3rd Anniversary.



僕より小さなかわいい亡者

彼女の部屋の前に来るたびに身だしなみ、と言ってもせいぜいが服の埃をはらったり髪を整えたりといった程度だが、をしてしまうのは、ハサウェイがまだ艶っぽい話の方面に成熟していないせいと、悔しいが無意識のうちに彼女をそういう、艶っぽい話の相手として認識してしまっているための両方だろう。
と、ハサウェイ・ノアは結論付ける。頑なに自我を押し付けるようなことは、この方面ではしないのだ。
情けないような、「はぁ」というため息をついて、その直後に肩を上げて気合を入れる。
そして、ジェーンの部屋のドアをノックする。

「誰!?」
やたらめっぽうに、鬼気迫った声が返ってくる。
「僕だ。ハサウェイ」
「ハサウェイ!?あっ――んもう!いいわ!」
はぁ?と首を傾げていると、どさどさと騒がしい音が、ドアの向こうから聞こえてくる。
「どうした―」
ハサウェイは、開いたドアの前でぎょっとした。
ジェーンが、はだけきったガウン一枚だけを着て、そして濡れた髪で立っていた。と、認識する間もなく手首を掴まれる。
「ハサウェイ!助けて頂戴!」
「はぁ?」
何度目かわからないが、ハサウェイは眉をしかめる。目の前にみずみずしい体があるから視線をそらすと、ジャケットの袖に濡れた染みが広がっていた。それは、今はどうでもいい。
「どうしたのさ、とりあえずおち」
「ムシよ!」
ジェーンが指差したほうを確認するまで、ハサウェイは事態が飲み込めなかった。
どぎつい青のマニキュアが塗られた爪のさすほうには、黒いカーテン。ではなく、そこにとまったアゲハチョウがあった。
「虫が入ってきたのよ!ちょっとシャワーを浴びてただけだっていうのに!」
合点した。ジェーンは病的に昆虫が嫌いなのだ。
「だから地球はイヤなのよ!うじゃうじゃ、うじゃうじゃこんなものばかりが、ちっとも管理されずに飛び回ってるんだから!おちおち窓も開けられないなんてどういうことよ!」
まさかそんな理由でマフティーに参加してやいないだろうなと一瞬勘繰ってしまう。それくらいの形相だった。
「わかったよ、僕がそれを追い出すから、君はシャワールームに逃げておけば良い」
「頼んだわよ!」
そういうと、ジェーンは身震いしながら去っていった。
「はぁ……」
ハサウェイはローテーブルの上にあった雑誌を手に取ると、カーテンにとまった蝶に向けて何度か仰いだ。
けれどそよ風よりも弱いので、何にもなりはしない。
ハサウェイは、別に、昆虫の類が嫌いなわけではないから、ジェーンがこうも嫌う理由がよくわからない。
わからないが、とにかくこのままにはしておけないので、雑誌をさっきよりも近づけて強めに、叩きつけるように仰いだ。
ふわりとそれは飛び立つと、亜熱帯の密林のほうへふらふらと舞っていった。

「ジェーン、もういいよ」
シャワールームのドアを手の甲で叩いた。
「ありがとう、ハサウェイ」
ほっとした顔の彼女が現れる。今度はガウンではなく、ホットパンツとビキニブラにパーカーを羽織っていた。なんだか、がっかりしているハサウェイがいた。
「それで、もう一つ頼みがあるんだけど」
「なに」
ジェーンは長い髪を指先にくるくる巻きつけている。猫っ毛の彼女の髪は、ぬれるとどうにもボリュームが嘘のようにしぼんでしまう。
「私この部屋いやだわ。部屋、変わって頂戴」
「はぁ?」
「いやよ。このままなんて!?だってさっきまで忌々しいアレが飛び回っていたのよ!?」
どうやら口に出すのも嫌なほどらしい。
「ハサウェイの部屋はそんなこと、ないでしょう?」
「そりゃ、そうだけどさ、ねえ」
「お願いよ、ね?」
上目遣いに頼まれると断れないのだ。
ハサウェイは「いいよ」とうなずく。
「じゃあ私の荷物、運んで頂戴!」
「そんなのベルボーイにさせれば良いだろ」
しまったと思う。
「イヤ。他人に触られるなんて」
彼女、潔癖症で、ここに荷物を運び入れるのも自分がやったのだったと思い出す。
「ああ、そうだね」
「そうでしょ?わかったらさ、ね、そこのトランクにつめ―」
ジェーンの手が止まる。
「あーっ!?」
「……今度は何」
振り返ったジェーンは、ローテーブルの上、少し丸まった雑誌を指差して、般若の形相でハサウェイに詰め寄る。
「これ!」
「雑誌?」
まさか。とハサウェイは嫌な予感を覚えた。
「まだ読んでなかったのに!」
「触ってないよ」
多分。
「イヤ!おんなじの買ってきてくれないとだめよ!」
言い出したら引かないからな。ハサウェイはうなだれたかった。
「わかったよ。荷物を運び終わってからな」
「ウフフ。ハサが来てくれてよかった」
ジェーンはハサウェイの頬に、背伸びして口付ける。
「はいはい」
ハサなんて呼ばれたのは初めてかもしれない。彼は頬をさする。
「ところでなんでここに来たの?」
もう忘れたよ。
ハサウェイは向こう一週間分のため息を、一気に吐き出した。

- end -

20100624

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