100 Title



065...サンダルが脱げる

注意
主人公が娼婦で、そういう場面も直接的ではないにせよ書かれています。救いはないし後味も悪いかもしれません。






 それはさほど昔のことでもないのだが、あのときのユージン・セブンスタークは今よりもずっと物を知らなかったのかもしれない。
 街中でくぐもった声を聞いて、ユージンは足を止めた。止めた後で、しまった、と後悔した。
 昼間でも暗い路地で、男に体を売っている、まだ女と呼べないような年頃の子供がいるのは知っていた。少女たちは連れ込み宿ではなく、あろうことか路地のしめった地面の上に転がされて、欲のはけ口にされる。そういう事実は知っていても、まさにその場面に出くわすとは思っていなかったユージンは、止まってしまった脚を動かせない。
 湿り気を感じさせる、か細い吐息のような少女の甘い声。体の芯がぞわぞわするような得体の知れない気持ち悪さと、興奮。衣擦れのような音はおそらく行為の終わりを示すのだろう。ユージンはなんとか自分の脚を動かして、その場から遠ざかった。
 少し離れたところから路地の入口を見ていると、中年の男が上着の内ポケットに財布をしまいながら出てくるのが見えた。
 少年の好奇心は、再び彼の脚をそちらへ向ける。
 そっと覗きこんだ先には、長いプラチナブロンドの髪の少女がいた。やや細い足を地面に投げ出して座り、紙幣の束を数えている。少し離れたところに放られた銀色のサンダルは彼女のものだろう。ほつれた髪に隠されて、表情はよく見えない。唯一窺える、きゅっと結んだ口元は血がにじんでいるように赤かった。
 不意に、彼女は顔を上げる。
「――お客?」
 何の感情もなさそうな声に、少しだけ気だるさが乗っていた。自分と同じ緑色の目に見つめられ、ユージンは一瞬の後、その場から駆け出した。

 あれからしばらく、ユージンはあの光景が忘れられなかったし、生臭いにおいがまとわりついているような気がしてならない。別に自分があの少女を抱いたわけでもないし、抱きたいと思っているわけではない。
 なのに、無意識にあの少女が数えていた紙幣の枚数を思い出そうとしている。自分が潔癖だと思っているわけではないが、ユージンはそういう自分の感情を、もてあますほかなかった。

 再び街に出た日、ユージンは例の路地の近くを通った。無意識に、などと言い訳するつもりはない。何かしたいとか、そういう意図があったわけでもない。
「(馬鹿みてえだな、俺は)」
 そう自嘲しながら路地を覗き込む。彼女はいた。あの日と同じようにサンダルと四肢をぐったりと投げ出し、地面に座り込んでいる。片手にはくしゃくしゃになった紙幣が握られているが、それを数えようともしていない。ユージンが目を離せないでいると、少女は唐突に横倒しに地面に転がってしまった。
「……っ、おい!」
 気づいたら思わず駆け出して、少女を抱き起してしまっていた。ユージンは少女の肩を抱いて、頬にかかった髪を、なるべくそっとかきわける。
「……なんだ、これ」
 理不尽な暴力の跡など、見慣れていたはずだった。少女の頬は青黒く変色していた。
 ユージンは言いようのない感情に拳を震わせた。暴力なら自分も、CGSの少年たちもほぼ日常的にさらされている。
 誰かが笑いながらこう言ったことがあった。俺たち男は殴られ蹴られ、女は犯される。でも女はいいよな、金をもらえるんだから。
 そうかもしれないとそのときのユージンは頷いてしまった。なのに、この少女は犯された挙句に暴力まで――
「なに……あんた……」
 痛みのせいか眉を寄せながら少女が目を開ける。紙幣を握りこんだ片手を、空いた片手で必死に守ろうとしているのが痛々しかった。
「……あんた、こないだも見てたよね……? そういう趣味?」
 無理やり笑って見せようとするのが痛ましい。女である彼女は、CGSの年少組の少年たちと同じ、守ってやらなければいけないのだ。ユージンはそう結論付けて、彼女を睨んだ。
「そんだけ腫れてりゃしゃべるのもキツイだろ。黙ってろ」
 少女は怪訝そうな顔をする。
「何……? 客? 悪いけど一旦売上持って行かないと怒られるから、」
「客じゃねえよ」
「はぁ……?」
 だったらなんなのかと言いたげな視線を受けて、ユージンも言葉につまった。
 客じゃなければなんなのだろう。何ができるだろう。せいぜい、腫れた頬を冷やす氷か何かを、どこかからもらってくるくらいしかできない。
「……心配してくれてるの?」
「……」
 頷いたら、偽善者になるような気がした。
 心配する、なんてことが彼女にとって利になるわけがない。守ってやらなければと思っても、そうできる力も金もユージンは持ち合わせていない。
 なんでこんなことに。ユージンは舌打ちした。
「そういうんじゃねえよ」
 奥歯を噛み締めて、覚悟を決める。
「おい、いくら払えばいいんだ」


「ベッドでなんて久しぶりだな」
 少女の声が少しだけはずんでいる。黄ばんではいるが洗濯されたシーツを手のひらでぽんぽんとたたき、彼女はベッドの上に寝そべった。
「いいの? ここの代金ももらうことになるけど」
「わかってるよ……」
 高くついてしまった。ユージンは苦虫をかみつぶしたような顔をして、ベッドに腰を下ろす。
 一番安い宿の、一番安い部屋。それでも少年にとっては痛手だった。ギシギシと耳障りな音にも眉を寄せていると、背後から細い腕に抱きつかれる。
「なっ、ちょ、」
 ジャケットの中に腕を滑り込ませ、少女はユージンの体を撫でまわす。
「何? そういうつもりで来たんでしょ? ……へー、けっこう鍛えてるんだ」
 後ろから、耳元に囁かれる。そういうつもりではないと言いたくても、十代の体は馬鹿正直に反応してしまう。腹やら胸板やらをまさぐっていた白い腕は太ももを這い回り、付け根のあたりをもどかしく刺激する。
「時間だって限られてるんだから……」
 熱のこもった台詞が、例え金という対価を介したものであっても今は正直な欲の発露に思える。
「ねえ、抱いてくれないとあたしだってお金もらえないよ?」
「――」
 少女は、やさしい。正当化してくれるような誘いは甘く、少年は波のうねりに身を任せた。


 傷ついた体が少しでも休まるならと思っていたのに、結局自分も少女の体に劣情をぶつけるだけだった。ユージンはすべて吐き出した後に、自己嫌悪の感情まで吐き出したくなる。
 午後のぬるい日差しが、薄いカーテン越しに少女の姿態を照らしている。うす水色の、細い肩ひものワンピースの下にもいくつかの青あざがあった。
「いるんだ、たまに。殴りながらする男」
 のそりと起き上がりながら、彼女が笑う。
「寝てろよ」
 ユージンがそれを押し留めると、少女は筋肉質な腕をひっぱった。もつれるようにベッドに倒れこむと、ぎしぎしと不愉快な音が耳障りだ。二人向かい合うようにベッドに寝そべっても見つめ合うようなことはせず、ユージンはカーテンにできたいびつなしみを睨んでいた。
「あんた、はじめてでしょ?」
 ぎくりとした。少女は目を細めて、ユージンの髪を指で梳いた。
「わかるんだ、そういうの。あたしなんかでいいの?」
「……俺が決めたんだからお前には関係ないだろ」
「はは、そうだね」
 なぜか、少女はぎゅうとユージンを抱き寄せた。肉付きのよくない乳房が、笑うそのたびにわずかに震える。畜生、俺はもっと、胸のでっけえ年上の女がよかった。ユージンはそう思いながらも細い背中に腕を回してしまう。
 女を抱いて、気持ちよくなかったと言うと嘘になる。でも、聞いていたほど気持ちよくもなかった気がした。こうして肌と肌をあわせて、髪を梳かれているほうがずっと心地いい。子ども扱いされそうで、到底口にはできないけれど。
 同じことをしたら、少女も心地よさを感じてくれるのだろうか。
 ユージンは細い体を引っ張って自分の胸の中に少女をかき抱いた。繊細な髪に、ユージンはそっと触れる。地毛だと思っていた少女の髪は、単に脱色を繰り返しただけなのだろう、全体的にひどく傷んでいた。根本だけ、美しい栗毛が生え始めている。
 命は、たくましい。
「あんた、やさしいね」
 胸の中でぽつぽつとつぶやく少女の声が、泣きそうなときのそれに聞こえた。
「ありがとう、いたわってくれて。毎日、あんたみたいな男だったらいいのにさ。ねえ、名前は教えないでね。もしあんたと同じ名前の男に、この先抱かれることがあって、そいつがひどいやつだったら、悲しいから。だからあたしも名前は教えない。いつかあんたが恋人にする誰かが、あたしと同じ名前だったら惨めでしょ?」
 惨めなもんか。ユージンは口を開こうとして、できなかった。
 この世界に惨めじゃないものなんてあるわけがない。惨めったらしく生きて、泥と血にまみれて、それでも生きて――でも、いつか惨めに死んでいく。
 ああ、そんなのは嫌だ。嫌なのに、それを否定することも自分にはできない。
 ユージンの頬に涙が光る。
 くちづけた女の涙が、こぼれたのだろうか。

- end -

20151118