狂おしい恋の果て
第五話
荊に似ている
「――理科一類?」
久しぶりに話す父親の電話越しの声は、名前を聞いても首を傾げたくなるくらいに不確かで、わたしと彼は本当に血がつながった親子というやつなのだろうかと疑問に思ってしまう。その父親というものは一緒に暮らしているわけでもないのに娘というものの成績を把握し、妙な期待をしているらしかった。
「成績が悪いわけではないのだから、ちょっとがんばってみたらどうかなと思って」
「……医学科にいけるほどじゃないよ」
保健学科とか看護科ならなんとかなるかもしれないけど、それは伏せたまま適当に言葉を濁す。
あっ、と思い当たることがあった。
二年前まで一流大学医学部付属病院に勤務していた父親が、はばたき市立総合病院に移ってしまった理由は、わたしのせいかもしれない。国立なんだからコネも何も効かないだろうに……違う、お互いに気まずくならないように、かな。
そうまでして医者にしたいのだろうか。
きっとこの血縁関係というものと、別居しているという事実は本人たち以上に周りは気にしているのだろう。そんなに、血のつながりというものは大事なのだろうか。わたしにとっては父も母も聖司も等しく他人でしかないというのに。
「無理強いはしないが、まあ、考えておきなさい」
「うん」
他人なのに、人の人生に口出しをできるほど、親と言うのは立派な存在なのだろうか。
電話を切った後、わたしは目も耳も塞ぎたくなる。
§
「それでは授業を始めます。今日はイギリスの旧い民謡を読んでみましょう」
「えー?過去問やるんじゃないの?」
「たまには受験勉強の息抜きです」
ざらざらしたわら半紙に、ところどころかすれたインク。この匂いが好きだった。
学校の授業で配られるプリントは、いつも皺がよっていたり印刷と紙の向きがずれていたり、上手くいったかと思えば前の席から順繰りに回ってくる過程で端が折れたり、一度だって完璧だったことがなかった。
模試の問題用紙のように、完璧につるつるの白い表紙が、匂いが、わたしは大好きだった。
Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Remember me to one who lives there,
For she once was a true love of mine.
スカボローの市へ行くのなら、
(苦しさもその受忍も記憶の果て)
そこに住むかつての恋人に、わたしのことを伝えて
母の部屋にあったCDの九曲目、冬枯れの景色よく似合うギターの音色。
一人ぼっちの家から見える窓、電柱の上で轟々とうごめくつむじ風の、孤独を煽る冷たさ。
砂漠の大地のような色のジャケットを着た青年の目の前でストッキングを履く、しなやかな筋肉の長い脚。
§
十四歳のわたしもうつろな目をしていた。
「ねね、西野さん、合唱コンの伴奏やってよ」
十一月の文化祭と同時に行われる合唱コンクール、ああそういえばそんなこともあるんだったっけか。
中学校っていうのはけっこうヒマなところなんだな、と思ったかどうかは覚えていない。
「……なんでわたし?」
「ピアノ習ってたんでしょ?」
「うん……でもほら、他に弾ける人いるよ。あの――」
「あ、***ちゃん?でもさ、ぶっちゃけあの子褒めないとやってくんないし、めんどうじゃん? ね?」
「……じゃあ、わかった。練習する」
「よろしくねー」
音楽の教科書の最後あたりのページに、課題曲が載っていたはずだった。
リコーダーの運指表の、ひとつ前のページに。裏表紙は雅楽をする羽織袴の男の人たちの写真で、その裏は『君が代』が載っていた。表紙はドナウ川の写真、色気もへったくれもない字体で『音楽 中学二年生』と、黄色で書かれている。
ピアノの前で両手を握り締めたり開いたりすると、左手だけがちくりと痛んだ。
§
「西野さんは、上手いんだけど……もっとこう、感情豊かに弾いてみたらどうかしら」
「確かにねー。なんか淡々としてるっていうか」
「やるなら優勝したいしね」
「合唱コンだからピアノがメインってわけじゃないんだけどさ……」
結局、何故か嬉しそうな顔の***ちゃん、とやらが本番でピアノを弾いた。
行き場がなくなってソプラノのパートに回されてぼんやり歌いながら、きっとわたしは受容するのは得意でも、アウトプットが不得手なんだろうということにようやく気づく。人が何を感じているかはよくわかるのに、自分の意思はこれっぽっちも伝えられない。
聖司はそんなわたしのピアノを、だから「へたくそ」だと言ったのだろう。もっとわかりやすく言ってくれればいいのに。そう考えて、恥ずかしくなった。どこまで甘えているんだろう。何も持っていないからといって甘えてしまうのは、自分を憐れむことに他ならない。自分の感情を表すのが苦手でよかった。こんな惨めな思いを聖司にだけは知られたくなかった。
それからわたしはピアノを弾かなくなって、全く別の関係ない理由で転校した。
なんだか全部、最初からそうなるべきだったように今は思う。
同じ頃に、聖司も逃げていた。ちょっとだけ、魂のつながりみたいなものを感じた。
嬉しくもなかったけど。
§
「なあに、それ?」
『メダイユっていうんだ。かあさまからもらった。ひとつ、やる。ねがいごとが叶うんだ』
「ほんとう?……わたしがもらっても、いいの?」
『うん。だっておまえは、特別だから』
「トクベツ?」
『そうだ。ほら、首につけてやる』
「…………ありがとう」
最初のキスが特別だったからだとしたら、二度目のキスも特別だからだと信じよう。
わたしが彼を拒まず、受け入れる理由を、彼は知っているのだろうか。
わたしが受け入れられたがっていることを、彼は知っているのだろうか。
聖司が鍵盤をひとつ叩くたびに、世界が一つずつ崩壊する。
夢の中で最後には、切り立った断崖の上のわたしたちだけでいい。
目隠しをしていたって何でも弾けるに違いない聖司の目を塞いで、足元が崩れ落ちるそのときまで一緒にいたい。
ちょうどこんな風に、足元がガクリと落ちるように、エスカレーターの手すりを越えてドロップアウトするように。
死にたがっているわけではない。
わたしはただ、橋になりたい、家に帰りたい、アメリカを見つけたい。
聖司の――
「起きたのか」
橋を渡る赤いアルファロメオが転落したのにあわせて、わたしの体は大きく震える。
「……どこ」
喉が渇いていた。うなじにはりついた髪が、汗をかいていることを証明していた。肌寒いのに。
ここは聖司の部屋。わたしの部屋とは違う、快適な部屋。
だけどわたしの居場所ではない。
「――どうした」
はっとして横を振り向くと、聖司がいた。
わたし、今のわたしは十七歳。今日は聖司のピアノを聴きに来て、エオリアに会って、おばさまに夕食を誘われて。
憎いくらいに足元はしっかりとはっきりとしている。忌々しかった。違う、死んでしまいたいなんて思っていない。
「じくじくするの」
聖司の胸に手を当てて、目を閉じた。世界が崩壊する音なんてしなかった。
冷たい肌触りのシャツ越しに、熱い体温を感じる。
「どこが」
そういえばこれは、まるで何かを期待しているような格好に見えるのかもしれないと今更思い当たって恥ずかしくなる。ごまかすように口を動かすことすら聖司には見透かされているような気がした。
「肺かもしれないし、心臓かもしれないし、もしかしたら肋骨かもしれない」
うっすらと目を明けたら、あまりにも真剣な顔をしていた聖司に一瞬噛み付かれるのかと思った。
それでいい。きっと最後はそれでいいのだけど、それは今のわたしにはあまりにも恐ろしかった。
崩壊する世界を望んでおきながら、わたしの最後の砦が崩壊するのを感じる勇気はなかった。
「おまえは本当にずるいやつだな」
「……わたしも時々そう思う」
聖司はわたしを睨んでいた。睨んだまま、胸にあてられたわたしの手を強く握っていた。
初出 2010.10.25
再掲 2015.5.27