白のふわふわ



『あ、もしもし?兄さん?』

サハリン邸の住人はいまや当主のギニアス一人だけである。
客人が来れば応対しなければならないし、電話が鳴ればそれを取ることができるのも彼だけである。
朝食を終えてゆっくりと寛いでいたところにかかってきた電話、何の気に無しに取ったそれが、彼の休日を常ならぬものにしてしまうことは知る由もない。

「なんだ、アイナか」

声の主は彼の妹だった。この家には自分しかいないのに、なぜ確認するように『兄さん?』と聞いてくるのか、おかしく思いながら用件を尋ねる。

『ジェーンを預かって欲しいのよ』
「……は?」

ジェーン、とは。アイナの娘であり、ギニアスにとっては姪にあたる。あの子は今いくつになっているのかと薄ぼんやり考えている間に、アイナはべらべらと用事がどうだの、シローは忙しいだのまくし立てて反論の機会すら与えない。

『そういうわけなのよ』

まったく話が耳に入らず、どういうことなのか解らない。

「ちょっと待て、私だって」
『あ、もう着いたわ』

同じタイミングで家のインターホンが耳に入る。居留守を使いたいが、出ないわけにもいかない。

「…………」

玄関のドアを開けてみれば、携帯電話を片手に微笑むアイナと、くりっとした瞳で見上げるジェーンがギニアスの目に入る。

「ということで、よろしくお願いしますね、兄さん」
「……何時までだ?」
「遅くなるかもしれないから、これ一応着替えと歯ブラシと……」
「何!?ちょっと待て、」

泊まらせるとでも言うのかと、食いかかろうとしたギニアスの脚を、正しくは彼のスラックスをジェーンが掴んでしまっている。身動きが取れなくなった己の目と、小さな少女のつぶらな目が互いを見合っていた。言葉は、ない。

「それじゃ、頼みます」
「待て!」
「ジェーン!いい子にしてるのよー!」
「いってらっしゃーい」

誰に似たのかジェーンはマイペースな子供らしい。片手を振りながら母親を見送っている。
ジェーンは何歳なのだろう。基本的に他者に興味関心を抱くことがほとんどないギニアスは、彼の太股あたりまでの背丈の少女を観察してみる。
少なくとも言葉を話しているから二歳以上ではあるだろう。妹のアイナが小さい頃のことを思い出そうとしてみるが、さすがに背の高さなど覚えていない。そうこうしているうちにアイナは颯爽とエレカに乗って、たちまち見えなくなってしまった。
結婚して子供を産んで、ややガサツというか、逞しくなったのかもしれないと彼は呆れながら思った。

「おいたん、」
「…………」
「ね、おいたん」

ジェーンはギニアスを見上げながら呼びかけるが、彼は自分が呼ばれているとは思わず、「おいたん」とは何のことなのかを必死で考え込んでいる。

「ねー、ぎにあすおいたん」

名前を付けて呼ばれて、ようやく彼は「おいたん」が「おじさん」のことだと理解できた。同時に、そう呼ばれることに対しての戸惑いと、幼児言葉に対しての失望めいた感情が彼を襲った。

「……ジェーン」
「はーい!」
「おいたん、じゃない。おじさん、か、おじさま、だ」
「はーい!おいたん!」

がくっ。と肩を落としてしまう。良いのは返事だけらしい。やれやれとため息をこぼすギニアスだったが、その日の彼が味わう苦労に比べれば、そんなものは序の口にすぎなかった。
果たして子供を持ったことの無い身、どうすればジェーンが喜ぶのか皆目見当もつかない。いや、そもそも喜ばせる必要などあるのだろうか?かと言ってぐずつかれて困るのは自分のほうだ。色々と思いをめぐらせた結果、自分が子供だった頃はよく本を読んでいたことを思い出す。が、さすがに児童書の類は処分し、手元にある専門書は二十年後のジェーンですら読めるかどうかもわからないような代物ばかりだ。
そうだ、アイナが気に入っていた人形が物置にあったかもしれない。そう思って「おとなしくしているように」とだけジェーンに告げ、物置へと足を運ぶ。埃にまみれながらもきちんと整頓されているコンテナのラベルを一つ一つ確認しながら口からこぼれるのは愚痴だった。

「全く……何故この私が子供一人にここまで……」

と、悪態をつきながらなんだかんだで遊び道具を探し回るギニアスだったのだが、残念なことに人形も、遊び道具になりそうなものも何一つ見付からなかった。
どうしたものかと思案しながらリビングに戻ると、待っていろと言った筈のジェーンの姿がない。慌てて大声を上げるが返事もない。
まさか、よくニュースで見るようにバスタブの中で溺れてやしまいか。今は朝でバスタブに水を張っているわけもないのにそんな突拍子も無い嫌な予感を覚えるのも非日常が呼び起こしたものだろう。その刹那に、ギニアスの耳に、地鳴りのような音が聞こえた。
書斎の方向だ。

「ジェーン!どう、し……」

慌てて駆け込んだ書斎を覗き込んだギニアスは、おや、部屋を間違えたかなと一瞬虚をつかれた。

「おいたーん!」

キャハハハと笑い声を上げながら、ジェーンがすべりだいで遊んでいる。いや、この部屋に、この家にすべりだいなどあるはずがない。あれはなんだ。幻覚か。いや、違う。あれは……

「私の……蔵書が……」

子供を甘く見ていた。すべりだいの正体は、器用に積み上げられた本だった。
あ、あれは絶版の特装本、あれは古書店で運よく見つけた五十年前の本…。

「おいたんもー!」

ジェーンがきゃいきゃいはしゃぎながらギニアスを誘っているが、当の本人は深刻な眩暈を覚えていた。
それから意を決したようにつかつかとジェーンの方に歩み寄ると、彼女の脇の下に両手を入れて小さな身体を抱き上げた。
叱らなければならない、ここで叱らなければ、ジェーンは我侭放題に育ってしまう。親ではないが一応は血のつながった姪なのだ。十分に保護者と言えるだろう。
奇妙な義務感を覚えたギニアスは、すっと息を吸い、

「これは私の大事な本だ。いや、それでなくとも本はこういう使い方をするものではない!わかるか?」
「……?」
「……わからんか……うーむ、ようするにだな、」

ギニアスは必死で、ジェーンにもわかるような言葉を探した。同じ視線に持ち上げられたことを楽しみ始めているジェーンの笑顔に慌てて、思わず飛び出したのは、

「めっ!」

言った後に後悔するほど、子供染みた言葉だった。
が、ジェーンには最もわかりやすかったらしく、残念そうに「えー」というだけでその場は事なきを得た。案外聞き分けはいい子なのかもしれない。頭の中身は、そうでもなさそうだが。
不承不承、ギニアスが散らばった本を片付けている間、ジェーンはリビングのテレビで子供向けの番組を見ていた。時折飛び跳ねるような音だとか、歌声に聞こえなくも無い声が聞こえはしたが、散らかされたり物を壊されるより断然マシである。
この日ばかりは、一日中子供向けの番組が放送されていればいいのにと天を仰いだ。

とかく、子供の行動力と好奇心はすさまじい。
昼食を作っていると覗き込みに来る。危ないから向こうへ行けともいえない(また書斎を散らかされそうで)。
アイナはどうやってこの暴れん坊と毎日つきあっているのだろうかと考える。妹を少し尊敬した瞬間だった。
自分もアイナも、ああいう時期があったのだろうか、否、自分達はもっと落ち着きのある子供だったはずだ。そしてギニアスがたどり着いた答えは、「旦那のシローが悪い」。そもそも結婚するからと連れて来たその瞬間からあの男が気に入らなかったのだ。シローはギニアスとは正反対の男だと、そう彼は考えている。どこか地に足のつかない、悪い意味での理想主義者にも見えた。
その男の血が、この姪にも流れているわけだが。

「ジェーン、」
「はぁい」
「父親……いや、お父さんは好きか?」

子供と何を話せばいいのかわからないために間が持たず、思わずそう聞いてしまった。

「大好き!」

答えたジェーンの顔は輝いていた。なんとなく、自分とアイナとは違って家庭には恵まれているのだろうなと思った。少し安心し、少し羨ましくもある。

「おとうさんも、おかあさんも大好き。おいたんも、だーいすき!」

頬杖をついてニコニコと笑うジェーンが、どこか幼いころのアイナに似ていた。
子供に言われただけなのに、何故こうも暖かい気持ちになれるのか。くすぐったいような気持ちのまま、ギニアスは昼食のリゾットを皿によそった。普段使わない、小さな小さな皿に。
昼食を食べさせるのにも一苦労だった。熱いものを受け付けない舌には、リゾットは一口ずつ冷まして食べさせる必要があった。一々スプーンですくい、ふうふう息を吹きかけ、まるでツバメにでもなったかのような思いをしながらなんとか食べさせた。案の定、自分の分のリゾットは冷め切ってしまい、電子レンジに突っ込むこととなったが。


***


腹が膨れた所為か、ジェーンはリビングのソファで寝息をたてている。起こさないように皿を洗うのは、ただ単純に目覚めたジェーンに騒がれるのが嫌だからか、それとも、別の原因か。
とにかく、しばし休憩だ。とんだ休日になってしまったがために、ギニアスはここぞとばかりに蔵書をリビングに持ち込んでささやかな休息を楽しんでいた。
向かいのソファには、いつ目を覚ますかわからない小さな暴れん坊が、まるで天使のような顔で眠っている。こうしてみると、アイナの面影も認められるし、純粋に可愛いとも思う。子供だから可愛いのか、それが自分の姪だから可愛いのか。それとも、両方の要因が絡まってそう思えるのだろうか。
淡い光が差し込むテラスの向こうでは、小鳥の羽ばたきやさえずりが聞こえる。
こんなふうにおとなしくしていてもらえれば、悪くない、むしろ心休まる空間なのにな。ギニアスは子供のころを思い出した。仕事で不在の父、病没した母、家に仕えるものたちは皆笑顔だったが、どこかよそよそしい。

『みんな、だーいすき!』

どうかこの子の幸せが、いつまでも続くように。
ずっとジェーンを見つめていた視線を本に戻すと、向かいのソファが軽く音を立てた。もう目が覚めたのかと思って再び顔を上げると、ジェーンは上半身を起こして周りをキョロキョロと見回していた。

「どうした?」
「おかーさん……?」

ギニアスを見ようともせずに顔を歪めて泣きそうになっている姪にぎょっとして、ギニアスは思わず、栞も挟まずに本を傍らに投げ捨て、ジェーンを抱き上げた。

「おかーさぁん!」

わんわん泣き喚くジェーンの背を撫でれば、子供の高い体温が指先から伝わってくる。必死に小さな掌でギニアスの服にしがみつき、絶対で唯一の保護をくれる存在、母親を捜し求めているジェーン。目が覚めて、そこにいるはずの存在がいないというのが、理解を超えて恐ろしいのだろう。
心配するな、お前の不安は一時的なものに過ぎない。誰もお前を見捨てたりしない、誰がお前のような愛らしい天使を手放したりするだろうか。
確実に伝わっていないとは思うが、ギニアスはジェーンにそう聞かせ続けた。ジェーンが泣き止んだのは、言葉のためでなくて、おそらく背中を撫でつづけた不器用な掌によるものだろう。
なんとか泣き止んだジェーンにチョコレートを与えると、けろっとしたようにリビングを走り回り始めた。
子供というのはこういうものなのかと拍子抜けしながら、それでも何かジェーンから与えられたような気がしてならない。見ていると飽きないし、心が安らぐ。不思議なものだ。

「おいたん、おはなし、よんで!」

アイナが持たせたトートバッグから、ジェーンは一冊の本を持ち出した。やや厚い大判本の表紙には、オレンジ色で「世界の童話」と題されている。世俗的なテレビアニメの本よりはよっぽどマシな本を読ませているのだなと、ギニアスはアイナに感心した。

「しかしお前は本当に元気がいいな……」

半ば呆れながら本を受け取り、ジェーンに自分の隣に座るように促したが、ジェーンはソファによじ登ると、嬉々としてギニアスの膝の上を陣取った。これにはさすがに、ギニアスも不意をつかれたような顔をしている。
ジェーンはそこが自分の定位置だと信じて疑わないようで、黙り込んでしまった物語の語り部を不思議そうに見上げている。しばし両者が見つめあった後、ジェーンは握りこぶしでギニアスの両膝を叩きながら抗議した。ギニアスにとっては無論、小さな手で何をされても痛くもかゆくも無い。

「おはなし!」
「あ、あぁ。どれを読むんだ?」
「あかずきんちゃん!」
「わかった……」

目次で示されたページをめくりながら、ギニアスは人を二人も飲み込める狼について考察しようとして、やめた。
あまりにもくだらなさ過ぎる。物語ではなく、大人になった自分のそういうところが。

「……こうして赤頭巾ちゃんとおばあさんは、猟師に助けられました。はい、終わりだ」
「もっかい!」

ギニアスの小指の長さにも満たない人差し指を立てて、ジェーンは楽しそうに催促している。別の話なら読んでやらないこともないが、同じ話を何度も音読するのはさすがに飽きる。もうこれで4回目だ。

「ジェーン、さっきも読んだだろう。別の話にしないか?」
「やだっ!あかずきんちゃんがすきなの!」
「我侭ばかり言うのはいけない」
「うー……」

頬を膨らませて今にも泣き出しそうな顔を見ていると、子供という存在はこんなにもずるいものかとうんざりしてくる。こんな顔をされて、あまつさえ泣き出されるのはご免被る。哺乳類の幼生は保護欲をかき立てるために愛らしい容姿をしているというが、遍く哺乳類がこんな理不尽な思いをしているはずも無い。なまじ知能と感情を持ってしまった人間ゆえの、ある意味、悲劇だ。

「……じゃあ、あかずきんちゃんごっこする」
「……何?」
「よむのがだめなら、あかずきんちゃんごっこするの!」
「…………ごっこ?」
「ジェーンがあかずきんちゃん。おいたんはおおかみさん!はーい、じゃあはじめまーす!」

ジェーンは元気よくギニアスの膝から飛び降り、リビングをスキップし始めた。

「“きょうは、おばあさんのおみまい!わぁ、きれいな おはな!おばあさんは、きっとよろこんでくれるわ!”」

何度も読み聞かされていた所為か、ジェーンは台詞を完璧に覚えていた。そういうところにギニアスが感心していると、赤頭巾ちゃん、もといジェーンの催促が飛んでくる。

「おおかみさんっ!」
「私がやるのか?」
「さっきいったでしょ!」
「……えーと、“こんにちは、赤頭巾ちゃん”」

開かれたままのページを盗み見ながら、極力、話しかけるような口調で声に出す。すると気をよくしたジェーンが続ける。
ちいさなステージが繰り広げられている頃、サハリン邸の前に一台の車が停まった。が、誰も気づいていない。


***


「……おかしいな。呼び鈴を鳴らしても誰も出ない」

シローは玄関で首を傾げていたが、それもそのはず。現在リビングでは狼が赤頭巾を追い掛け回しているのだ。物音に加えて、楽しそうなジェーンの声に掻き消されていても不思議は無い。

「……お邪魔しまーす」

仕事を半休にしてもらってから義兄の家に来たはいいものの、苦手とするタイプの人間だけあって、というか向こうが自分を好ましく思っていないことは目に見えているから、出来ることなら早く帰りたい。
おそらくアイナから無理矢理娘を押し付けられて、義兄は非常に機嫌が悪いだろう。どう見たって、子供好きの人間には見えない。一応買ってきた菓子折りを小脇に抱えて、シローは玄関のドアをあけた。
ドタバタと走り回るような音がリビングから聞こえてくる。ジェーンがはしゃぎまわっているのだろうが、それを咎めるような声は聞こえない。些か不審に思いながらも、シローはギニアスが姪をそんなに悪くは思っていないのだろうと判断し、安堵の息をついた。
この調子なら、今後はうまくやっていけるかもしれない。気を引き締めた笑顔を心がけながら、彼はリビングのドアを開けた。

「ようし、つかまえたぞ赤頭巾」

シナリオどおりに進まない童話だった。ベッドに横たわったはずの狼が、起き上がって赤頭巾を追い回したら正体がばれるだろう。と、またも詮無いことを思いながらギニアスは暴れん坊の赤頭巾を追い回して、ころあいを見計らって捕獲していた。
つかまったのに嬉しそうなジェーンを抱き上げてソファの片端に追い込む。

「きゃー!おおかみさんにたべられるー!」
「覚悟しろ赤頭巾、一思いにのみこんでやる」

ギニアスが両手を挙げてつかみかかるフリをした、そのときだった。

「お義兄さん、お邪魔してます。娘が世話になって――」

ドアを開けたシローは瞬間、身体を強張らせた。抱えていた菓子折りが床にゴトンと音を立てて落ちた。「あ、おとーさん!」と、走りよるジェーンだけが、動いている人間だった。
シローはといえば、固まった後に笑えばいいのか謝るべきか判断できずに口の端をヒクヒクさせ、彼に向き合う形でギニアスは完全に固まっていた。

「おとーさん?」

ジェーンにスーツの裾を引かれて我に返ったシローは、急いでジェーンを抱き上げた。

「お、お世話になりましたっ!」

それだけ言うと、彼はまさに一陣の風のように姿を消した。「おいたん、またねー!」とジェーンの声がかすかに聞こえる。
ギニアスは、どれくらいそうしていただろうか。ゆっくりと両腕を下ろし、そのままソファに項垂れた。ふるふると肩を震わせながら、

「…………もう、絶対に子守などしないぞ」

そんな言葉が聞こえたとか、聞こえなかったとか。

- end -

200903**

20121118加筆修正

『白のフワフワ』空気公団