狂おしい恋の果て

第四話


 自宅の中庭の片隅にエオリアの墓がある。
 今日は、母が植えさせたバラで白い花をつけるものを選んで墓前に供えることにした。
 剪定ばさみをもった俺が珍しいのか、弥子は目を大きくしていた。今日の彼女は、レトロな花柄のスカートを履いている。
「なんだよ」
「ん? ううん、別に……強いて言うなら剪定ばさみが意外にサマになっているというか」
「おまえもバラを持ってるのは意外にサマになってるぞ」
「失礼だなあ」
 おまえが言えたことかと言いたいのを飲み込んで、俺は十数本のバラをエオリアの墓前に供えた。
「いい香り」
 弥子は目を閉じて、一輪のバラの香りを吸い込んでいる。本当に意外にサマになるというか、ちょっと信じられないくらいだ。成長した彼女の姿に戸惑わなかったわけではないが、それは『そういう』意味では決してなかった。
 容姿が悪いわけではないが、ずば抜けて美しいわけでもない。良くも悪くも印象に残らない弥子がバラを包み込むように握る姿を、しかし俺は目に焼き付けてしまうのだろう。
 それがなぜか、悔しい。
「何本か持って帰るか?」
「え?」
 目をあけてしまえばいつもどおりの彼女だった。なんなんだ。『黙っていれば』ではないが、『目を閉じていれば』それなりに見えるということもあるのだろうか。
「こんなに咲いてるんだ。数本持って帰ったって構わない」
 しかしあまりたくさん持っていると、バラのほうが主役のようにも感じられそうだ。
 一輪だけでいい。それだけで、十分綺麗だ。
「聖司が育ててるの?」
「そんなわけないだろ。母だ」
「ああ、お花の先生……だった、もんね? 今も?」
「今は違うけど、お前よく覚えてるな」
 確かに母はかつて、趣味の延長みたいなもので、一時期生徒を取っていたことがある。結局しばらくして、父の仕事に随伴する都合と合わなくなり、惜しまれながら閉塾してしまったけれど。
 俺だってふとした瞬間に「そういえば」と思い出す程度なのに、家族でもない弥子がよく覚えているものだと思う。
「大事にしたい思い出が少ないと、忘れることも少ないのかもしれないね。エオリアのことも、忘れてない」
 墓前で手を合わせながら、目を閉じて何を思っているのだろうか。案外何も考えずに、天国のエオリアと会話しているのかもしれない。
 空が低い。今日も雨になりそうだ。
 無言のまま立ち尽くしていると母屋の方から、お茶の用意ができたからと母に呼ばれた。

『思い遣ってくれる人がいるだけで、人は幸せなものよ』

 日ごろは食事の用意も何もかもシェフや家政婦にまかせっきりの母は、時折親しい客人が来訪すると人が変わったようにもてなす準備を始めてしまう。あれは一種の病気に違いない。今日も弥子が来ることを知った母は「どうして早めに言わないの」と俺をひとしきり責めた後に「もてなし病」を発症させ、厨房に篭りだした。何かしらの下準備だろう、ご苦労なことだ。
 弥子がこの街へ帰ってきていることは随分前に伝えていた。母はちょっと驚いたような顔をして、無理に聞き出すまでもなく俺が話し出すのを待っていたが、そのときはまだ俺だって何も、弥子から聞かされていなかった。海へ行った日の翌日、朝食を摂りながら「あいつは一人暮らしをしているらしい」と言ったせいで、弥子は本日うちで夕食をとるはめになったんだろう。ろくに家事もできなさそうな弥子がきちんと食事をしているのか心配しているに違いない。別に俺は、責任なんか感じちゃいないが。
 エオリアの墓参りと、雨だれを聴かせるのと、それだけだったはずの予定に変更が生じても、弥子は申し訳なさそうな顔こそすれ、特に困ってはいないようだった。

 弥子は透明な耐熱グラスの中で、茉莉花茶の茶葉が開くのを凝視している。どこぞの誰かから貰ったという、大方中国だか中華街だかの土産物だった気がする。ふわふわと漂う花の香りは、中々に新鮮だった。透明なグラスも夏に合う。肌寒くなるのを見越して暖かい茉莉花茶にしていたのか知らないが、夏に熱いお茶を飲むのも悪くはない。
「あら、最近は全然晴れないわねえ」
 雨が降り出した。
 母はショールを直し、弥子は雨だれを眺めていた。

 自室に弥子を招き入れると、彼女が部屋の中を見回すより先にガーファンクルが歩いてきた。弥子は「あ」と短く声を上げてからしゃがみこむ。
「美人になったねえ」
 おそらく頬を緩めているだろう弥子をかわし、じっと見つめているガーファンクルは俺の足元に擦り寄ってきた。
 残念そうな顔をしている彼女に、抱き上げたガーファンクルをそっとよこす。身じろぎをしても抵抗はしない。初対面の相手にだまって抱かれるほど人懐こい方ではないから、ガーファンクルも何事かを思い出したのだろう。
 そう、思いたい。
「ありがとう。……ふふ、ガーファンクルは聖司が好きなのね」
「一応主人だからな」
「男冥利につきるね」
 ぐっと言葉に詰まって、返事が一瞬遅れた。瞬きをしながら顔を上げる弥子の動作がやけにゆっくりに見える。
「なんでそうなるんだよ」
「だって、この子女の子でしょう」
「……は?」
 思いっきり変な顔を作ると、弥子はガーファンクルを指差しながら「あれ」と声を上げた。
「男の子?」
「……覚えてなかったのか?」
「てっきり……ああ、でもそれならよかったの。男の子の名前をつけちゃったって、どうしようって思ってたから」
 弥子はガーファンクルの喉をごろごろとさせながらソファーに腰を下ろした。
 ガーファンクルは人の名前なのか。
「そうよ。天使の歌声よ」
 尋ねて返ってきた答えを聞いても、誰のことだか俺にはさっぱりわからない。いい気分も、しない。

 弥子は何でも覚えているようで、忘れそうにないことを忘れている。
 でも何を忘れて何を覚えているかなんて、そんなものは個人の勝手だろうし、共通項を持っている俺たちでも微妙に違っているんだろう。
 俺も弥子も覚えていること、俺が忘れて弥子が覚えていること、俺が覚えていて弥子が忘れていること、俺も弥子も忘れてしまったこと。
 何が一番多いんだろうか。
 つまらない男のプライドというやつかもしれないが、俺は弥子よりもずっと多くを覚えていることを願った。それはもしかしたら、弥子を一人、思い出の中に取り残しておきたくないという不遜な配慮だったのかもしれない。あるいは、罪悪感から逃れようとするずるさゆえのものかもしれなかった。

 弥子のご希望通りにもったりとした手つきでイライラする雨だれを弾きながら、窓を伝う水滴を眺めていた。
 雨が降っているのに雨だれなんかを弾いているのは俺でなくともきっと陰気な心持になるだろう。きっとイライラするのはそのせいでもある。

 あの頃、弥子がうちに来た日や音楽教室の帰りに雨が降ると、うちの運転手は俺と弥子を乗せた。俺がそうしろと言ったんだと思う。弥子はお礼にと言って、例の飴をくれた。イチゴ味とリンゴ味、どちらがいいかと聞いてきて、俺はリンゴ味を選んだ気がする。包み紙をうまく破けなくて、そうだ、あの頃は弥子のほうが大きな手をしていた。持ち手の棒にからみついた包み紙を手馴れたようにねじって、にっこり笑って俺に手渡す。
 あの時はまだ、あいつの首には何も――いや、家の鍵がかかっていた。冷たくて重い、無骨な鍵がぶら下がっていた。メダイユをあげたのは、多分それからずっと後のことだ。
『まだ、おうちに帰りたくない』
 車の中で、弥子は毎度同じことを繰り返す。
『どうして』
 弥子はいつも、俺がそう聞くと黙り込んだ。毎回懲りもせず尋ねる俺はきっと、答えを聞きだそうと必死だったに違いない。
 なんで泣きそうな顔をしているのか知りたかった。何が悲しいのか知りたかった。もっと弥子のことが知りたかった。弥子よりも多くのことを知っていたかった。弥子よりも多くのことができる自分でありたかった。

 何のために?

 あのころの弥子は誰もいない家に帰るのを嫌がっていた。ああ、今になって、弥子の話を聞いてやっと俺は理解した。きっと彼女がピアノ教室に通わされていたのも、家に両親が不在だったからに違いない。
 記憶の中の少女の顔が、ずっと陰惨に思えてきた。そんな顔をするな。泣くな。自分には何もないような口ぶりをするな。

 たった一輪のバラの花びらがほどけていく。はらはらと崩れ落ちる桃色が、粉々になって消えていく。

『だったらうちで遊んでいけばいい。ゆうはん、たべていってもいいぞ』
『……ううん』
 ふるふると首を横に振って、弥子は灯りの点らない家に消えた。
 それは俺の幼心にも確実な恐怖と、泣き出したくなるような頼りなさを植えつけていった。

“せいじくんは、いいな”

『かあさま、どうしたら弥子はなかなくてすむ?』


 指が止まった。
 俺の膝の上にガーファンクルが飛び乗ったからだ。弥子から逃げてきたんだろうかと思ってソファーを見ると、弥子は空虚を抱くように腕を丸めたまま眠りこけていた。
 ほうら、こんなにのろのろした弾き方をさせるから居眠りなんてするんだ。
 吐き出そうとしたため息を、俺ははっと飲み込んだ。
『仕送りのお金は、もっと大事なことに使うの』
 学校とアルバイトとで疲れているんだろう。夏休み中は一日中入るのもザラだとか言っていたし。
 大事なことというのは何だろう。何か欲しいものがあるんだろうか。
 いや、そんなことのために貯金なんかしないだろう。
 弥子が欲しいものは――

「……お前は一体、何が欲しいんだろうな」


 俺はどこまで、彼女のことを理解しているのだろう。

「ほら、母さんのところへでも行ってろ」
 ガーファンクルを床に下ろしても、彼は身動きをしなかった。
「……しょうがない奴だな」
 寝室に向かう俺の後ろをガーファンクルはちょこちょことついて来る。振り返るたびに大きな目はじっと俺を見つめ返してきた。
 本当にしょうがない奴に似た、しょうがない奴だ。
 ベッドの上に整えられた柔らかいガーゼのブランケットを、放り投げたい衝動をこらえて、目を覚まさない弥子の体にかけた。
 雨足は、イライラするほどに遅い。

初出 2010.10.22
再掲 2015.4.5