剥落

 彼が其れを見たのは偶然だった。秋の風という表現はスペース・コロニーに似つかわしくないかもしれないが、ともかく肌を撫でる風が冷たくなってきている頃だった。
 彼は二十一歳の青年だった。ただ、どこにでもいるような青年ではなかった。一年前に士官学校を卒業し、彼は現在ザビ家親衛隊の一員となっていた。軍服の襟に付けられた紋章は一目でそれとわかるような威厳を演出している。が、彼の場合はそれだけに留まらず、平均よりも高い背丈と冷徹とも取れそうな顔付きが人々を拒絶しているようにも見えた。
 事実、士官学校に在籍していた頃にも彼に友人と呼べるような存在は極めて少なく、半ば揶揄されるように付けられた「秀才」の名はその原因か結果か、否、両方なのかもしれない。そう、彼は非常に優秀な士官候補生であった。実技の面でも、座学でも、同期生たちよりも抜きん出ていた。しかし、その優秀な成績が彼を親衛隊の一員たらしめたわけではない。
 事実上の国家元首であるギレン・ザビによる親衛隊の選抜はそのような書類上の事実で判断されるものではない。
 では何故、彼は今襟元に誇らしげに――そう、実に彼は誇らしそうなのだ――紋章を留めているのか。

 親衛隊のみならず、軍人にもっとも求められることがある。特に、彼のようなまだまだ新米と表現されるような軍人に。それは与えられた任務の是非を問うことなく(それは上官に対してと、自分の良心に対してという意味で)遂行できること。
 彼は、それが出来る人間だった。何故未だ年若い彼がそうできるのか。自分という個を、集団の中で押し殺すことが出来るからなのか、それともギレンの掲げる、云わば選民思想のような概念に酷く心酔しているからなのだろうか。どちらにせよ、それは彼にしか解らぬことではある。仮に彼に“友”がいたとしても、決して崩れることのない彼の表情からは読み取ることなど不可能であるだろうし、聞きだすなどは言わずもがなだった。
 ともあれ、彼が士官学校を卒業するときに書いた論文が、『優性人類生存説』を強固に支持する内容だったことはここに記しておこう。
 その彼が、親衛隊でありながら今、市街地の奥まった路地に佇んでいる理由は極秘のものであった。


「LOVELESS」


 そもそもジオン共和国が現在のようなザビ家独裁を取るようになる前は、サイド3は民主的な一コロニーだった。工業が発展していることぐらいが特徴のこの、地球から最も離れたコロニーに転機をもたらしたのがジオン・ズム・ダイクンである。ダイクンは地球を聖地として保護し、人類はスペース・コロニーで生きるべしと、そしてそのスペースノイドからこそ『人類の革新』は起こると説いた。それはスペース・コロニーを文字通り地球の植民地としかねないような地球からの圧政に耐えていたスペースノイドに受け入れられた。そうしてサイド3はコロニー単独での自給自足が実現可能となった時点でジオン共和国の建国を宣言する。宇宙世紀0058のことだった。
 そのダイクンももはや過去の人間である。彼の早すぎる死はサイド3を深い悲しみに突き落としたことは言うまでもない。
 その頃からだった。
 軍によって情報統制は為されているものの、そのジオン・ダイクンをザビ家が謀殺したのだという見方が一部に広がっている。無論、ダイクンを支持していた者たちに、である。それは、ザビ家がダイクン派の粛清を徹底したことによりいっそうの真実味を帯びていった。ダイクンの遺児は行方不明であり、その幇助をしたといわれるジンバ・ラルも同時に姿を消している。
 真相を知るものはない。真相というものが存在するのかどうかすら、疑わしいような深い闇がどこまでも広がっている。

§

「エデン、という酒場を知っているか?」

 一週間前、彼は上官に呼び出され、唐突にその質問を受けた。
『エデン』
 なんの捻りもない。そのような名の店なら、この地球圏、いや、サイド3のズムシティにすら腐るほどあるだろうと怪訝に思いながらも、特定できるような店を彼は知らなかった。
「存じません」
「アストライアの名は?」
 アストライア・トア・ダイクン。建国の父、ジオン・ダイクンの妻であるが、正妻ではない。先に述べたダイクンの遺児は、このアストライアとの間にもうけた子である。
 しかし夫と違って政治にほぼ無関心であったはずであり、ダイクン死去後も憔悴し落ち込むほかは取り立てて目立った動きもしていない。
 彼は鋭い眼光を放つ瞳をさらに細くした上官に、只一言「存じております」と応えた。
 彼女がどうしただの、何故だの、彼には問う気はなかった。
「エデンというのは、彼女が勤めていた酒場だ」
 親衛隊の隊長は重厚な艶を放つ執務机の上から銀色のペーパーナイフを取り、生気のないかさついた指先で弄んだ。
「俗な話になってしまうが……まあ許してくれ。ともかく、ジオン・ダイクンはその“エデン”でアストライアと出会った。それだけならば、私は君にくだらない話などしない。
 問題は、そこにいた人間なのだ。」
 説明の間、彼はかすかにすら口を開かなかった。
「これまでで、表立って活動していたダイクン派はほぼ排することができた。が……ジオン・ダイクンの子供を連れ出したのは“エデン”の連中らしい。
 ……不思議そうな顔すらしないな。まあ、いい。
 もう十年以上も前のことを穿り返すのにもわけはある。アストライアはすでに死亡している。もちろんこれは我が軍にも伝えられたことだ。ただ、ダイクン派を含め人民に対しては伏せていた。
 君ならば、たかが一人の女の死に瀕して何故そのようなことをしなければならなかったかわかるとは思うが」
 銀色のペーパーナイフから視線をあげ、彼に対して些か挑戦的な一瞥を注いだ。
「……かなり低いとは思いますが、ダイクン派、それも“エデン”のような裏の連中による暴動を避けるため、でありますか」
「正解だ。
 アストライアは、“エデン”の歌姫だった。美しい女性でもあった。また、今日のわが国が成り立つ前、すなわちダイクンが首相だったころの人民からの人気が高かったのはいくら幼かった君とて記憶にないわけはなかろう」
「は……」
 いささか神経質にすぎるのではないかとは思われた。しかし口には出さない。美しき歌姫の死去が、夫を失った悲しみにあり、そしてその根源はザビ家にありと短絡的に考えるものがいないとはいえないのだから。
「アストライアの死去が、洩れたらしい」
 ひた隠しにしていた事実が日の目を見ることになった。それによる混乱は今のところないものの、親衛隊は開戦準備に奔走しているギレンに憂慮の種は与えたくない。それが本音だった。
 ギレンをはじめ、ザビ家の面々にとって親衛隊の存在は単なる護衛なのかもしれない。ただ、忠誠心の厚い部下が指示をせずとも有利に動くことを期待していたのだとしたら、ギレンの“選抜方法”はまた違う意味で彼の慧眼を表していると言えよう。
「閣下は現在、開戦準備のために各地を移動なさっている。無論、我等親衛隊も半数以上が閣下に付き従っている。動かせる人員は少ない。消極的な理由ではあるが、君がこの任についてもらうことになる。
 “エデン”の主な面々で軍人である者はすでに徴用されてしまった。関係者に接触するのは容易ではないが、出来うる限りの情報は集めた」
 音も立てずに机の上を滑り、差し出された黒い封筒。大判のそれは“出来うる限り”という言葉に表されているように、外観からも中身の少なさがわかる。
「君の行動は決して何者にも気取られぬように注意して欲しい。よいかな?
 ――アナベル・ガトー中尉」
 それが話の終わりだと理解して、彼、アナベル・ガトーは黒い封筒を手に取った。

§

 そうして、ほとんど役に立たない“情報”を元に調査をして一週間。有用だと思えるような成果は挙げられず、彼は今し方総帥府に情けない報告をしてきたところだった。
 それでもたった一週間で調査を切り上げるわけにもいかず、今後は自己の判断で行動するよう命じられた彼は宿舎へ帰る道すがら、何かよい方法はないものかと思案していた。
 そのときだった。
 彼が薄汚れた壁を中途半端に飾るポスターに目を留めたのは。


「LOVELESS」


 髪の長い女が頬杖をついてこちらを見ている。二の腕が細く、胸元の開いた服以外に装飾品は身につけていない。
 モノクロの写真のなかで、眼差しだけが異様に目を引いた。壁に沿って何枚も連続して貼られたポスターは、かなり異様ともとれる。
「(似ている)」
 アストライアに。彼はそう感じた。
 与えられていた“情報”の中に、彼女の家族関係に関する資料はなかった。もしかすると、このポスターの中の女は彼女の親類かもしれない。
 なんの根拠もない仮説だが、むやみやたらに行動するよりはまだ可能性があるようにも思える。


「LOVELESS」


 ポスターの隅に小さく書かれた地図は、比較的大通りに近いところにハート型の印が付けられている。営業時間は18時から翌5時、ここも酒場なのかもしれないが、このように大掛かりな宣伝を行うのは不自然だ。
 やはり、怪しい。もし何らかの“活動”の根拠地となっているのなら目立たぬようにするだろう。が、逆に目を眩ます目的で目立とうとしているととれなくもない。
 いずれにせよ、調べてみる価値だけは十分にあるように、そのときの彼には思えたのだ。

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