狂おしい恋の果て

第六話

焦がれて爛れた醜い心

「セーイちゃん」
 甘ったるいにおいがした。些かげんなりした気分の俺が振り向いた視線の先、階段を一段飛ばしで駆け上がってくるのは琉夏だった。幼馴染の兄弟の片割れのコイツは、もう片方よりはマシだ。時々会話が成立しないが。
 琉夏は立ち止まった俺に並ぶと、顔を揺らし前髪を視界から追い出して笑った。
「何だよ」
「別に?」
 このとおり、脈絡という言葉を知らないかのような態度だ。限りある昼休みという時間帯の、十秒間ほどが失われたのが癪だったわけではないが、俺は眉を寄せて歩き出す。
 ああ、きっとコイツから立ち上る甘ったるい菓子のにおいのせいだ。
「用事があるのかと思ったから立ち止まったんだ」
 窓の外、中庭に植わっている大きな木が風に吹かれてざわついた。
「用がなくてもいいじゃん。あ、飴ちゃん食べる?」
 乾燥気味の指先につままれて差し出されたのは、弥子の大好物だった。
「……」
 また立ち止まってそれを凝視していると、琉夏はポケットの中から別のものを取り出した。
「そっか、セイちゃんコレ、キライだったね。こっちのキャラメ」
「嫌い?」
 薄い白の紙で包まれたキャラメルが、琉夏の左手に乗っている。右手の指先はキュッパキャップスをつまんでいる。仏像のようなポーズで動きを止めた琉夏を睨んだ。なんで俺がキュッパキャップス嫌いってことになるのか、と。琉夏はまた髪を揺らした。
「だって、いつもコレ俺にくれたでしょ?」
 全く関係ないというのに、琉夏と弥子は似ていると思った。纏う空気や間の保ち方や、何でも知っているような目の動かし方が。
 琉夏は弥子がするように二度瞬きをした。幻覚でも見ているようだった。
「は……?」
「ほら、小さい頃セイちゃんがピアノから帰ってくるのと、俺たちが空手に行く時間が同じだったろ?」

 少女が笑う、力なく。
 彼女がくれた小さなキャンディを、俺はいつも手のひらの中でもてあましていた。
 何の根拠もない。根拠のない感情だけで動いていた年頃だったのだから、それはしょうがないと言えばしょうがないのかもしれない。
 白く細い棒の先に、薄桃色の球体がしがみついているのが、一瞬バラの一輪に思えた。それでも口に入れる気はなかった。
 元々母も、食については殊更に厳しくなる人だけれど、俺がキャンディを口に入れない理由はそれが駄菓子だからというわけではなく、きっともっと別の理由だったのだと思う。
 雨がやんだ。
 向かいからやってくる二人組の少年が、さしていた傘を閉じて今度はチャンバラを始めている。
 俺が乗った車は減速しながら彼らに近寄っていった。

「もらい物だったのに食べなかったのはキライだったからでしょ?」
 琉夏はもてあまされたキュッパキャップスを引き受けてくれた。ようやく思い出した。だから俺はこれを貰った記憶があるのに口にしたことがないのか。
「別に……嫌いだったわけじゃない。食べたことないし」
「そうなの?」
 それを食べてしまえば、キャンディ以外のものまで引き受けてしまいそうな気がしたとは口が裂けてもいえない。
 引き受け――

『なあに、それ?』
『メダイユっていうんだ。かあさまからもらった。ひとつ、やる。ねがいごとが叶うんだ』
『ほんとう?……わたしがもらっても、いいの?』
『うん。だっておまえは、特別だから』
『トクベツ?』
『おれはおまえのことが、すきだから』
『――』

「飴ちゃんもくれた子もかわいそ――セイちゃん?」
 琉夏が目の前で手のひらを振っている。
「あ、あいつはもう忘れてるだろ!」
 反射的に大声を上げてしまった。
 自分の教室へ続く廊下にいる生徒のほとんどが俺を見ている。が、多分、
「どしたの?顔、真っ赤」
 それは注目を浴びてしまったことが原因ではない。そんなことはどうでもいい。
「……なんでもない」
「……風邪?最近寒くなったもんね?」
 確信犯だ。琉夏はニヤニヤしながら追求を続けてくる。
 妙に鋭いコイツのことだ。これ以上ボロを出したら何を言われるかわかったものじゃない。人との間の取り方を自分なりに心得ている琉夏だから、俺がついこぼしてしまった『アイツ』について言及しないのだろう。もし琥一や例えば紺野だったら無遠慮にそれが誰なのか尋ねるに違いない。それは別に悪いことではないのだろう。そういう風に無遠慮になれるということが、おそらく『アイツ』にとっては(ついでに琉夏にとっても)難しいことなのだろうから。どうして弥子も琉夏もそうできないのか、踏み込む勇気は俺にはない。
「ああ、もう、いいだろ別に!ほっとけよ!」
「セイちゃん、おっかね〜」
 琉夏は笑いながら廊下を反対側に駆けていった。今日は諦めがいいらしい、そこだけは地獄で仏だった。
 それにしてもだ。何故あんな、恥ずかしいにも程があるセリフを口にしたと言うことを俺は忘れていたんだろうか。

§
 グレープフルーツ味を口の中に放り込んだ瞬間に、携帯が点滅して震えた。
 タイミング悪い電話をかけてきたのは誰だろうと思って開いてみると、確かに深夜でも元気そうな針谷さんの名前が出ていて妙に納得した。
 咥えたばかりの飴を取り出し、通話ボタンを一度押す。
「はい、西野です」
 そういえば『もしもし』と言うのは礼儀に欠けるというのを聞いたような気がするので、代わりに名乗ってみた。苗字には酷い違和感しかなかった。
「おう、悪ぃな夜中に」
「まだ起きてましたから」
「なんだよ、夜遊びか? この不良め」
 針谷さんは羽学のOBで、ネイの先輩でもある。普段はフロアが別だし特に仲がいいわけでもないけど、高校が同じなのでたまに話す。そしてたまに自分のバンドのCDをくれる。彼らの奏でるメロディーにしろ針谷さんの作った歌詞にしろリリカルかつセンチメンタルの片鱗を感じたので「針谷さんってけっこう繊細なんですね」と言ったところ、彼は妙に照れていた。別に褒めたつもりでもないけれど。
 ところでなんだってこんな時間にわたしに電話なのかと思って用件を尋ねると、どうやらお知り合いがアルバイト人員を募集しているとのこと。曰く、
「クリスマスケーキの販売だと。二十四日の十二時〜十九時で日給一万プラスケーキの現物支給。来月のシフトで二十四日休みのヤツに当たってんだけど、お前どうだ?あ、休憩は十五分が二回な」
 ちゃきちゃきと頭の中で計算をする。六時間半労働で一万プラスケーキはけっこうおいしい。
「……ていうか場所、どこです?」
「あ、悪ぃ。アナスタシアだけどショッピングモールに臨時出店だと」
 へえ、そんなことをやるのか。
 アナスタシアのケーキならなおさらおいしい。二つ返事でOKすると、言い出した本人の癖に針谷さんが呆れた。
「お前イブに喜んでバイト入るってどーなんだ、それ」
 確かに一般的に見ればそう言われてもしょうがないかもしれない。別にいいじゃないかとも思うけど、反論するのも面倒なのでちょっと皮肉をこめて返してみた。
「恋人たちとか家族とかの、幸せのお手伝いができるなら本望ですとも」
 わたしには暖かい暖炉も、ごちそうも、ないのだから。それでも寒空の下で震えながらマッチを売るより、明るいショッピングモールの活気の中でケーキを売る方が数段マシだ。
 針谷さんは微妙な空気を察したのか、寸の間口ごもる。
「……ま、いいや。お前どうせアレだろ? 学校のパーティーにもいかねーだろーからな。っし、これで西本に一個貸し……」
「はい?」
「あ?ああ、西本ってヤツなんだよ、頼んできたのが。……よし、そいつから連絡させっから、じゃな」
 針谷さんはきっと聖司ほどではないだろうけどわたしの人となりのようなものをそれなりに掴んではいるのだろう。見事な引き際だと思った。
 それは彼が、わたしよりも年齢を重ねた大人だからというのもあるかもしれないし、彼には彼の、何か事情があるからこそ、なのかもしれない。わたしにとってどうでもいいことには違いないけど。
 ところでその西本なる人に貸しを作ったのは針谷さんではなくわたしのような気がする。
 というようなことを考えながら、わたしは毛布の中にもぐりこんだ。
 これでチケット代をまかなえるだろう。携帯でネット予約したチケットの画面メモを確認して、仰向けになる。
 豆球の、温かみのあるオレンジ色を見つめながら口の中で何度もキュッパキャップスを転がした。
 パチパチ、パチパチと携帯を開いたり閉じたりを繰り返していると、その動作にあわせて目の前もパチパチと点滅した。靄がかかってくるような視界に脳の表面をかきむしりたくなるようなもどかしさを抱いたまま、わたしは眠りにおちていた。
§
「こっちが販売用、で、こっちが試食用の商品な! 一応こんだけ用意しとるけど、足りなくなったら販売用のも試食にまわしてええから!」

 針谷さんが友達と言うからてっきり男性だと思い込んでいた西本さんというのは女性だった。針谷さんと同級生だったらしい。類は友を呼ぶと言うけれど、針谷さんよりもずっと、西本さんは元気な人だった。
『なんや〜、アンタも羽学なん? 今三年? ならアタシが三年のとき……え? 転校してきたん? ホンマに? そうなんやぁ、アタシも転校が多くてなぁ?』
 元気と言うか、多分こういう人のことを『口から先に生まれた』というのだろう。やや圧倒されつつも、喋り倒す西本さんに適当に相槌を打つことに徹した。
 真っ赤なサンタクロースのワンピースに身を包んでいるのはわたしともう一人、こちらは商店街のアナスタシアでバイトしてる子らしい。その子は西本さんのトークに慣れているみたいで、じっとりと呆れたような視線を送っていた。

「何か質問ある? ない? ほな頼んだで! なんかあったら店に連絡してな!」
 これから商店街の本店に向かう西本さんは、説明を終えて嵐のように走り去っていった。騒がしい人なのか忙しい人なのかよくわからない。わかったところでどうもしないけど。
 もうじきお昼時を迎えるショッピングモールは、まだあまり人がいない。というより皆フードコートにでも行っているんだろう。
 おそらくケーキなんかを買うとしたら帰り際になるだろうから、夕方ごろが一番忙しくなるはずだねと会話しながら、今日限りの相方と休憩時間を決めた。
 クリスマスソングをインストゥルメンタルにした、商業施設にありがちなBGMを聴きながら試食用のケーキを一口大に切る。
 雪原のようなイチゴのショートケーキと、金箔が星の煌きのようなチョコレートのケーキの二種類。そういえば、報酬にどっちをもらえるんだろうか。
 どちらもおいしそうだし、できれば両方もらいたいからある程度売れ残ったらいいのに。バイトとしてあるまじきことを考えながらチョコレートの方にナイフを入れる。ガナッシュのようになめらかな表面は、ひび割れることもない。
 指についたのを舐めると、意外に苦味があった。ちょっと目を丸くしながら、お客様に勧めるときのために自分たちも試食しておくべきなんじゃないかと都合のいい解釈をすることにした。
 試食用の簡素なプラスチックの二又のフォークが束になって紙コップの中に立てられている。そこから一本取り上げた。
 聖司の家でケーキを食べたときのフォークは銀色の、舌に刺さりそうな鋭利な歯を持っていた。
 三又のデザートフォークの側面を指でつるつるとなぞっているのを、聖司はしかめ面で見ていた。美しいものを愛でて、何が悪い。
 そう思っていたからお行儀が悪く思われてもどこ吹く風だったし、大体今更こんなことで聖司がわたしに対する評価を変えるとも思えない。
 それはわたしの自惚れかもしれないけれど、きっとそうではないということもほとんど本能的に確信している。
 勢い余った故に、その半分以上が柔らかなケーキの土台に呑み込まれたフォークは、わたしが引き上げる動作をしてもケーキを連れてこなかった。思い出すことなど何もなく、覚えていたいこともない。いっそすべての記憶をまっさらな雪原にして、よいものばかりで埋め尽くしたい。

『迎えに行くよ』

 ただそれだけ、信じていたかった。それがわたしのすべてだった。

初出 2010.11.11
再掲 2015.5.27