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086...くすぐられる

目を開けると白い光に満たされた部屋の中を埃がちらちら舞っていた。
朝か、と、思ってひとつ寝返りを打つ。カーテンは就寝前に閉めた。それが開いている。ああそうか、と、思い出したのは、隣で寝ているはずのジェーンの、とろけるような感触だった。からだの、色々な部分の。
思い出してしまいそうな甘い罠を忘れさせるようにだんだんとはっきり聞こえてくる音は、ジェーンがよく見ている朝のテレビ番組だった。ぼんやりとした頭でそんなことを考えていたら、今度はコーヒーの香りが近寄ってくる。小さな足音と同時に。

「ルーファウス、」
ぎし、と、ベッドが軋んだのは彼女が腰を下ろしたからだろう。サイドテーブルにコーヒーを乗せたトレイを置いて、彼女の指先は私の額をなでる。前髪を払うように。穏やかな起こし方だなと笑いながら、けれど顔をあげたりはしない。目も閉じたままジェーンの指先にされるがままだ。
「起きて。コーヒー、冷めちゃう」
ジェーンの入れるコーヒーは悪くない。私がこの部屋からコーヒーメーカーを撤去する程度には、悪くない。褒めたつもりの言葉にジェーンは、「それって好きってことじゃないの?」 と、拗ねた。ずいぶん昔の話だ。まだ何もかもが手さぐりだったころのこと。
「……また淹れてくれればいい」
声がかすれる。さんざ愛された昨夜のジェーンじゃあるまいし。私は笑った。
戸棚から道具を一式出して、ミルで豆を挽いて、ドリッパーをセットして、沸かした湯をそれを通してサーバーに落とす。数十分の時間を、何度でも私にささげてくれ。何もかも手に入れたとしても唯一自由にならないジェーンの時間を、一日どれくらい私は奪えるだろうか。
「起きてるなら今、飲んで」
ジェーンが私にあまり近寄らないのは、目覚めた獣の獰猛さを知っているからに他ならない。かつては不用意に手を伸ばし、その手を引かれて甘いシーツの波間におぼれた。彼女にとってはいい記憶ではないらしい。もし味をしめているのなら、この指先はもっと他の動きをしているに違いないから。
「飲まないならもう淹れてあげませんからね」
うっすらと開けた目で、ジェーンがぷいと顔をそらすのが見えた。そのまますたすたと歩いてテレビのほうへ行ってしまう。お優しいことだ。私が脅しに屈する場面は見逃してくれるらしい。なまぬるいシーツをのそのそと這い出て、ああ、私は幼いころのことを思い出した。母さん、母さんと熱に浮かされたようにつぶやきながら、遥かなる影を求めた。

「ジェーン、」
いつもより苦みの残るコーヒーを一口すすり、呼ぶ。一言だけでいい。彼女はどこへいても私の元へ帰ってくる。
「なぁに?」
起き上がった体が何も身に着けていないのを、ジェーンは笑って咎める。こうして笑ってくれるだけでいい。それだけで私は満たされる。
腕に抱えたジェーンは、少しコーヒーの香りが移っているようだった。
「今日のは少し、苦い」
かまってほしがっている子供のようだと、自分でもわかっている。子供でいい。男なんて、女の前では子供だ。やわらかな体に鼻をうずめて、後ろから抱きかかえたジェーンは温かかった。そして彼女は、脈絡もなく笑う。
「なんだ?」
「ううん、なんでもない。あのね、テレビでさっき、ラッコの求愛行動やってたの」
「ラッコ?」
ジェーンは目を輝かせていた。よっぽどおもしろかったのだろう。
「うん。ルーファウス、知ってる? ラッコって、鼻にかみついて求愛するんだって」
ジェーンはふざけて、私に噛みついてきた。と言っても、片手をまるでけものの口のようにして、私の鼻を抓んだだけだ。きゃっきゃと嬉しそうに笑うジェーンはこどものようだ。こどものように、うつくしい。
「それはまた、暴力的だ」
カップをサイドテーブルに放り出し、空いた手のひらは彼女の額を覆うように撫ぜる。生え際のやわらかな髪もまるでこどものそれと同じだ。
「そんなことないかもしれないよ? かるーく噛んでるだけかもしれないし。あ、それでね、テレビに夢中になっちゃって、コーヒー、いつもとちょっと違うかも」
ごめんね。
ジェーンは愛らしく首をかしげた。成程。私のコーヒーよりも哺乳類の生態のほうが気にかかっていたわけか。
「そうだな、軽く噛んでいるだけかもしれないな。こんなふうに――」
歯を立てる。どこがいいかなと考えて、やっぱり耳だなと決めた。なんの曇りもないすべすべとした肌が入り組んで、朝日が作り出した影が螺旋を描く。
「あ、」
「求愛行動としては効果的だな」
「ちょ、まって――ふ、あ、ぁ」
「きみはここが弱い」
腕の中から抜け出そうとしても無駄だ。私が彼女を愛撫すればするほど、彼女の力は抜けていく。外耳の形にそって舌を這わせたり、わざとらしく息を吐いてみたり。
「や、もう、仕事――」
まだそんなことを言う余裕があるらしい。
「どうでもいい」
「よくな……ひっ!」
ジェーンは、耳の中に舌を入れられて体をくねらせた。途切れ途切れの熱い吐息を、感心すべきことに隠そうともしない。いい子だ。もっと愛してやろう。
「あっ、それだめ……」
「駄目じゃないだろう? 昨夜は、こういうのはしなかったから」
「だからって、いま」
「いやか?」
さも残念そうな声を装うと、ジェーンは首を横に振った。
「じゃあ言ってみろ。耳を噛まれるのが好きだ、って」
「う、そんなの、」
「好きだろう?」
落ちてくる髪をたまにかきあげてやりながら、何度も何度も余すところなく愛してやる。耳だけじゃない。お前が悦ぶことはなんだってしてやる。
「うっ、ん……す、き」
「なら、ここは?」
「あ、ンっ、そこも、すき……」
ジェーンはとろんと惚けた顔であえぐように肯定を繰り返すだけだった。もう抵抗など考える余地もないくらいに溺れている。衣類をはだけられ、体中を撫で回されたりつままれたり、あるいは噛まれたり。ジェーンはそのたびに心から嬉しそうな悲鳴を上げて私を煽った。
「ここは――聞くまでもないな」
ぬるりとした欲の正体に、お互いむき出しの本能で応じる。
「すき……ルーファウス、だいすき」
「ああ、私もだ」
しなやかに伸ばされた腕にからめとられて、結局朝の光から逃げるようにシーツの海に飛び込んでしまう。まるで情欲の獣に誘われている気がした。どちらがどちらに囚われているのか、まるでわからなかったし、第一どうでもいいことだと思った。

- end -

20130410

某朝の番組で知った、ラッコの求愛行動が「鼻を噛む」だということ(本当です)に大きな衝撃を受けて出来た問題作