狂おしい恋の果て

第九話

発情


 わたしは聖司にはなれないし、聖司はわたしにはなれない。
 ばかりでなく、わたしは聖司が弾くようにピアノは弾けないし、聖司だってわたしが弾くようにピアノは弾けないだろう。
 わたしと他者は別個の人間でそれ以上でもそれ以下でもなく、完全に理解しあうだとか完全な共感だとか、そういうものは不可能で実在しないものなんだ。
 そんなことはとうの昔からわかっていたはずなのに、わたしは聖司のすべてを理解し、共感し、そして唯一の存在になりたがっていた。
 この無謀で傲慢なわがままは、わたしにたった一つ、残った、子供らしいものだったのかもしれなかった。

 酸素の欠片すら存在しないような深海から急速に、けれど体感速度はゆっくりと浮上する。
 そういう風に弾きたいのに、わたしがやるとどうも、底なしの沼にずぶずぶ沈んでいくようになってしまう。
 カチッと小さな音を立てて、電子ピアノの電源をおとした。弾こうと思ってからまだ十分も経っていない。冷たい鍵盤が冷たい現実を突きつけるためには、たかがそれだけの時間で十分すぎるくらいだった。
 開き癖と書き込みが目立つ古ぼけた楽譜を閉じて、ピアノの下の簡易棚の中に放り込む。『こどものバイエル』と『弾き語り サイモン&ガーファンクル』だけがくたびれて、他の色々な本は背表紙が日焼けしている以外はきれいなままだった。

 わたしは聖司とは違い、挫折というものを味わったことがない。
 それは不幸なことだと思う。
 ある意味ではあのときの聖司のことがうらやましかった。他人のすばらしい演奏を聴いて逃げ出してしまわねばならぬほど、ピアノを愛し、また自分の演奏に誇りを持っているということの裏返しなのだから。ただ真正面から向き合わなかったのは、やはり今でもバカだなと思うけれど。
 挫折したことがないなんて、それは自分の中に何もないということに他ならない。起伏のない平凡な道はつまらないし、味気ないし、この先それが延々と続いてある日突然ぷつりと途切れて、『アイツは何も残さなかったな』と言われるのが恐ろしくてしょうがない。
 いや、他人の評価より、聖司にそう思われることが嫌だ。
 アイツには何もないから、何もないから俺が――そんな風に思われて、聖司の重荷になるのは嫌だった。
 わたしはただ、聖司のそばにいるだけでよかった。
 聖司がわたしだけを見てくれればそれだけでよかった。

 一緒にいればいるほど、あの人は私からどんどん離れていき、ますますわたしは孤独になった。
 お互いの首元で鈍く輝くメダイユは、願いをかなえるどころかお互いの足枷にしかなっていない。甘えと傲慢と独りよがりを互いに抱えて、まるで二人でようやく一人前の人間であるかのような錯覚は、もう一人で歩き始めている聖司にとっても、いつまでも底なしの沼の淵で立ち尽くす私にも、不愉快極まりないものだ。
 わたしには何もないからと、もう自分を甘やかすのはやめにしよう。
 ピアノのスツールから離れて、座卓に散らばった願書を片付け始めた。
 もう、一月が終わろうとしていた。

§
「オススメ……の?」
 その日の仕事が終わって後片付けをしていたわたしの元に、下のフロアから針谷さんがやってきた。
「針谷さん、クラシックなんて聴くんですか」
「は?あー……アレだ、ロックだけ聴くロックンローラーじゃ、ほら、アレだろ?」
「ほー……」
 なんだか照れくさそうな針谷さんの魂胆というか内心は、大体予想がつく。
 ここ数日、ネイの上フロア(つまりわたしの仕事場)に若い人たちがちらほらやってくるようになった。
 理由ははばたき市出身のヴィジュアルバンド「CAMINO」の新曲が、とあるクラシックの曲をモチーフにしていて云々、ということらしい。
 チーフが便乗するように作ったコーナーは中々の人気で、普通のアルバムよりも安いクラシックのコンピCDの売れ行きは右肩上がりだ。
「なんだよ『ほー』ってよ、偉そうに」
 ふてくされている針谷さんは、そのコーナーを眺めながらどれを聴いたものか悩んでいるようだった。
「まぁ……実際、音楽の授業で聴いても寝てるばっかりだったけどな」
 やっぱり。
「そういう人のために、静かな曲の途中だか最後だかで突然シンバルがガーン! って鳴る曲があったように思うんですけど……」
「なんだそりゃ。意地の悪い作曲家だな……」
「そうですね……なんて曲だったかな。ええと……ああ、ド忘れしてる」
「なんでもいいけどな。なんかこう、参考になるようなやつ頼むぜ」
 そうは言われても、何をもって参考になるのかとか、わかりゃしない。CAMINOがモチーフにしたのを聴けばいいとは言ったものの、それはもう聴いたしそこまで真似をするのはかっこ悪いらしい。ほらやっぱりCAMINOのせいだった。
「手当たり次第聴くしかないんじゃないですか」
「お前めんどくさくなってきただろ」
「そんなことないですよ?」
 別に無理して聴いたってしょうがないのに。
 グダグダになってしまった会話を切り上げて、わたしたちはなんとなく一緒に帰り始めた。二月の夜は、寒い。
 そういえばクリスマスの日もこんな感じだった。あのきっかけは針谷さんで、アナスタシアのケーキは本当においしかった。
 あの日のわたしの隣には、聖司がいた。いままで一人でいても、わたしは聖司のことを考えて、その虚構に甘えていたような気がする。
「針谷さん」
「なんだよ」
「興味があるなら、とある……コンサートのチケットお譲りしますけど」
「コンサート?」
 厳密に言えばコンサートじゃない。それは国際コンクールの地区予選のチケットだった。
 ピアノの。聖司が参加する予定の。
「へぇ……こんなんあるんだな」
 財布の中から出した一枚の紙切れを眺めながら、針谷さんは感心したような口ぶりだった。
「いいのか?」
「その日、入試なんです」
 嘘ですけど。
「マジ?」
 疑われている。
「……マジですよ。私立の、一般入試なんですよ」
「ふぅん……。コンクールって言うから俺はてっきり、お前の知り合いかなんかが参加するんじゃねえのかって思ったけど、違うのか?」
 そこまで言い当てられて、何も言えなかった。嘘を吐きとおそうとも、もう思えなくなっていた。
「いいんです。その場にわたしがいなくても、演奏の良し悪しが変わるなんて思えませんし」
「ふーん……」
 白状したわたしをしばし見つめて、そいつはプロなんだな、と針谷さんは無感情に呟いた。
 そうかもしれない。技術がどうこうじゃなくて、もう内面でぐらぐらと揺れるようなところから、聖司は脱しているのだ。
 針谷さんはくしゃみをした。
「チケット、どうします?」
「あ?……やっぱいいわ。俺は俺のやり方で曲作る」
 鼻と頬が、寒さで赤くなっている。と、いうことにしておこう。
「そっちのほうが、針谷さんらしいです」
「そーかよ」
 ぶっきらぼうな言い方に笑ってしまった。やっぱりその顔の赤みは、照れだということにしておこう。
 その後、針谷さんはわたしに、一体どこの大学に通うつもりなのかと尋ねてきた。
 わたしはあいまいに笑ってごまかし、帰宅した後ですべての願書を破って捨てた。
§
 春が来てしまうのは早かった。夏になるのも早かったように思う。相変わらず公園通りのアパートでふらふらしながらわたしは毎日を過ごしていた。
 結局わたしはコンクールの日、会場に行くことはなかった。
 引越しの作業で大変だったから。
 なんて、それは口実で、結局そのときのわたしには勇気がなかったんだろう。今になってそう思う。
 今日も雨だ。旅立つ日に似つかわしくない、中途半端な小雨だ。

初出 2010.12.10
再掲 2015.5.27