過去

 結末、といえるのか定かではないが、アナベル・ガトーが目の当たりにした事実は驚くほどあっけなかった。

「今朝未明、四番街大通りにて女性が血を流して倒れているのが見つかり、搬送先のズム・シティ総合病院にて死亡が確認されました。警察は現場の状況から見てひき逃げの可能性が高いとし、捜査を開始しています。
 死亡が確認されたのはヴィオーラ・ハルバートさん、二十五歳で……」

 毎朝の日課で同じ局の同じニュースを見ていたガトーは、コーヒーを口に運びながら何かひっかかるものを感じた。一体今のキャスターの読み上げた内容のどこがおかしいのだろうか。
 四番街大通り……ズム・シティ総合病院……警察……ひき逃げ……ヴィオーラ・ハルバート……

「―ヴィオーラ?」

『あら、セシルっていうのは確かに英語圏では男性名だけど、フランス語圏じゃ列記とした女性名よ。
 ――ジョセフ、ギムレットをお願いね』
『あ、ヴィオーラさん。お久しぶり。相変らずの博識ぶりだね』

「あの女……?」
 テレビにかじりつくようにして画面を覗き込むが、そこには被害者の顔写真の類は映っていなかった。事故現場と思われる四番街の映像が延々と流されるだけで、めぼしい情報は流れない。
 昨日自分を尾行ていた女が死んだと決まったわけではない。が、もしそうだとしたら……あまりにも恐ろしいタイミングではないか。身の毛のよだつような感覚がした。一体何が起こったのか、彼の思考は軽い混乱を起こしていた。

§

「あっ」
 昨晩よりも少し早い時刻に『LOVELESS』を訪れてカウンターの同じ席に座ると、ジョセフが血相を変えて何事かを耳打ちしてきた。今日はセシルのステージがない所為か客が極端に少ない。
「なぁ、ニュース見たかい?」
「……ということはあの事故の被害者はやっぱり、」
「そう。昨日お兄さんの隣にいた人。ヴィオーラさん、常連だったんだけどな」
「人の運命はわからないものだな」
「……」
「なにか?」
「……お兄さん、口が堅そうだから教えちゃうけど、あれって事故じゃないらしいぜ」
「……何?」
「なんかよくわかんないんだけど、殺されたんじゃないかって言われてる」
 まさか、と一笑に付すことすらできなかった。今朝方に感じた怖気が再び背筋を登ってくる。
 もし本当に殺されたのだとしたら、彼女が追っていた“セシル”と自分の立場も危うくなるのではないか。視線が泳いでいるのを自覚したガトーは、
「誰がそんな馬鹿馬鹿しいことを」
「アングラで活動してる連中」
 鼻で笑うような素振りを見せようとしたが、無駄だった。あまりにも聞き捨てならない内容に、思わず「それをどうして君が」と、ジョセフに詰め寄っていた。
 彼があまりにも凄んでいたためか、ジョセフは一瞬たじろぎながら、
「アクセスできるんだよ。ああいう人たちって情報を端末で発信するだろ?あんまりおおっぴらにやらないし、危険思想なんていわれてるけどね。でもま、暇つぶしには十分なものだぜ?良識のある大人なら都市伝説みたいな感じで楽しめるし。そうそう、ダイクンの息子がズム・シティに潜入してるなんてネタもあったな」
「そこにアクセスしたのか?」
「まさか。そんな危ない橋渡るほど俺だって暇じゃない。
 お客さんの中にそういう物好きな人もいるだって。あぁ、言っとくけどその人たちは怪しい人じゃないからな。この話はさっきまでいたお客さんが言ってたんだけど、……ヴィオーラさん、実は連邦のスパイで公国軍に正体がばれて殺されたんじゃないかって」
「なんだと……?」
「笑えちゃうだろ?大体今のサイド3は入植すら規制されてるのにそんなことできるわけない。ま、こんな感じの話題だ、暇つぶしにはなるよ。
 に、しても。死んだ人を悪く言うなんてちょっとどうかしてるよな……」
 ジョセフは眉をひそめてマドラーをくるくると回した。
 軍の一員であるガトーにとって「連邦」の言葉は無視できないことだったが、一民間人である彼にはどうでもいいゴシップ扱いが関の山らしい。そう、今の話をしていればジョセフが何も知らない(と言っても裏の情報にそれなりに通じているのだろうが)、何かを積極的に知ろうとしない、良識的な民間人であることはわかった。そして彼の持つ情報が非常に有用であることも。
 もし、もしもヴィオーラが連邦の人間で“セシル”を追っていたのだとしたら、事故の真相はさておき連邦がここまでして追いかける“セシル”にはいったいどれほどの重要性があるというのか。命じられた調査の目的からはかけ離れるが、これはこれとして放っては置けない。
 もちろん、それが本当ならばの話だが。

「あの、」

 考え込んでいたガトーは、不意に後ろからかけられた声に振り向いた。
 昨日と同じキャップを被った“セシル”が立っていた。ステージのない日はこのようなラフな格好で化粧もしていないのだろうか。一度に色々なことが起こりすぎて思考の糸がもつれていたガトーは、“セシル”が彼の服の裾を引っ張るまで、彼女を眺めているだけだった。ここでは会話が出来ないのだとようやく気づいたガトーは、はっと我に返り席を立つ。
「え?もう帰っちゃうの?」
 カウンターからジョセフが振り向きざまに怪訝な声をあげる。どうやら後ろに立っているのが“セシル”だとは気づかないらしい。
「すまない。連れが来たんだ。急がないと映画が始まってしまう」
「彼女と一杯ひっかける暇もないってか?次からは余裕を持って待ち合わせしてよね」
 カランと音を立てたドアを閉じ、二人は連れ立って歩き出した。下手に立ち止まるより、歩きながらの会話の方が目立たない。

「あの人……」
 “セシル”はずいぶん歩いたところで口を開いた。今朝のニュースを彼女もまた目にしたのだろう。言いようのない感情が胸の中で渦巻いているのは、ガトーだけではないのかもしれない。
「死んだんだから、別に調べなくてもいいんじゃないか?」
「でも、今までどういった目的で私に……」
「本当にわからないのか?」
 眉尻を下げる“セシル”を目の当たりにして、威圧するように問い詰めてしまったことを少し後悔した。
 それでも、なんらかの情報を握っていそうなのは“セシル”だ。少なくとも連邦の人間と推測されるような人間に付き纏われていたのならばその正体はかなり公国にとって重大なものなのではないだろうか。知っていることを話さなくとも、どうにかして素性ぐらいは掴まなければならない。いっそ自分の身を明かして連行してしまえば話は早いのだろうが、そういう気にはなれなかった。まだ、彼女に関して確証を持って「怪しい」と言えるような材料がないのがその原因かもしれない。
 どうしたものかと思案をめぐらせていたガトーは、昨晩のヴィオーラの言葉を思い出した。
「“セシル”というのは本名か?」
「……違う」
 九割ぐらいはそうだろうと思っていた。
 無論彼は“セシル”に続けて質問をするのだが、
「本当の名前は?」
「わからない」
「わからない?」
 名前を忘れた“セシル”は心底情けなさそうに呟いた。叱られて意気消沈してしまった子供のような顔をして。
 ガトーが怪訝な顔を向けると、彼女は
「私には、昔のことがわからない。今のお店で働きだしたのが0078年の初め、それだけです」
「……記憶喪失、か?」
「キオ……? なに?」
 どうやら彼女が“まだ”理解し得ない単語だったらしく、ガトーは「いや」とだけ返した。
 “セシル”はキャップを脱いだ。服装がグレンチェックのシャツワンピースに長いカーディガン、その服装にキャップは何か違うような気がしていたガトーは現れた“セシル”の素顔を見つめた。
 平時はこんなふうに、薄い化粧をしているのだろうか。それでも長い睫が伏せられた沈痛そうな顔は見ているこちらが辛くなりそうだった。
「店の連中から何か聞かされたりしていないのか? 事故にあったとか、そういう……」
 なるべく言葉を選びながら話しかけたのだが、“セシル”の表情は一向に変わりはしなかった。
「私を今のお店に連れてきたのは、全然別の人」
「それは……名前なんかは、覚えていないのか?」
「わからない……あの、」
 ようやく顔をあげた“セシル”の瞳には、ネオンに照らされたガトーが映りこんでいた。それがあまりにも真剣な表情をしているのが彼自身にもよくわかるほど。
「どうして?こんなことを聞くの?」
 それは、
 口を開きかけてガトーは視線を宙に彷徨わせた。至極まともな疑問ではある。
 なにか上手い言い訳がないものかと頭を回転させるが、どうにもこういう、人を騙すような真似が向いていないのだからしょうがない。
「……気になるから」
「え?」
 “セシル”にとってあまりにも意外だったのだろう。それはガトーとて同じで、これではまるで遠まわしな愛の告白ではないかと気づいた時にはもうひっこみもつかないような気になっていた。
「それでは駄目か?」
「駄目……そういうわけ、じゃあない……」
「人気のシンガーだからな」
 これこそまさに言い訳の見本のような台詞を最後に付け足して、居心地の悪い空気をごまかそうとした。“セシル”はそれに納得するような風でもなく、すんと鼻を鳴らした。
「それよりも、君はあの女性に付け狙われていたことを誰かに話していないだろうな?」
「え? うん……話していない……」
 それは何故だと言わんばかりの目を向ける“セシル”に、彼は説明した。ヴィオーラ・ハルバートがもし事故死したのではないのだとしたら、“セシル”に嫌疑の目が向けられる可能性もゼロではないということを。
「でも、それじゃあ貴方だって同じ」
「俺は一度だけだ。しかも誰にも話していない」
「本当に一度だけ?」
「……彼女とは初対面だったんだから当たり前だろう。名前だって知らなかったんだ」
「……そうか、そうね」
 それで安心したのかどうかは解らないが、“セシル”は口をつぐんだ。
 二人はしばらく無言で歩いた。ガトーはこれからの捜査の目処に悩んでいたし、加えて“セシル”からは何も聴きだせそうにない。それだけならまだしも、なにやら別の面倒ごとに巻き込まれた気がしないでもない。“セシル”はおそらく、ヴィオーラの死に色々思うところでもあるのだろう。
 ふとガトーが横を歩く“セシル”のほうを見ると、間を空けずに彼女も視線を上げた。
「貴方の名前は?」
 まだ夜になってからそう時間が経っていない街は人で賑わっている。
「ガトー」
「それだけ?」
 偽名を使ったほうがよいのだろうが、咄嗟には何も浮かばなかった。友人の名を借りようとは思ったのだが、それも不義理だと思ってしまう彼の性には合わないらしい。どうにも、こういう裏でチョロチョロと活動する仕事より、戦場に出るほうが向いている気がする。
「それだけだ。君だって名前を教えてくれないからな」
「私は……だって、しょうがないもの」
 口を尖らせて拗ねたような表情に、彼は笑った。
「そのうち思い出すさ」
 気休めにもならないような台詞に、
「そうね、でも、思いださないほうがいいような気もするの」
 “セシル”の、どこか遠くを見つめる瞳は曇っていた。
 つい、と横に流すように顔を動かして、“セシル”は笑顔を向ける。
「何をしている人?」
 一瞬、自分のことだとは気づかなかった。
「大学生」
「何歳?」
「なんでそこまで聞くんだ?」
「気になるから」
 自分の台詞を、まっすぐな瞳で言われると言葉に詰まる。
「……何故?」
「ズルイ、私はそこまで聞かなかった」
「俺だって君の年齢なんか聞いていない」
「やっぱり、ズルイのね」
 “セシル”は、今度は口を尖らせずに、肩をすくめて諦めたような素振りをした。
 お互いに何かを聞き出すのは無理だと感じているようでもあるし、そうしまいと気を配っている風でもある。どちらにせよこの場での会話はこれ以上、有益にならなさそうだとガトーは判断し、
「用事がないのなら、送って行く」
 せめて最後に家の場所でも知っておこうと思った。保険だ。
「近くまででいいわ」
 警戒しているような口調だが、ほぼ初対面の異性が相手なのだから自然といえば自然である。
「もう九時だからな」
「まだ九時よ」
「不健康な生活をしているんだな」
「貴方は少し真面目すぎるのね」
 そんな会話をしながら、平々凡々な住宅街にたどり着くまでに十分もかからなかった。住宅街と言っても今のズム・シティは人工が増えすぎてマンションのような集合住宅が主な物件であるが。その中でも二人がたどり着いたのはオフィス街と学校からそう遠くはない住宅街だった。どのマンションも全ての窓が明るく、息のつまるような印象を与えていた。人が増えすぎた地球から逃れてきたのに、そのコロニーが飽和状態など、本末転倒もいいところだとガトーは思っていた。
「ありがとう」
「礼には及ばない」
 街灯の下で笑った“セシル”を目の当たりにして、ガトーは唐突にある考えに思い至った。それは全く馬鹿げていて、加えて彼の任務には何のかかわりもないことではあったのだが。それでもその考えが飛来した瞬間に、何もかもが一気にほぐれるような、いや、ほぐれたのは彼の心の中だったのかもしれない。“セシル”を初めて見たときから感じていた違和感の正体、アストライアと見間違えてしまった理由。

 “セシル”は、美しい。

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