていた。
爪を切りそろえると、彼女はコットンにエタノールを含ませて洗浄を始める。
深く中まで入り込んでいた血の痕跡が剥がれて、白い綿を赤く染めた。
順番が逆ではないかと思うが、それが終わると今度は鑢を掛け始める。
手馴れた手つきで。

右手の爪に鑢を、そして再度エタノールで拭き終ると、彼女は用済みだと言うように放り出した。
そして人差し指をやや上げ気味に、手のひらを向けた。

「左手」

隼人は左手を差し出さず、放り出された右手を上げた。
彼女の視線はそれを、黙ったまま追う。
隼人の右手は彼女の顎を捕える。ちょっと力を込めれば砕けそうな顎に。
その顎の上に、唇がある。
顎を捉えた右手の親指を、そのほうへ伸ばした。
触れると、やわらかい。
押せば、戻る。

ぐいと差し込むと、粘膜にぶつかった。

睨むと言うより、呆れ、困惑しているような視線を浴びながら、彼女が誰に似ているのか隼人は思い出していた。

- end -

20100522

ドリルアタックはやめておけ