100 Title



091...逃げて追って

「キョウジさん」
 もう誰も呼ばなくなった名前で呼ばれて、ためらいつつも足を止めてしまう。花子の声だというのはすぐにわかっていた。
 俺はガキが嫌いだ。関わり合いになりたくない。花子はガキだ。だから俺は花子と係わり合いにはなりたくなかったし、すぐには立ち止まらなかった。振り返ることもしたくはない。したくはないが、そのうち相手をしてやらざるを得なくなる。ガキというのは――いや、花子は遠慮を知らぬゆえか、銀子の躾がなっていないのか、真正面からぶつかってくることも少なくない。もちろん物理的な意味でだ。それならまだ口先だけであしらってしまうほうが楽というもの。俺は無駄な労力が、大嫌いだからだ。
「キョウジさん、もう、キョウジさんってば!」
「うるせーな」
 いい加減面倒になって振り返る。そうしなかったとしても、血気盛んな花子は俺の眼前に躍り出るくらいはしただろうが。
 花子はここ二年ほどでずいぶん背が伸びた。見るたびになめらかな輪郭になっていくのは、まぁ、女らしくなったと言えばそうかもしれない。が、所詮はまだまだ乳臭いガキ。俺にちょっかいを出してくるのも今に始まったことではないが、のらりくらりとかわしていればそのうち飽きてどこかへ行くだろう。
 俺の考えも都合もお構いなしに花子はへらへらと歩み寄ってくる。
 天海市の湾岸倉庫街は人気もない。ざぶんと寄せる波の音が聞こえた。それくらい、ここは海に近い。大体、時間も時間だというのにこいつは女一人でどういうつもりなのか。まぁそもそも天海市に来ていることも知らなかったのだが。
「おまえ何しに来たんだよ」
「お手伝い。銀子さんに呼ばれたの」
「手伝いねえ……」
 花子も一応はサマナーだが、所詮「一応」 がつく程度のものだ。ろくな悪魔は使えもしないし、レイのように術や魔法を使えるわけでもない。
「お前に手伝われるほど耄碌したのか、銀子は。嘆かわしいな」
「違うよ、わたしが銀子さんを手伝えるまでになったのよ」
「そうかい」
「そ!」
 あほらしい。胸を張った花子は放って、俺はフィルターぎりぎりまで吸い終わった煙草をそのまま海に投げ捨てる。花子はそれを見咎めて、コンクリートの向こうに波打つ闇を覗き込んだ。
「キョウジさん、天海市はポイ捨て禁止条例あるのに」
 俺は花子のクソ真面目が口先だけだと知っている。こいつはただ単に、話題が欲しいだけのガキなのだ。
「海は対象外だろ」
「そうなの?」
「そうだ」
「ほんとに?」
「大人の言うこと疑ってんじゃねえよ」
 実際のところ海が別なのかどうなのか知らないし、知る気もない。どうだっていいのだ、そんなことは。
 俺は世間一般のルールの中には生きていない。尤も、こんな生き様になる前も、規則だとかそういうものには無頓着ではあったと思うが。土台こんな子供に自分の半生を語る気もないし、思想信条を述べる道理もない。
 俺の心中を察したのか、それとも嘘に気づいたのか、花子は腕を組みつつ嘆息した。
「またわたしのこと子供扱いする」
 それには答えることをしなかった。求められてもいないからだ。
 大体、この文言から始まる子供だ大人だの押し問答は毎度のことなので飽きてもいる。ばかばかしい。繰り返すが俺は、無駄な時間は使いたくないのだ。
 新しい煙草に火をつける。海風に乗った煙を受けて、花子は何故かくしゃみを一つした。
 それだけだった。何も言わない俺の態度を、花子は追求するでもなかった。
 なるほど。
 多少は、大人になったのかもしれない。
「……もう行かなくちゃ」
 銀子とどこぞで待ち合わせでもしているのだろう。手首の内側を確認し、花子は寂しげに零す。華奢な腕時計だった。レイがつけているものほど高価ではなさそうだが、花子がおいそれと手に入れられるようなものでもないのだろう。
 レイの居場所を教えろと言ってもよかったかもしれないが、花子のことだから「知りたければこっちの言うことも聞け」 くらいは言うに違いない。俺は結局、口を開かなかった。大体、花子は俺の居場所を探し当てたというのに、この俺様が巫女の居場所一つつかめないというのは癪に障る。ガキに手助けを求めるなんてもってのほかだ。
 またね、と花子は笑った。結局何をしに俺に会いに来たのかわからず仕舞いだったが、どうせ顔を見に来ただとか、くだらない理由に違いない。ガキは無駄ばかりだ。そして女も、意味不明な無駄が好きらしい。
 ぼう、と、大きな汽笛が聞こえる。間延びしたそれが途絶えると、立ち去りかねた花子の大きな目がこちらを向いていたのに気が付いた。
 やっぱり子供だ、と思う。花子の両目は寂しさも何もかも隠そうとすらしていない。感情の迸りに呑みこまれるようで、俺は目を逸らした。逸らしても見つめられている事実は変わらない。俺を見るな。俺をそんな目で見るんじゃない。
「キョウジさん、」
 花子が何を言おうとしたのかは、わからない。
 俺が何か言ってやろうかと思ったのは、多分気まぐれだろう。
「……気ぃつけろよ。お前、ドジだからな」
「一言多いんだってば。……でも、ありがと」
 もう少し色気のある笑い方でも覚えろよと言いたくなった。言わなかったのは面倒だったからだ。別に何かの予感におびえたわけでもないし、こいつを期待させて無駄に傷つけたくなかったからでもない。
「キョウジさん、この仕事終わったらデートしようね」
 花子の髪は夜風に吹かれ、さらわれた。長いとも短いともつかないそれは、ひどく柔らかそうに見える。
 あやうく煙草をかみしめそうになるのを堪え、そのぶん眉間に寄せる皺を深くし、心底嫌だと思っているのが伝わるように「しねえ」 と言うのだが、ガキは人の心を慮るということを知らないらしかった。
「しょうね! 約束!」
 何故そうも、未来を信用するのだろう。何故未来が、明日が、明るいものだと決め付けられるのだろう。
「……俺は多分別の街に行く。そのころには顔も、体も、変わってるぞ」
 今の体もしっくりこないのはとうに把握していた。そう長くは使わないだろうし、次はどんな顔になるのかなど俺にわかるはずもない。
「またどこか、別のところに行くの?」
「ああ」
「どこに行くのかも、どんな顔になったかも、教えてくれないの?」
 レイはともかく、花子には教える義理もない。
「ああ」
 なりゆきとはいえこれで諦めてくれるかと思っていたものの、想像以上に花子はタフだった。ぱあっと笑みを浮かべると、問題など露程も感じないような声音で笑う。
「でも大丈夫だよ、わたしわかるから。キョウジさんがどんな姿になっても、どこにいても。だって……大好きだもん」
 何言ってる、と問い返す間もなく、花子は駆けて行った。軽やかな駆け足が聞こえなくなると、再び汽笛の音が海にこだまする。
 どんな姿になっても、どこにいても。
「……ホラーじゃねえか」
 煙草を落とすかと思うほど空いていた口を辛うじて閉じたはいいものの、こぼれた言葉は戻らなかった。
 アホのような台詞がこぼれる程度には、俺は動揺していたのかもしれない。それを聞かれなくてよかったと安堵するくらい俺は気を抜いていたのかもしれない。
 所詮はガキの言うことだ、次に会うときは忘れているだろう。いいや忘れていてほしい。忘れろ。
「……」
 しかしどうにも妙な胸騒ぎがする。そろそろ次の体を探し始めようかとも思うが、何故かそれすら、無駄な努力じゃないのかとも思えてきた。
 きっと次に花子に会ったときには、あいつはまた成長しているのだろう。色気のある笑い方でも覚えているかもしれない。やわらかい髪がもっと伸びているかもしれない。
 もしも再会したとして、また同じような言葉を囁かれたら――
 げんなりするしかない。
「……逃げるか」
 俺はガキが嫌いだ。無遠慮にこっちのテリトリーに入り込もうとする。
 俺はガキが大嫌いだ。何故ならこの言い訳も、来年には使えないかもしれないから。

- end -

20140703

銀子様の呼び方が不明なまま書いてしまいました(ひょうきん懺悔室)