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077...階段を駆け上がる

 このごろジェーンの夢をよく見る。夢の中とは言え、死んでしまった人に会うことは、なんとなく嬉しいものだと思った。
 夢の中のジェーンは見たことも無いくらい、健康そのものを描いたような頬をしていた。おれがこの世界で見た彼女の頬はいつもやせこけていたものだから、思わずばら色のそのやわらかさに手を伸ばしてしまう。
 ――だめよシーザー。
 そういって羽箒のやわらかさで追い払うように、まるであの頃と同じように、ジェーンはおれの手を拒絶する。
 ――うつっちゃうわ。
 ジェーンは結核だった。
 薄汚れた北向きの窓から、彼女はずっと空を見ていた。この辺りに住んでいるのだから、彼女の家に金が無いことくらいおれだって知っていた。だからせめて、日当たりのいい部屋に移してもらってはどうだと言ったこともある。そう言うと、いや、おれが何か言うと彼女はいつも、かさついた唇を三日月のようにして、それでいて困ったように笑っていた。おれは彼女のことが好きだった。そんな顔をする女性を知らなかったから、かもしれない。彼女のまわりに浮かぶ死の影に惹かれていたのかもしれない。
 ジェーンは十九になる前に死んだ。「この窓辺で、シーザー、あなたが来るのを待っている時間が、わたし、とっても好きよ」 と、恥ずかしそうに言うものだから、ほんの三日前にそういうものだから、おれは走って来たっていうのに、こんなにも大きなヒマワリの花束をこさえて持ってきたっていうのに、ジェーンはもうそこにはいなかった。

 ――うつることなんてないだろ。第一きみは、もう……。
 きっと彼女は恥ずかしがってなんかいなかったのだろう。きっとあれは彼女の生命が最後に燃やした感情の迸りだったのだろう。もう、息をするのだって苦しかったに違いない。
 おれは、「あの言葉を聞いたあと“残念だけどセニョリータ、その時間はもう二度と来ないな。だってこれからずっと、おれはここにいるんだから”なんて言って、彼女の命が消えるのを待っていればよかったんだろうか」 なんてことを考えた。考えたところで、無駄でしかない。時間は戻らないし、人は生き返らない。
 太陽みたいなヒマワリは、一本残らず灰になった。
 ジェーンの冷たいからだは、海の見える墓場に埋葬された。
 その目でついに見ることのかなわなかった、母なる海の見える丘に。

 そして死んでしまったはずのジェーンは、相変わらずの、おれの好きなあの顔で首を振る。まるで「そうじゃないのよ」 と子供に言い聞かせる母親のようだった。
 ――シーザー、こんなところには来てはいけないわ。でも、来てしまったのね。
 ああ、花の香りがする。長いことタンスにしまっておいた喪服を引っ張り出したときの、あのかび臭いニオイもする。湿った土のニオイも、掘り返されたそれの中に潜んでいたミミズに驚く誰かの悲鳴も。
 ここは死者の国? 墓場なんだろうか。

 ――シーザー、永遠が怖い?
 ジェーンは不意にそんなことを言う。何か見透かされたような気がして、おれは一歩後ずさってしまう。
 ――それでいいのよシーザー。あたたかいもの、やわらかいもの、あなたはわたしが知らないことを、たくさんたくさん、知っている。わたしよりも、親しんでいる。
 ――なあ、ジェーン、おれはきみが言っていることがよくわからない。
 ――それでいいのよ、シーザー。わからないままで。
 ジェーンの体が天に召されるかのようにふわりと舞い上がる。おれは追いかけたいのに、恐ろしくて躊躇してしまう。いいやきっとそれだけじゃない。おれの体は理解しているのだ。死者を追いかけても仕方がないのだと。そしてジェーンは、おれと彼女の決定的な違いも十二分に知った上でこんなことをしているのだ。
 ――待ってくれ、ジェーン。 
 ――シーザー、あの頃はね、ろうそくを持った天使様が、毎朝わたしを見舞ってくれていたの。
 ――おれに受け入れろって、言うのか。
 ――七本のろうそくの火はいつも一つだけ灯っていなかった。わたし、怖かったわ。「あの、火をおかししましょうか」 って言うのがいつも怖かったわ。
 ――おれだって怖い。たとえきみがそこにいるとしても、おれは、
 ――シーザー。

 ジェーンの唇が、赤いくちびるがおれの名前を呼ぶために動いたのは、幻だったのか。


 おれはいったいいつから夢を見ていたのだろう。
 どこからどこまでが真実なのだろう。
 あの大きな赤い宝玉も、雪の山も、思い出すことすら困難だ。

 おれは目を閉じたまま何かを待っていた。永遠を過ぎた頃にきっと訪れるそれはおれを捕らえるものかもしれないし、おれを包む何かかもしれない。おれの魂はひどく頼りないまま、前後も上下もわからない、明るいのか暗いのかはっきりしない空間にあった。
 肉体などとうにないはずなのに、おれはじっと目を閉じていた。

 ――どうして、わたしなんかのところに来てくれるの?
 ――きみがとっても、さみしそうだからさ。
 ――……だめよ、触ったらきっとうつるわ。
 ――大丈夫。おれはきみを悲しませることはしない主義なんだ。
 ――わたしじゃなくて、女の子、でしょう?

 ろうそくを持った天使でもない。悪魔でもない。
 おれを包んだのはただただ、優しい光だった。光の網に捕らわれたようだった。
 これはきっと海だ。そっと目を開けると、しずかな青だけがどこまでも続いている。
 誰かに導かれたようで、おれはそっと手を伸ばす。その先には確かに何もなく、確かにあたたかなうねりがあった。

 ――おれはきみを、待たせてばっかりだったな。
 初めて触れる彼女は、海のようにやわらかい。

- end -

20140201

サントラ(というか ll mare eterno nella mia anima 〜Lunetta〜)をまともに聴きました記念。