100 Title



085...しゃがんで

この作品は、
ジパング(かわぐちかいじ)の草加拓海がどういうわけか現代日本にいわゆる逆トリップしてきたその理由も書かず、ヒロインの家で半ばヒモのような暮らしを数ヶ月続けていたそのあたりの描写もすっとばして書かず、微妙にお互いをわかりあってきたようなそうでないようなところからいきなり始まりますので、そのへんよろしければ、どうぞ。




かつて軍港があった町へ行こうと言ったのは、花子のほうだった。
どうしてそんなことを言ったのか彼女自身、わからない。わからないが、ここ数日物言わず思索にふける草加が物悲しく見えたのは事実だった。
海を見渡せる島には彼がかつて在籍していた旧海軍兵学校がある。もはや博物館然としたかつての学び舎を後にした二人の目の前には、物悲しい冬枯れの景色が広がっていた。
「ここは春になれば、千本桜が咲き乱れる」
ここというのは、なだらかな山道。昔彼はこの道を友人たちと供に駆けた。時に笑いながら、時に厳しく指導されながら。
かすかに白い息を吐き出しながら、草加は背後を振り返った。視線の先では花子が両膝に手をついて、荒い息を吐いていた。
「なんだ、情けない」
おおよその予想はしていたに違いないのだろう、草加は笑った。
花子はそんな彼の様子に反論のひとつもしたくなるが、如何せんこの様子ではまともに言葉もつむげない。
緩やかな山道は、いくら運動不足の花子でもたいした脅威ではなかった。脅威だったのは草加だ。おそらく花子がいなければ、彼は兵学校時代よろしくこの道を走って登ったに違いない。いや、実際に走っていたかは彼女は知らないのだが。
「毎日毎日、パソコンに向かっているからこんなことで息を上げるんだ」
頼むから平成の民間人を、昭和の軍人と一緒くたにしないでほしい。恨みがましい花子の視線を、なおのことおかしそうに草加は笑った。
ここまでどれだけ歩いたのか知る由もないが、放っておけば走り出しそうな草加の歩み――それもかなり速い歩みだった――につきあった花子の肉体は疲労のピークを迎えつつあった。腰を下ろして休みたいが、昨夜の雪が溶け残っている地面には正直、触りたくもない。
「ほら、もう少し歩くぞ。今度は君のペースで歩こう」
「や――さしくない!」
言った直後に咳き込んだ。草加は噴出しつつ、ゆっくりと歩み始める。
草加は優しくない、と、花子は思う。手も差し伸べてくれないし、ちっとも振り返ってくれない。ここまでだって、花子に無理させていることをわかった上できたのだ。休憩なしで。
放っておけばいいのかもしれない。でも、できない。
一つため息をついて顔を上げると、ちらちらと雪が降り始めた。
花子はマフラーをゆるめ、コートのボタンを一番上だけ明けた。冷たい空気がのど元に流れ込んで、思わず身を縮ませてしまう。
風邪をひくかもしれないと思った。風邪なんて、先を歩く草加には無縁の言葉のようにも思えた。
時折木枯らしが吹いて木々を揺らす。寂しく泣くようなさざめきに彼女の心もざわついた。
開いてしまった距離を取り戻そうと、花子は歩みを速めた。吐き出す息の塊は、彼女の頬を一瞬湿らせ、散る。
拓海、待ってよ。呼びかけようと思っても口が動かない。
言えばきっと、待ってくれるのだろう。本当は優しい彼が、自分一人を置いていくはずがないというのはわかっている。でも――

この桜並木で、彼がどこかへ消えてしまう気がした。

説明しようの無いいきなりの出会いが、説明しようの無いいきなりの別れで終わるなんてありえそうだと思った。そんなことが起こるとも起こらないとも、誰にも断言できない。
だから、先を急ぐ草加に必死で追いつこうとした。見えなくなるのが怖かった。
どうしようもないくらいに、彼を愛してしまっていた。
兵学校もこの山も桜も、ずるいのだ。自分が知らない彼を知っている。彼が思いを過去へ飛ばす度に、自分はとてつもない疎外感と焦燥感を覚えるのだ。
それがどうやっても解決できないことだとは知っているし、単なるわがままだと言ってしまえばそれで結論が出てしまう。
それでもこの人を愛してしまった以上、こんな気持ちになってもいいじゃないか――花子は切なげに眉をひそめた。
桜の木々は何も示してはくれない。

§

山頂付近の開けた場所で、草加は海を眺めていた。
遠くのほうには衛隊の艦がいくつか見える。
それを見つめて、彼は何を考えているのだろう。花子は何も言い出せないまま、草加の右側へ並んだ。
たとえば、元の時代へ帰りたいと思っているのかとか、そういうことを聞こうと何度か口を開きかけた。でも、言わなかった。
うじうじしているのが自分らしくなくて、花子は左手をふらふらとさまよわせ、
「ん?」
草加の右手を握った。
「なんだい、藪から棒に」
「……さむいから」
「そうか」
草加はまた笑った。花子は思わずしかめっ面を作ってしまう。手を握ろうとしていたのをわかっていたくせに、とぼけたようなことを言うのが悔しかった。いつだって彼はそうだ。精神的にはたしかに花子の祖父世代ではあるが、年齢自体は言うほど離れてもいない。ぬるま湯の中で育った彼女と、極度の緊張状態の中で青春を過ごした草加の精神年齢がかなり違うのはしょうがないのかもしれないが、それにしたって彼は花子を、いつだって子ども扱いするのだ。まぁたしかに、兄妹の年齢差としても違和感はない程度ではあるが。
花子は、それがもどかしい。
「寒いとこうして手をつなげるから、冬は――好き」
まるで告白したような気分になって、花子は頬を、といわず顔を赤く染めた。いい年してみっともないというのはわかっている。が、意中の異性にぎゅうと手を握り返されたら、よりいっそう赤くなるしかない。
「寒い寒いというわりに、君の手は熱いなあ」
思わせぶりなことをして、口ではのらりくらりとかわす。たまらなくなった。
「拓海のは冷たいね。左手も貸してごらんなさいよ」
草加は別段、拒むこともなかった。自然、向かい合って手をつないでいる、まるで子供の手遊びのようになる。
「はは、私だけ温まってしまっているね」
「あったかい?」
「ああ、暖かい」
瞬きした草加の睫に、雪の一片が被さり、溶けた。幻想的な場面だった。
花子は一歩、前に出る。そうして草加の両手をとったまま、自分の頬を包ませる。
「でもほっぺたは、冷たいのよ」
実際は、草加の手のほうが冷たかったに違いない。それは彼の顔を見ていればわかった。それに、こんな真似をして自分が何を望んでいるのかも、草加はわかりきっているに違いなかった。
「……何を待ってる?」
悪意のない微笑を浮かべ、優しい声色で彼は聞いた。やさしくないだけじゃなく、意地悪だと花子は軽く睨む。
「別に待ってなんか――」
「そう、じゃあ離してくれるね?」
間髪入れない返答に花子がショックの表情を浮かべていると、草加はいたずらっぽく笑って身をかがめた。
あ、と思った花子が咄嗟に目を瞑っても、何の異変も訪れない。
そろそろと彼女が目を開けると、果たして草加は彼女の肩に額を当てて笑っていた。
「な、な……」
「すまない。君、案外と初心だなと、思って」
担がれた。そう理解した途端に、悔しさと恥ずかしさと惨めさが花子を襲った。
「お、女に対してそういうことをするのが軍人ですか!」
「こういうときにだけ自分の性別を持ち出すのは感心しないな」
「あなたって人は――」
何も、続けるべき言葉が見つからなかったわけではなかった。
「……ふふ、やっぱり初心だね」
花子は瞬間触れた唇の柔らかさだとか、目を瞑りそこなって自分は馬鹿な顔をしていなかっただろうかとか、一体どういう意図で彼がこんなことをしたのかだとか、そういうことを一気にいっぺんに考えようとして、やっぱりできなかった。同時に色々なことを考えられるほど器用にできてはいないのだ。
「……からかってる?」
かろうじての言葉に、草加は目を細めて笑った。悲しい笑顔だった。
「……どうかな。一割くらいだろうか」
「残りは?」
すがるような気持ちだった。かすかな希望を与えられて、花子は心から願った。愛していると言ってほしかった。
「どこへ行けるかな、私は。どこへも行けないのかもしれない」
草加の台詞は質問への答えとは思えなかった。もしかしたらそういう感情が、彼のいうところの残りの九割なのかもしれないけれど。
花子は再び彼の手を握る。さっきよりも体温が上がっているように思えた。花子の熱は、皮膚を伝わって草加のそれと溶け合ったようにも感じられた。
「ずっとここにいて、いいじゃない」
草加は指先をかすかに動かした。遠くには見知らぬ艦がただ停泊している。
このまま時を止めてしまっていいのだろうかと考えて、彼は静かに笑みを浮かべた。時は動くも止まるも無いと思ったからだ。ただ流れていくだけ。そしてそれは、自分が流されていくこととはまったく異なるのだから。
「花子、」
聞いたことのないくらい優しい声に、いっそ花子はおびえた。草加はおかまいなしに木々を仰ぎつつこぼす。
「春になったら、もう一度ここへ来たいな」
「うん……いいけど……」
怪訝な顔をする花子の額に、彼はあごを乗せた。身長差のせいでそうなるのだ。
「そのときは、握り飯を作ってくれ。鮭と梅干と昆布と、それから……あれは、なんという具だったか」
「……エビマヨ?」
「ああ、それだ」
いつか草加が、コンビニで買ったおにぎりを食べて、いたく感動していたのを花子は覚えていた。思わず破顔して花子はうなずく。
「うん、がんばる」
「ああ。そうしてそれを、毎年の恒例にしよう」
驚いて身をこわばらせた花子は、もうそれ以上何も言えなかった。震えるようにしてかろうじて立っている彼女に、草加は身をかがめて唇を寄せた。
しんしんと降る雪の中、その一点だけが暖かだった。

- end -

20130524

オムニバス的なものを書きたくなった衝動をいったん吐き出してみました。大変もうしわけございませんでした。