今になって思えば、おれは花子のことを愛してみたかったのかもしれない。
 あるいは愛していたという事実を、今になっても認めないだけなのかもしれない。

 おれはあいつがつっぱっている限りは、おれもまた気を張っていられると思い込んでいたのだろう。
 おれとは正反対に小さく大人しい女に負けてなるものかという反抗心と、おれと似たような、年齢不相応の落ち着き払った性格の隣人がいるという仲間意識のようなものが、きっと自分の中にあったに違いない。そっくりだと近所の誰かに言われるたびに、幼い日のおれは気に入らないような気分にもなったし、いい意味でどこか落ち着かなかった。

 今でも時々、カーテン越しの朝のひかりを浴びると、あの日のことを思い出す。
 花が開き始める季節の庭で、赤いさざんかだけが朽ち果て始めている。えんじ色のセーラー服をおれは追いかけようとするが何もつかめない。克服したと思っていた甘い疼きが現れようとするのを、おれは必死で抑え込む。
 思い出の中だけで花子は生きている。きっとこの先どんなに月日が流れようと、彼女は少女のまま、おれの記憶の中で鮮烈に生き続けるのだろう。
 おそらく、おれが花子のイメージを更新できる機会はもうない。

 二十歳になった花子は、ある日突然姿を消した。
 まったく手際のいいことだった。
 彼女は祖母の葬儀を終え、遺産の整理を恐るべき速さで処理し、自社の権利を大阪の繊維メーカーに譲渡する契約まで済ませ、挙句の果てに実家まで売却した。
 おれはそれを、かなり後になって知った。その当時母はこちらにいたし、花子からはただの一回も連絡をもらっていない。彼女の友人も、以前勤めていたという家政婦も、中退の届け出だけを事務的に受け取ったという大学の学生課も花子の行先を知らない。おそらく誰にも知らせず、彼女はどこかへと羽ばたいて行ったのだろう。
 花子のばあさんの葬儀に参列した母は、あのときは変わった様子もなかったのに、と嘆いていた。
 変わった様子、そんなものはないだろう。
 あの女はおそらく、その大脱走の計画を物心ついたときから温めていたに違いないのだから。

 おれはそのことを知ったとき、最後に花子と会った日にあいつが妙に晴れ晴れとした顔をしていた理由がわかった気がした。
 あれは決心がついた人間の顔だ。一抹の不安と未練を抱きながら、それでも進もうとしていた人間の顔だ。
 今のおれと同じに。

 十八のときから「とりあえず」住んでいるこの部屋を、おれは今日、出て行く。
 出て行く機会など何度もあったにも関わらずずるずると居座り続けたのは、花子との別れのあの日、母から「承太郎のあたらしい住所は花子ちゃんに渡したからね」 と聞いていたからだった。
 まさか訪ねてくることなどはないだろうが、手紙の一枚くらいはよこすんじゃないかと期待して。
 花子との付き合いをあれきりで終わらせたくはないという、青臭い理由だった。
 なんとなく、あいつは世界中を飛び回っていそうな気がした。想像してみると中々様になっているのではないかと思う。一人では電車にも乗れなかった少女は、今やどこへでもゆける翼を手に入れたに違いない。異国の青い空の下、のびのびと笑っている姿が目に浮かぶ。
 もちろん、すべておれの勝手な妄想だ。
 第一、花子が生きているかもはっきりとしない。祖父母や両親は「何か事件に巻き込まれたのでは」 と心配していたが、おれは何の詮索もしないことにした。あいつがそう簡単にくたばるわけがねえ。そうだろう?
 もはや彼女はおれの世界から消えた。今更追いかけてみたところで迷惑だろうし、連絡をよこさないということはつまりそういうことだろう。
 それがおれの、数年間の灰色の日々が導き出した結論だった。

 冷たいだろうか。いいや、おまえはそうは言わないだろう。おれとおまえの間にはなんの約束も予定調和もない。そのくらい乾いた関係でもいいのかもしれない。これまでだってそうだった。これからも、顔を合わせることはなくても、それでいいに違いない。
 そう思っているのに、あざやかなはずの世界になにかが欠けている。
 欠けていることをどうしても否定できない。

 花子、おまえも同じだろうか。
 ある日どうにも耐えられなくなって、この部屋を訪れることがあるだろうか。おれの姿を探そうとすることがあるだろうか。

 今になって思えば、おれは花子のことを愛してみたかったのかもしれない。
 あるいは愛していたという事実を、今になっても認めないだけなのかもしれない。
 花子を愛する未来があってもよかったと、おれは本心から思っている。
 そんな未来を求めて追いかけようとしたことは、一度や二度ではないのだから。

 それでもおれはおまえを追いかけない。おまえとの日々をあの庭のあざやかさにとどめたまま、上書きしたくはない。

 おれはときどき、カーテンの向こうに向かって呼びかける。
 花子、おまえは今、幸福だろうか。

 おまえはあざやかなあの庭を、今も思い出せるか?