氷の海

 ヴィオーラという女が死んだのとほぼ時を同じくして、数件の変死事件が発生していたことがわかった。
 交通事故、バスタブでの溺死、泥酔した結果屋外で凍死。おそらくそれらすべての事件を結びつけて考えたものはいないだろう。諜報部からの報告書に目を通した親衛隊隊長である特務少将は浅く息を吐いた。

§

「お兄さん、うちの店気に入ってくれたみたいだね」
 ジョセフに指摘されて、思わず渋面を作ってしまった。確かに彼の言うとおり、ガトーはこの一週間、本部への報告に出なければならなかった一日を除き、『LOVELESS』に欠かさず顔を出している。そのうち“セシル”がステージに立たない日はなかった。どこも似たような酒場だらけのこの街では、歌姫でもいなければ競争に勝てないのかもしれない。
「うちの店っていうか、“セシル”が気に入ったのかな?」
 気に入った訳ではないと言いたかった。意地の悪いジョセフの笑みは癪に障るが、歌姫に入れあげている客を装うほかない。
「まぁ、そうだな」
「あらま、当たっちゃったよ」
「人気なんだろう?」
「そうだねぇ……お客さんの中にはお金積んでどうにかしたい人もいるみたいだけど」
 値踏みするような視線に心底嫌気がした。自分は彼女をどうこうしたいとも思わないし、そもそも任務上の必要に駆られて行動しているのだから。
「一緒にするな」
 とはいえ、ひやりとしなかったわけではない。ここ数日は勤務が終わった“セシル”を家の近くまで送り届けることが日課のようになっていた。彼女は正体がわからないようにしていたけれど、二人は見ようによっては中睦まじい恋人たちのように映ったかもしれない。
 体のどこかが、痛んだ気がした。
「してませんよ。お兄さんはそういう風には見えないし」
 グラスの底で氷が軽く崩れた。
 ジョセフの言うとおり、自分は色恋沙汰には疎い方だと思う。いや、疎いどころか何も知らない。
 異性を見て特別の感情を抱いたことはないが、異性に対して湧き上がる欲を感じなかったことは無い。精神的な性愛というものを知らないのかと問われればそうかもしれないし、そうでないかもしれないとしか答えられない。
 したがって彼は、自分が恋をしているのだと思ったことはない。恋というものが自らにもたらす感情の変化を知らない。ひょっとすればかつて知らずのうちにそういう事実があったのかもしれないが、一体どのようなものであるのかを教授してくれるような誰かはいないし、そんなことができるとも思わない。
 身に覚えの無いうちに転寝をしてしまうように、目を覚ました後で、取り返しのつかぬようになってから、気づくのかもしれない。それとも、その真っ最中に自己暗示をかけるように『これが恋というものなのだ』と思い込むのがそうなのかもしれない。

――いつも送ってくれてありがとう。私、あなたと一緒にいるとすごく、安心する。

 一体、どういうものを恋と呼ぶのだろうか。
 どういうものが恋と呼べる感情なのだろうか。相手のことを知りたいと思うことは、恋だろうか。とすれば人間は対象を異性に限らずして恋ができる生き物なのだろうか。相手を知りたいというのは間違っていないかもしれないが、恋というのはもっと泥臭くて見苦しいような思いを、知りたいなどという言葉にくるむ必要のある感情なのではないだろうか。
 では、女を抱きたいと思うことはどうだろう。
 種の存続という本能がある以上、その本能に従うことは理にかなっている。だがそれが、人類が現れて久しい今現在の世の中でどれほどの意味を持つだろうか。人は、増えすぎた。その結果が自然を捨てて人工の世界で生きる自分たちなのだ。シリンダーの中で生まれ、生きる自分達にそのような本能があるのかすら疑わしくなってくる。
 かと言って、自分を含め周りが全て血の通わぬ心を持った人間だとは到底思えない。笑い、泣き、怒り、悲しむ。社会的地位に固執するし、憎悪を向ける相手もいる。誰かに認められたいと願って努力をするし、人肌が恋しいと言って求め合う。けれどそれはもう種の存続などという次元の話ではない。刹那的な快楽を求めるために体を貪ることが恋なのか?それは絶対に違う。それを肯定してしまったら、花街の女も男も金銭のやり取りで恋を表現しているに過ぎなくなってしまうのだから。

 考えにふけるガトーを、ジョセフは訝しく思う間もなかった。
「いらっしゃ――」
 表のほうが一瞬どよめいたかと思うと、来客を告げるように開いたドアから光が射す。ジョセフは笑顔を作って迎え入れようとしたのだろうが、彼の表情はぎこちないままにこわばった。
 何事かと思って振り返ったガトーの目に映ったのは、冷徹な無表情を貼り付けた軍服の男たちだった。
「治安維持軍だ。礼状により家宅捜索を行う」
 特別警察もかくやの働きを誇る治安維持軍の男が二人。捜索と言うわりに小規模な理由はいろいろと想像できるが、よりにもよったなというのが正直な感想だった。あまり鉢合わせたくはない相手だ。あちらは叩き上げの現場主義、こちらは士官学校卒の何も知らない若造と思われているのが関の山だろう。もっとも、私服の自分を彼らが正しく認識しているはずもない。
 ガトーは「巻き込まれたくない市民」のふりをしてゆっくりとカウンターに向き直ると、グラスの中のウイスキーをなめた。ふと見上げたジョセフの目が泳いでいる。
「そ、捜索? あの……店長が今日はまだ……」
「そちらの都合など関係ない。おい」
「は、」
 軍人二人はずかずかと酒場の奥へと入り込んできた。ああいうやり様が市民の感情を逆撫でするのだろう。と、ガトーは苦々しく思っているが、所詮管轄違いのことなのでどうにもできない。管轄違いだからこそ、ガサ入れのことも知らなかった。知っていれば来なかっただろうにと思ってもどうにもならない。
 とはいえ、ひとつだけ収穫があったとすれば目の前のバーテンの態度だろう。
 ジョセフは何か隠している。
 もともと落ち着きがある人間だとは思えなかったが、今の彼の動揺ぶりは尋常ではない。それが何なのかは知る由もないがジョセフは確実に、何かを知っている。
 まずいな、と思ったのは、おそらく治安維持軍のほうがジョセフを連れて行くだろうと思えたからだ。彼らの目も節穴ではあるまいし、ここまで挙動不審の男を連行しないほど治安維持軍も阿呆ではない。そうなれば親衛隊は手出し無用だ。もともとこんな、市井にまぎれて何かを探るような任務が親衛隊らしからぬのだから。なぜこの数日でジョセフの挙動に気づけなかったのか。節穴の目をしているのは自分ではないか。
 ガトーが頭を抱えている前で、ジョセフは浅い息を何度も吐き出していた。
「ちくしょう、なんで――」
 ギリギリまで張りつめた緊張のせいか、彼の額には汗の粒が浮かんでいた。ガトーですらたじろぐほどの気迫に、ジョセフの言葉の意味を問いただす間もなかった。
「……う、うわああああああ!!」
 カウンター下から彼が取り出したのは鈍く光る拳銃だった。叫び声とほぼ同時に銃口が火を噴く。鉛の弾は治安維持軍の一人の肩口をかすめ、壁に背を向けて座っていた客の頭上にめりこんでいった。悲鳴が上がる。
「貴様!」
 言うまでもなく帯銃していた軍人はホルスターからナバン六十二式を抜く。訓練された軍人の狙いは、動揺した民間人のそれとは比べるまでもないほどに正確だった。
「俺は何もしら――」
 眉間を打ち抜かれたジョセフが崩れ落ちるのを見届けず、ガトーはカウンター下に身をかがめた。店の奥からかなりの人数が押し寄せてきているのが聞こえたからだ。
「テロリストどもが! ――撃て! 応援を……」
「ザビ家の犬め! 恥を知れ!」
 それからはまさに地獄絵図の様相だった。
 店主を筆頭に何人かの武装した男女が発砲し、治安維持軍も応戦する。店内の客は我先にと外へ逃げ出そうとするのだが、店の表で待機していた人員が応援にと中へ入り込むのとまともにぶつかり合ってしまう。店主らは自分たちの身を守るために治安維持軍へ向けて発砲するものだから、巻き込まれた民間人は次々に折り重なって死んでいった。
 ガトーは苦々しげに舌打ちし、腰に隠していた拳銃に手を伸ばした。
 錯乱したジョセフらと治安維持軍の衝突に首を突っ込んだものかと逡巡していたのだが、相手がサブマシンガンまで持ち出したのでは四の五の言ってはいられない。彼らが持っている武器は自衛のための武装という範疇を超えている。事情はどうあれ協力するのが軍人としての筋だろう。
「(一体どういうことだ……)」
 反政府組織の根城だったのかもしれない。ジョセフは何も知らないと言いたかったのだろうが、案外その通りなのだろう。彼のように軽薄そうな人間はせいぜい見張り番が関の山だ。軽々しく情報を握らせるわけもない。非情なようだがそれがすべてだろう。
 銃声と怒号と悲鳴はしばらくの間止まらなかった。
 硝煙と血のにおいにまみれた店内に、拳銃のグリップを握ったままガトーは身を潜めていた。幸いにしてカウンターの脇に隠れていた彼はどちらからも気づかれてはいない。ようやく落ち着いただろうかと思いながらそろそろと立ち上がると、果たして麗しいはずのステージも何もかも、目を背けたくなるような惨状に成り下がっていた。
 もはや息のあるものはいないだろうし、いたとしても遅かれ早かれそれは止まるに違いない。軍とテロリスト共倒れと言ってもいいような状況だった。付記するとすれば、まったく関係のないだろう民間人までもが巻き込まれ、死亡しているのは不憫といえば不憫だった。
 ガトーは眉間に皺を寄せ、銃を持たない方の手のひらを握り締めた。冷静なつもりではいたが、義憤に駆られていたのかもしれなかった。何に怒りを向ければいいのかわからないままに。
 かたん、と、背後で何か硬いもの同士が触れ合う音がする。振り向きざまに銃口を向けたその先には、
「……あなたなの?」
 怯えた目をした“セシル”の姿があった。
 彼女は今日もこれからステージに上がるような格好だった。黒いドレスに滑らかなショールを羽織り、胸の前でかきあわせるようにして弱弱しく首を振る。
「あなたが?」
 視界の端に、ピアノが移った。さっきまでつややかな光沢を放っていたそれには銃弾がめりこみ、血で赤く染まっている。
「――違う」
 ガトーが一歩踏み出せば“セシル”は二歩後ずさる。違うのだといくら話してももうどうしようもないのだろう。
 サイレンが聞こえる。まもなくここには警官隊と軍が押し寄せる。
 ガトーは駆け出した。
 彼女の細い手首を掴み、夜の街を港へと駆け出した。

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