狂おしい恋の果て

第八話

呑みこまれて攫われる


 たゆたう、ゆらめく、ゆれる。
 ひらがなの美しさと、響きの軽やかさがそのまま、目の前に広がっているようだった。
 壁一面が厚いガラスで覆われたパノラマ水槽に弥子は夢中になっている。大きな海亀が似つかわしくない速さで泳ぎ去るのを興奮気味に目で追ったり、隅のほうで小さな魚が群れているのを見て声を上げたり、まるで遠足に来た小学生みたいだった。
 水槽の向こう側からか、それとも上方からか、差し込む光がゆらゆらと漂いながら弥子の頬にゆるやかな模様を作っていた。
 水の中に放り込まれた網のような模様は一瞬もその形を留めることなく、まばたきする間に様変わりを続ける。
 よくよく見れば模様が映し出されているのは弥子の頬だけでなく体中そうだった上に、当然ながら彼女の隣にいる俺の体も網にとらわれていた。
 自覚もないまま、弥子の横顔をじっと見つめていたのだろう。居心地の悪さだけは、こんなにも早く気づくのに。

 他の水槽に比べれば大きい方だが、それでもこの水槽の中はごちゃごちゃしているし、大洋と比べるのも馬鹿げているほど狭い。
「こんなところにまとめて放り込まれて、コイツら平気なのか」
 水槽から少し離れて口に出したのはただの独り言だった。興奮している弥子に聞こえているはずもないと思っていた。
「でも、こういうところじゃないと、普通の人はいろんなもの見れないよ」
 弥子はガラスに両手を、ついでに額も当てている。その後姿がそんなことを言った。
「もしも、この中の魚が大洋に出たら」
 ガラスに触れている指先が動き、キュ、と小さな音を立てた。
「ちゃんとやっていけるかな」
 弥子の隠喩は曖昧だった。大洋を世界に喩えているそれは、わかる。
 水槽の中の魚が俺なのか、弥子なのか、それとももっと別の何かなのか。そもそも隠喩であるという前提が果たして正解なのか。
「……生き残れるのは、ほんの一握りだろうな」
 考えるのも面倒で、それが隠喩ではないという体で答えてみた。
「ほとんどは、もっと大きな力強いものに食べられたりして」
 弥子の両手がぎゅうと閉じられた。
「消えていってしまうんだろうね」
 それはどこだって同じだ。自然界の摂理だかそういうものでくくられる場所も、俺が生きるだろう世界も。
「忘れられて、悲しいなんて言うのもおこがましいのかもしれないね」
 水槽の中で、一際目を引くエイがぐるりと体を回転させた。その動きに合わせて、網の一部が欠落する。
「聖司」
 俺は水槽の中にはいないぞ、とは、言わなかった。
「春からどこへ行くの?」
 多分、母あたりから聞いているのだろう。教えてやらなかったことを咎めているわけでも、さみしがっているわけでもなさそうな、淡々とした声が恐ろしかった。
「俺は――」
 振り向かない背中に、なるべく感情を込めないようにして続けた。
「パリへ留学する」
 返事どころか反応すらしない弥子の後ろ髪をじっと見ていた。
 水槽の端の方で、観客が微かにどよめいた。ダイバーの格好をした飼育員が餌をやっているようだった。
 波打っているようにも見えない水の中を、まるでうねりに身を任せるようにして移動している。軽やかに、その一部であるように。
 彼、だろうか、飼育員は弥子の前に近づくと指先で少し上をトントンと指した。
 【ガラスにお手を触れないようにしてください】
 張り紙に気がついた弥子は、会釈するような動きをしながらそっと水槽から離れた。
 白いため息の残滓が、かすかに残って、消える。

「帰りは、一人で帰れるから」
 それからろくすっぽ口を開かなかった弥子は、カフェテリアのカウンターテーブルでようやく言葉をつむいだ。
 ここにいるほとんどの客は、歩きつかれたのだろうか、ぼんやりとした顔で通路越しのラッコのプールを眺めている。
「寒いし、危ないだろ」
「いいの」
 頑なに俺の申し出を断る横顔は、テーブルの上で握り締めた両手を見つめていた。
 何度も見たことのある視線は、考え込んでいるのでも悩んでいるのでもない。彼女は思いつめているのだ。今まで、どうして気がつかなかったのだろう。
「辛くなかった?」
 それは前後の文脈を無視した発言だった。
「――は?」
「逃げ出したとき、辛くはなかった?」
 思いつめたような灰色の瞳がこちらを向いていれば、いっそそのほうが楽だったのかもしれない。未だに敏感なところをえぐられる痛みをこらえながら、それでもやっとのことで「その後のほうがよっぽど辛かった」とだけ、呟いた。
「そう。でも、一人で乗り越えたのよね」
 弥子は悲しそうに笑う。
「わたしはね、ありきたりな言い方で言えば、聖司を支えてあげ……支えたかったのよ」
 まばたきの数が増える。それは決して泣かない弥子が涙をこらえようとしている仕草なのだとあの頃の俺は思っていたし、今はそう確信している。
 ガラス越し、向かいのプールに目を遣ると、ザブン、と音がするような動きで二匹のラッコが水中へ潜っていった。
 【ラッコの赤ちゃんのお披露目は来年一月十日からです。お楽しみに!】
 バカみたいに能天気な張り紙を、睨みつけた。産まれて間もなく見世物にされるのは、弥子の言葉を借りれば哀れだと思うことすらおこがましいのだろうか。そうなのだろう。所詮俺は俺の尺度でしか物事を考えられない。俺はラッコを哀れだと思うが、ラッコのほうは己の境遇以外の世界があることなど知らないだろう。
 だがもしも知ってしまっていたら、彼らは何を思うのだろうか。
 弥子は細い溜息をついていた。
「ほんとはもっと早く、こっちに戻ってきたかった。ずっとそう思ってたのに、でももしそうだったとしても、多分わたし、いらなかったね」
「……なんで」
 震える弥子の肩にストールをかけてやるという行為を、以前の俺ならばもっと堂々とできたに違いない。
 ラッコは意のままにプールの中を文字通り縦横無尽に泳ぎまわっている。
 ここにどのくらいの年月いるのか、俺が知ったことではないが、壁にぶつからないように泳ぐための感覚を身に着けているのだろう。おこがましくても、それは哀れだと思った。
「わたしは聖司と一緒にいられてうれしかった。だから恩返しがしたかったの。でも、そんなの間違ってた。あなたは強かった。わたしにできることなんてない。わたしには、そんなことだってわからなかった」
 まくしたてる口調は穏やかで、ゆっくりとしていて、なのに文脈だけが動揺している。
 それは俺だって同じだ。
 俺は多分、それまで弥子にはなんだってして『やらなければならない』と思っていた。客観的に見ていわゆる恵まれた環境にいる俺は、親から見放され安らげる場所にも事欠いた弥子に、なんだってして『やらなければならな』かったし、望むものはなんだって『与えてやらなければならない』と思い込んでいた。
 弥子はラッコだった。そしてそれを知っていながら、気づかないふりをして俺の自尊心を満たしてくれていた。そうに違いない。
 とんだ笑い話だ。救ってやろうと思っていた本人が、知らずのうちに救われていたのだから。
 握りしめた俺の拳を、弥子が静かに見ている。
 折れそうな細い指が、肩にかけられたストールの端をぎゅうと掴んでいる。
「別に……俺は、別に自分一人で立ち直ったとは思ってない」
 だから自分を過小評価するな。お前は俺よりもずっと立派な人間だ。
 こめかみの辺りがガンガン傷むようだった。血管の動きだとしたら、何故こんなに心拍数が上がっているのだろう。
「そうかもしれないね。でも聖司、自分一人じゃなかったとしても、あなたがもう一度歩き出すために背を押してくれたのは、わたし以外の、たくさんの……人たち、でしょう?」
 否定はできなかった。
「嫌な女だと思うよね。わたしだけがあなたを救える唯一でありたかった。世界中からあなたを奪ってしまって、自分だけのものにしたかった。気持ち悪いでしょ?」
 そう言ってほしいのか。俺の口から決定的な一言を導き出して傷ついて、今度こそさようならってわけか。
「――おまえは本当にずるいやつだな」
 弥子は、馬鹿じゃない。だからあいつは、自分の目論見が俺にばれて、気まずかったし恥じたのだろう。
「ごめん――」
 ふわりと残った甘い香りの主は、すでに駆け出していった後だった。
 最後に見せた顔を思い返してみる。弥子は眉の端を下げ、泣き出しそうな顔だった。淡々とした表情しか見せたことのない彼女が、初めて見せた感情の昂りだったのかもしれない。
 俺は弥子を追いかけることをしなかった。俺はもう、弥子が本当に心から望んでいることしかあいつにはしないことに決めた。
 俺はまた弥子に会う。
 いつか、迎えに行くと言ったのだから。

初出 2010.11.30
再掲 2015.4.5