100 Title



087...車に乗り込んで

 ジェーン・バーキン嬢は去った。
 色づいた木々は街を彩り、俺はゴロワーズを咥えたまま、石畳を靴のつま先で叩き続ける。くすんだ赤だとか黄色、それから暗い茶色の、要するに地味でぱっとしない色ばかりの枯葉をかき分けて進めば、過去を遡ることすら可能に思えた。
 あのころはよかっただとか、輝いていたというのに、だとか、そんな情けない感情も湧いてこないわけではない。しかし湧いて出てきたところで、それをいちいち拾い上げてやるわけにはいかなかった。

――Adieu, juste oublier tout.

 俺は彼女の決断に敬意を表している。俺はジェーンの望むようにしてやりたいのだ。だから俺は湧き上がった感情すべてを凍らせて、それを粉々に砕いてゆく。未練がましくゴロワーズを吸うたびに、灰となったそれが舞い落ちるように。砕け落ちたものは、枯葉といっしょに掃いて捨ててしまう。思い出と後悔と共に。そう、できもしないくせに。
 枯葉が街を覆い、木枯らしが服の隙間から入り込む。
 自分がまだ、幼いと言っていいような歳だった頃を思う。
 煙草を吸い始めたころ、読んだ詩のことを思い出した。
 酒の味がわかるようになったころ、酒場で聴いたシャンソンを思い出した。
 思い出は朽ちるままにと願ったジェーンの、最後の祈りが俺には理解できない。
 俺は多分、あの詩歌のように美しい物語を紡げないだろう。

「さよならだ、ジェーン」
 金の粉をまぶしたようなまつ毛は震えなかった。俺はそのとき、己の置かれた立場に酔っていたかもしれない。酔っていたことを否定できない。
 彼女はコモ湖の別荘地に、夏の間だけやってきた世間知らずの御嬢さん。俺はお姫様をたぶらかした罪深い詐欺師とでもしておこう。
 悲しい話だ。愛し合っているのに二人は別れなければならない。安い映画なら一本作れそうだ。俺ならそんな三文芝居、金をもらっても観たくはないがね。
 ジェーンが別荘を去る日、メガーヌの中で俺は予定調和の別れを切り出した。何もかもがいつも通りだった。滞在から一週間が経つ頃にはクルージングにもいい加減飽きていたし、そもそも湖自体を見飽きていた。対岸の街まで車を走らせることは彼女の退屈をほどよく忘れさせたし、スパイ映画よろしく後方十メートル位置をキープする、彼女のお目付け役は俺の退屈をほどよく忘れさせてくれた。なるほど、箱入りの御嬢さんだと笑いたくもなるだろう。おかげで俺は、ジェーンの柘榴色の唇にも、ばらを抱いたような頬にも触れちゃいない。辛うじて触れられたのは、氷のような指先だけだ。
 尾行つきのデートなんて人生で何度とはできないだろうから、俺は俺でそこそこ楽しんでもいた。こういう非日常すら、ムードを盛り上げてくれる何かなのだと思いながら。

 さよならだ、いとしい人。だけど俺のことを忘れないでくれ。俺もきみの姿をいつまでも心に残そう。そうすれば時間という名で寄せる波も、二人の足跡を消しはしないだろうから。

 よくもそんな台詞がすらすらと出てきたものだと、自分でも額を覆いたくなる。今時、素人の映画脚本でもこんな歯の浮くような言い回しはしないだろう。何が時間という名の波だ。何がいとしい人だ。俺は彼女のことを、これっぽっちも本気では愛していなかったというのに。
 そのときまでは、そう思い込んでいたというのに。
 彼女は、自分の頬に伸ばされた俺の指先をやわらかな動作で、しかしはっきりと拒んだ。

 いいえ、わたしはあなたを忘れます。あなたの胸に、傷を残す楔として残りたくなどありません。わたしの思い出も名前も、どうか秋の枯葉のように、朽ちるがままになさって。

 うぬぼれていたのかと問われれば、そうだったとしか言いようがない。夏の間、俺は彼女の熱烈な思いを一心に受けていたと思い込んでいたし、ジェーンの眼差しも言葉も身振り手振りも、俺に疑いを持たせるものでは決してなかった。
 もしも恋と言うものが、より強い想いを抱いたほうが負けだというのならば――
 優位に立っていたと思っていたのだ。俺は彼女を、言葉は悪いが、もてあそんでいたつもりだった。
 だから、彼女の言葉に虚をつかれたのは事実だ。
 彼女は俺の三文芝居を心の底から信じ込み、その上で忘れようなどと言ったのだろうか。それとも自分が弄ばれていることを、最初からわかっていたのだろうか、と。

 意思の強そうな眉を思い出す。その下の双眸が、じっと俺を見つめていたのを思い出す。
 見つめたまま、彼女が言った言葉を思い出す。
「わたしもあなたのように、心の赴くままに生きられたらよかったわ」
 にっこりと笑った顔には滲むような哀しみが張り付いている。彼女の言葉は己の不自由さを嘆いたのだろうと思っていたし、俺の想像は正しかったに違いない。ただ彼女が何を不自由だと思っていたのかは、俺にはわからずじまいだった。婚約者がいることを知ったのは、かなり後になってからだった。
 小鳩たちがはばたいていく。ジェーンの顔に、肩に、小さな影を落として夏の湖を飛び立つ。
「だけどこんなに楽しい日々は初めてよ。ありがとう、プロシュート」
 流れた髪を耳にかける様が美しかった。憂うように微笑んだ顔は漣を残す水面のようだった。
 俺はあの微笑を信じたい。そして俺は、あの微笑を裏切ってなどいない。

 フェンスにもたれて愛を囁く男女がいる。淡々と風景を描く画家がいる。憂いを知らぬ子供たちが走る。秋の街はただ静かに、そこにある。
 煙草はすべて灰と消えた。北風は枯葉をさらっていく。吹き溜まりにかき集められた夏の断片は、誰かが手を下すまでもなく朽ち、土に還っていくだろう。いや、間違いなく、還るのだ。季節の流れは不可逆であり、夏をなかったことにすることも、次の秋から目を逸らすこともできない。
 俺はジェーンを止めることもできなかった。止めることなど考えもしなかった。一度色づいた葉が落ちぬよう、枝にくくりつけるような愚者などいやしないのと同じに。

――さようなら。すべて、お忘れになって。

 ジェーンは俺をだましていたわけではない。彼女は誠心誠意、俺を愛していたのだと思う。その上で、忘れると言ったのだ。意思の強い眉も、はきはきとした言葉をつむぐ唇も、何もかもが変わらなかった。それが彼女の、精一杯の強がりだったのだろうか。
 ジェーンは去った。彼女がメガーヌのドアを開閉するくぐもった音が、未だに耳の中に残っている。
 俺はジェーンに尋ねてみたい。なぜ、長く持続する恋こそを、人はすばらしいというのだろう。なぜ、たった数日の恋を、人は軽んじるのだろう。
 どの道俺と彼女は、添い遂げることも叶わない二人ではあった。だからこのひと夏の思い出が、たとえひと夏という限りあるものだったとしても、すばらしいものであったと信じてみたいのだ。
 愛してなどいなかったはずだ。なのに今の俺は、もう一度君の笑顔を見たいと願っている。心の底から、求めているのだ。手に入らなかったからだろうか。もう二度と会えないから、だろうか。俺にはわからない。
 なぜ忘れろと言う。なぜ忘れなければならない。考えれば考えるほどに、夏の日差しは鮮烈なものとして記憶に刻まれる。もう二度と得られることもない高揚を、もう二度とこの身から離れぬ傷みを、俺はこの先ずっと背負っていかなければならないのか。
 ジェーン、君も俺と同じに傷を抱えてしまったからこそ、忘却の道をあえて示したのだろうか。できもしないことだと知っていたから、君の声は初めての嘘に震えていたのだろうか。もはや『そう信じたい』のか、『そう確信している』のか、俺にすらよくわからない。震えていた声の温度も、その裏に隠された真意も、時と共に消え失せるに違いない。
 しかし最後にわずかににじんだ、君の目じりの青を、俺はいつまでも思い出せるだろう。

――Adieu, juste oublier tout.

 俺は再びゴロワーズに火をつける。朽ちるに任せろというのなら、この痛みこそが消えてなくなってしまえばいい。煙草が灰に姿を変えるように、感情は別の感情へとは還らないのだろうかなどと、甲斐のない悩みなど抱えたくないのだから。
 ただ季節は何も言わず、静かに過ぎる。
 通りは秋一色に染まり、枯葉は誰の目に留まるでもなく、ただ吹き流されていた。

- end -

20140802

"Les feuilles mortes" ...Yves Montand