狂おしい恋の果て

第七話

今だけでいい


 それはほんの、気まぐれだったのかもしれないし、そうしたかったからそうしたのかもしれない。
 もしも弥子がもっと早くに予定を教えていたとしても、きっと「高校最後なんだから」だとかなんとか言って、紺野は俺をクリスマスパーティーに引きずって行っただろう。生温い馴れ合いなのか、それとも紺野は本気で俺に社会性のようなものを身に付けさせようとしているのか。どちらでもいいが、教えてやりたい。『三つ子の魂百まで』と。

 弥子の携帯に『今なにしてる』とだけメールを送った。聞いたところによると羽学もクリスマスパーティーがあるらしい。臨海公園近くにあるホテルの大ホールを貸しきるらしいが、なかなか思い切ったことをすると思う。
 今頃あいつも、俺と同じようにパーティーに向かう支度でもしているのだろう。ドレスを着るんだろうか。似合いそうもないな。
 苦笑しながら銀色のカフリンクスを付け終わっても、弥子からの返信はこなかった。
 非常に腹立たしいことだが、あいつからの返事を待つ間、俺は一抹の不安を抱えていた。
 だいたいこんなに、一時間も待たなければいけないのも理不尽だ。あいつ今、なにしてるんだ。
 そうこうしているうちに、陽が落ちてくる。薄紫が迫る夏とは違う、何もかもが黒に覆われていく冬の夕暮れは俺の気持ちまで暗くしていった。
 そろそろ会場に向かわなければならない。必要なものだけをポケットに入れて部屋を出ようとしたとき、未練がましく手に持ったままだった携帯が震えた。
『ショッピングモールでケーキ売ってるよー』
 間の抜けた弥子の声が聞こえてきそうだった。思わず額に手のひらを当ててため息をつく。
 何をしてるんだお前は。

§
 結局気になってしまったので、紺野がクラスメイトやら生徒会の連中やらに捕まっている隙に、俺は早々にパーティーの会場を後にした。外は冷え込んで、見上げれば夜空には雲もなく星が煌いている。明日はきっと寒さが厳しくなることだろう。
 携帯を開きかけて、やめる。車を呼ぶ暇さえ惜しかったので最寄りの駅からショッピングモール近くまで電車で移動することにした。
 薄汚れた床と、くたびれたシート。座る気になれなかったのと、息遣いを感じるような町並みの夜景を見たいのとで、俺はずっとドアの前に立っていた。市街地から離れると電車からは何も見えなくなる。
 何も見えないと思っていた目の前に広がっている暗闇が海だと気がついたのは、電車が緩やかなカーブを通過したときだった。
 視界の端にきらびやかな何かが映りこむ。ベイサイドブリッジだ。クリスマスの時期だけイルミネーションに彩られていて、車内は少しだけざわついた。誰もが綺麗だなんだと口をそろえている横で、俺は仏頂面を崩さなかった。調和を狙ったイルミネーションよりも、無造作にばら撒かれたような民家の灯の集合が、俺は好きだから。
 クリスマスの街はどこもかしこも明るく、笑顔で満ちている。こんな日にわざわざ進んでアルバイトに入る弥子の気が知れなかった。もしかしたらやむをえずそうしているのかもしれないし、何か事情があってのことなのかもしれない。
 ただ、どんな事情が隠れているにしても、俺は一度弥子のことを不憫だと思ってしまった自分を、否定することはできなかった。

 ショッピングモールについたところで一体弥子がどこにいるのかわからないから歩き回らざるを得ず、催事場になった中央通路にたどり着いたころには軽く汗すら浮かんでいた。
「西本さん、クロスとポップはこの箱でいいですか」
「ああ、テキトーに入れとってや」
 テーブルと台車がいくつか並んだ一画で片付けをしているらしい三人のうち、一人の声は弥子だった。
 弥子、なのだが。
「おい」
 呼びかけると、赤いワンピースが振り向いて目を丸くした。
「……なにしてんの」
 それはこっちのセリフだった。
「お前こそ……なんだその格好」
 半袖の先端と裾がファーで縁取りされ、同じく胸元には白くて丸いファーが縦に二つ並んでいる。ミニスカートに白いヒールのブーツのせいで脚が長く見えるし、向かい合うといつもより目の位置が高くなっていた。
「何って……サンタ」
 ああ、ナイトキャップじゃなくてこれはサンタクロースの帽子だったのか。合点はいったが変な格好には変わりない。ドレスならまだ想像がついていたものの、こんな格好は正直予想外だった。
 笑っていいものか。コートのポケットに手をつっこんで立ち尽くしていると、ひそひそと話し込んでいた二人のうち、明るい髪の女性が近寄ってきた。
「弥子ちゃん、彼氏ー?」
「え――っと?」
 首を傾げて口篭る弥子に顔をしかめながら、さりとて自分がもし同じようなことを言われたらスマートに返せる自信もない。それをどう曲解したのか、やたらと楽しそうな彼女は関西弁でまくし立てる。
「なんや、悪いことしたなあ。もう八時になりそうやし、着替えて帰ってええよ?」
「あ、でも……」
「ええからええから!」
 追い立てられて、弥子はどこかに去っていった。どこへ行くんだと口を開きかけて、着替えかと思い当る。早く戻ってこい。
 居心地の悪い場所から、一刻も早く帰りたかった。

 ショッピングモールの中もそうだったが、そこから出てもカップルの姿がやたら目につく。男女二人でいるところを問答無用でカップル認定しているわけだから、俺たちだって傍からみたらカップルだと思われているのかもしれない。というか、そうに違いない。
「イヤだなあ、わたしだけこんな格好で」
 弥子は、本当に嫌そうな声だった。
 手をつなぐわけでもない、並んで歩いているだけ。俺の手には白いボール紙で出来たケーキの箱がぶら下がり、弥子の手にはツイードと皮で出来たハンドバッグがぶら下がっている。
 弥子は口を閉じていることが多い。白い息は言葉の一つ一つと共にだけこぼれ、文節の区切り目できれいに途切れる。
「そんなこと気にしているのか」
 言っているのは多分、正装(厳密な意味での正装ではないが)の俺と普段どおりの服を着た彼女自身のことだろう。街中ではどちらかというと俺のほうが浮いていると思うのに。
「そんなこと?」
「そんなことだろう」
 軽い気持ちだった。さっきまで彼女のことを不憫だかわいそうだと思っていた自分のことなどとうに忘れていた。気にもしていなかった。後から思い返せば、俺の傲慢な一言はずいぶん弥子の癇に障ったことだろう。
 駅までの道、歩道の脇には眩しすぎるイルミネーションが設置されている。歓声を上げながら写真を撮ろうとする軽薄な連中ばかりで、俺は口を開く気になれなかった。
 弥子がしゃべらないのも、同じ理由だと俺は思っていた。
 けれど、電車とバスを乗り継いで公園通りまで出てきても弥子は口を開かない。具合でも悪いのかと聞くと、黙って首を横に振る。
 腹が減ったのかと聞いても同じ。じゃあなんで黙ってるんだと言うと、ただ一言「怒らないでよ」と面倒くさそうな声が返ってきただけだった。そこでようやく、めずらしく機嫌が悪いのだということに気が付いた。
 弥子が感情を表に出すことはめったにない。初めて目にすると言ってもいい。
 弥子のこれまでを思えばいっそ感激すらしてもいいのかもしれない。が、俺も彼女も所詮高校生で、まだ子供だった。
「別に怒ってなんかいない」
 不機嫌な相手を前にすればこっちだって嫌な気分にもなる。その上、弥子はぶすっとした顔で「一人で帰れる」と言い放ったのでさすがにうんざりしてしまった。
「さっきから何いじけてるんだ」
「別に」
 バスを降りた弥子は、地面を睨んだまま俺を拒絶した。
 どこかの家から、犬の鳴き声が聞こえる。何の意味ももたない音声が消えるのを待つ間、弥子はいつもの彼女からは想像できないほどに強いまなざしでどこかを見ていた。睨んでいるようにも見える。何かに耐えているようにも見える。
 いや、弥子はずっと何かに耐えてきたのだろう。自分の力ではもうどうにも動かしようのない残酷な事実に、何もできることなどないと思い込んできた自分の無力さに。
 だから何かに怒ったりしない。悲しむこともない。そうしたところで意味などないと、彼女は思い込んでいるのだから。
「ごめん、ちょっと疲れてるだけだから」
 だから彼女はこんな風に折れたり、何もかも諦めて受け入れて、すべてはもうどうにもならない、どうにもできないことなのだと悟ったような顔で生きている。腹を立てても笑っている。悲しくても平気な顔をしている。
 弥子自身にどうにもできないことは、俺にもどうにもできない。
 そんなことはわかっていた。さっき俺を拒んだように、弥子は誰にもすがらないことも。
 俺の傲慢な救いなど跳ねのけて、弥子は自分だけで生きて行こうとしてしまうのだ。もう子供ではない。弥子は頭もいい。きっと今ならどこへ行っても生きていける。アルバイトをしているのは、きっと自立のためだ。ようやく、思い知った。
 俺は情けなかった。こんなに情けない思いをしているのは人生で二度目だ。
 一度目の別離のとき、多分俺はうすうす勘付いていたのだと思う。自分の無力さと、思い上がりに。諦めのようなものはあったと思う。しょうがないと言い聞かせたことも一度や二度ではなかった。
 なのに弥子は戻ってきた。陽炎のような頼りなさを身にまとい、俺の前に姿を現した。放っておけばすぐに倒れてしまいそうな顔をして、そのくせ俺を立ち直らせようとでも思っているのだろう。
 何度もピアノを聴かせろと頼み込む不器用な誘導で。
 本当に情けなかったし、腹立たしいと思った。
 星がいくつも瞬いているはずの夜空は、今日はそこかしこのイルミネーションに邪魔されてどんよりとくすんでいた。そこにあるはずのものが見えない。きっと俺が生きている世界には、見ようと思えば見ることができるもの、知ろうと思えば知ることができるものが死ぬほどたくさんあるに違いない。
 俺は弥子が感じていることが何なのか、知ろうともしなかった。
「いい子にしてなくても、サンタは来るのかな」
 白い月が、弥子の黒目の表面に浮かんでいた。
「なんちゃって。サンタなんかいないよね」
 吐息が叢雲に見える。目蓋の内側の月だけじゃなく、弥子の顔もうすぼんやりと隠れていった。
「何が欲しいんだ」
 何だってくれてやる。今までだってそうだった。同情だとか憐憫だとか、はたまたそれは愛情だとか、そのいずれでもなかった。
 俺は弥子になんだってしてやることで、力の尽くしようもない現実に抗っている『フリ』だけをしていただけだった。
 俺が何をしたところで、弥子の何かが変わることなんて、ただの一度もなかった。
 虚しかった。
「明日、水族館に行きたい」
 マフラーで鼻の頭も覆って、弥子は目を閉じながらそう言った。
「わかった。十時に迎えに行く」
「え?」
「寒いだろ。車で移動した方が……俺が、そのほうがいいんだ」
「……うん、わかった。待ってる」
 はっとした。弥子も同じように思ったのか、わからない。
 顔を伏せてから、ややあって笑顔を向ける。そのまま彼女は俺に背を向けた。
「送ってくれて、ありがと」
 送ったつもりはなかったが、そう思っているならそれでいいかもしれない。いや、そもそもなんで今日、俺はここに――ふと、右手に持ったままの荷物に気がついた。
 家に向かって駆け出す弥子を呼び止める。
「おい!――ケーキ、」
「あ!」
 算数のコンパスのように片足を軸にターンして戻ってきた弥子に、ケーキを押し付けた。持ち手が歪んでいるのを見て、泣きそうな顔になっていた。
「なんか、かっこつかないね」
「今更何言ってるんだよ」
 馬鹿なやつだな、お前は。
 暗闇に消えていく弥子を見送ると、夜風が俺の頬を嬲った。靴を履いているつま先も、ポケットの中に入れた指先も、寒さのせいで他の感覚が消えていくようだった。それなのに寒さ冷たさだけを感じるのもおかしいとは思うけれど、それは変えようのない事実だった。冬が寒いのも、弥子が一人なのも、俺が子供なのも。
「水族館か、」
 何か面白いものでもあるのか、それとも何か思い入れでもあるのか。
 記憶を辿れば何か思い当たることもあるかもしれない。けれど何かあったからといって、それが本当に事実として存在した思い出なのか、それとも俺の勝手な推測なのか、判断がつかないような気がした。
 あいつは元々ワガママなヤツだった。いつもいきなり何かの曲を弾いて欲しいというばかりで、こんな風に前もって予定を入れられることはなかった。
 俺は足を止めた。
 弥子がピアノ以外の何かを欲しがるのはこれが初めてじゃないのか。
 泣きそうな顔で白い息を吐く、彼女の顔が脳裏に浮かぶ。
 星が墜ちてくるような空の下、何もかもがただ一瞬のためだけに存在しているようで、俺はただ静かに、覚悟することだけを強いられているような気分になった。

初出 2010.11.15
再掲 2015.5.27