「あそこで連中が何をしているのか知らなかったのか」
「知らない、私、何も知らないの」

 “セシル”の言葉には嘘のような響きはなかった。とはいえ、仮に嘘をついていたとしても、ガトーにはそれを判別できるほどの冷静さはなかったと思う。曇った眼で何かを判ずることの難しさくらいは彼も理解していたのだから。
 港までの道は公共交通を利用した。タクシーなど使おうものなら遅かれ早かれ検問にひっかかるだろうが、コロニー公社が運営する交通機関は軍が要請を出しても多少のタイムラグがある。一か八かの賭けだった。
 時刻はまもなく二十時を回る。ガトーは腕時計を横目で確認しつつ、“セシル”を見下ろした。
「――君が知っていようがいまいが、軍は逮捕しにくるだろう」
「そんな、私、本当に何も、」
 知らないと言おうとした小さな唇は、それ以上動かなかった。
「逃げろ」
 ごう、と大きな音を立てて、モノレールが高架を渡る。“セシル”の目に映っているのは、疲弊しきった自分の顔だった。街明かりが星の光の粒のように見える。作り物でも、“セシル”を輝かせるそれは十分に美しかった。
「……どこへ、逃げろって言うの」
 震えながら紡がれた言葉は、彼女の寄る辺ない心境を如実に表していた。たった一つの居場所を失くしたのだから当然だろう。ガトーはため息を吐いた。
「三十分後の、グラナダ行の便に乗るといい。そこからフォン・ブラウンへ行け。渡ってしまえば軍も手出しができなくなる」
 中立のフォン市ならば安全だろう。“セシル”ならどこの酒場でも、あるいはもっとよい場所でも、歌いながら食べていけるに違いない。
「一人で?」
「そうだ」
「……あなたは」
 一緒に来てくれるのではないのか。言外に懇願されているように思ってしまう己の胸が苦しかった。
 ガトーは内ポケットから紙幣の束を取り出し、有無を言わさず彼女の手に握らせる。何もかもを断ち切れと自分に言い聞かせるような強引さがそこにはあった。
「――金は渡す。返さなくていい」
 返せないだろうから、もう二度と、会うこともないだろうから。
 “セシル”はそれに気づいてか、さっと顔を青ざめさせる。ガトーは減速し始めたモノレールの中で、躓きそうになった彼女をとっさに支えた。しばらく縋る様にしていた“セシル”が彼の体に反発するように、腕に力をこめる。
「そうすれば、あなた、喜ぶかしら」
 泣き出しそうな顔を見ているのが辛かった。
「そうだな」
「いつか、また、会えるかしら」
「……わからない」
 わかっていてたずねた彼女に嘘を吐くことだってできただろうに、どうしてそうしなかったのだろうか。
「どうして、」
「私は、軍人だ。戦場に赴けば死ぬかもしれない。そんな身で、君と約束などしたくはない」
 “セシル”の目が大きく見開かれる。信じることを放棄したがっている瞳の色を見ているのがつらかった。しかし視線を逸らしても、窓ガラスに映りこんだ彼女の横顔が、そして何より自分のまなざしが、どこまでも追い詰める。
「うそよ」
「嘘ではない」
「それじゃあ、あなた、やっぱり、みんなを」
 非難されても仕方のないことだった。見たこともない冷たい憎悪の念を、彼女の視線に感じ取ってしまう。
「あんまりよ、あんまりだわ。わたしのことをだまして、お店の人を、みんなを、」
「それは、」
 違うのだと言いかけて、何も違わないと思った。ガトーからしてみれば治安維持軍と親衛隊は雲泥の差があるが、彼女からすれば肩書きがなんであれ公国軍に所属していればどれも同じものに違いない。
 それに、自分だって彼女を任務のために利用していたことに変わりはない。どう罵倒されても甘んじて受け入れるつもりだった。
「嘘だったのね」
 彼女のことを知りたいと思ったのは、それは任務上必要だったからだ。
「ぜんぶ、嘘だったのね」
 名前が必要だったのは、素性を確かめるのに必要だからだ。
「愛してなんか、いなかったのね」
 過去のことを聞こうとしたのは、何かしらの手がかりを掴むためだ。自分は彼女を愛しているとは思わない。
 断罪される者のように彼は目を伏せた。気が済むのならいくらでも罵倒すればいいと思っていた。自分のちっぽけなプライドなどもうどうなろうが関係はない。
「どう思ってくれてもかまわない。月に、逃げてくれ」
 彼女の睨みつけるような視線は、けれど困惑に揺れていた。
「頼む」
「……どうしてわたしを逃がすの? どうして?」
「……」
 それは、彼にもわからない。
 “セシル”は彼にとって全てを投げ出せるような存在ではなかった。職務も誇りも捨てて付き従おうと思えるような存在ではなかった。彼女に対して割いていた神経はかなりのものだけれど、彼はそれでも“セシル”のためだけに生きようとまでは思うことが出来なかった。それが彼を苦悩させた。自分は何をしているのだろうかと自問した。結局、彼女の今後を一身に引き受けるだけの根性もなければ、見捨てるだけの冷徹さも持ち合わせてはいない。その場だけの困難を、文字通りその場しのぎで対処しようとしているだけ。
「わたしを逃がすことも、あなたの仕事のうちなの?」
「違う」
 望んでいるとすれば、彼は彼女が生き続け、歌い続けることを願っていた。そして時が流れた後も、自分のことを覚えていてほしかった。我侭だと言われても、かまわない。
「私は……私は君の、歌が好きだ」
 モノレールが止まる。終点の港へとたどり着いてしまったのだ。一人残らず降車した後に、ガトーと“セシル”は立ち尽くしていた。
「これは私の、独断だ。私はただ、君に生きていて欲しい。歌い続けて欲しい。望んでいるのは、それだけだ」
「――あんまりよ」
 罪ならば受け入れよう。憎んでくれても構いはしない。
「そんなの、あんまりだわ」
 作り物の光たちが二人を照らしている。偽りの名前を持つ女と、嘘を重ねた男を照らしている。真実など何一つとしてない。あるとするならば、何と名前をつければいいのかわからないままの、感情の揺らめきだけだった。
 “セシル”は振り切るように首を横に振る。目じりに光るものが見えた気がした。それが彼の胸をひどく乱す。ばつが悪いような、何か取り返しのつかないことをしてしまったような、そんな焦りに襲われる。けれど“セシル”はガトーの手を離した。
「行くわ。わたし、月へ。そうすれば、満足でしょう」
 なげやりな言葉に詫びを入れればよかったのだろうか。
 そうして、涙を浮かべた瞳に一瞬とらわれた感覚に陥る。すぐに逸らされた瞳の持ち主を視線だけで追う。“セシル”は迷いの無い歩みで、ターミナルへと向かっていった。
「さようなら、“セシル”」
 ああ、これが恋というものなのかもしれない。そう思った。
 だからと言ってどうすることも出来なかった。呟いた言葉は、届かない。姿が消えても、いつしか折り返しの運行を告げるアナウンスが流れても、彼はそこから動かなかった。

§

 すべての結末はあっけないものだった。
 ガトーと、後になってわかったことだが彼と同じように捜査していた親衛隊員の数人が追っていたダイクン派の組織は同一だった。
 地下活動を行っていた組織には治安維持軍がかねてから目をつけていたらしいが、活動の本拠地が一向につかめない。それもそのはずで、テロリストたちはいくつかの酒場を転々としていたというのだから始末に終えない。治安維持軍も数人潜入させたはいいものの中々尻尾をつかめず、それどころか返り討ちにされるというお粗末さ――ヴィオーラという女も、治安維持軍の人間だったらしい。業を煮やした軍上層部はズムシティ中の酒場に対し一斉に家宅捜索を行ったのだが、奇しくもこのときの本拠地は『LOVELESS』だった。
 結局、銃撃戦の中テロリストは一人残らず死亡。治安維持軍も十数人の死傷者を出しあまつさえ民間人にも多数の犠牲者を出した大惨事で幕を閉じた。
 テロリストたちが何を計画していたのかはわからずじまいだったが、それはおそらく治安維持軍がこれから捜査を行うのだろう。ガトーと同様の任務を与えられていた数人には捜査権限などすでにない。半ば奪われるような形で任務が終了した。
 おりしも士官学校の卒業の時期と重なったためか、親衛隊の数十人が卒業生らと入れ替わり、戦地へと赴いていった。半ば左遷と言ってもいいような人事だった。あるものは月へ、あるものは地球へ。
 地球連邦との間の開戦が間近であると噂される頃だった。
 アナベル・ガトーはソロモンへ向かう。
 彼はそこにとどまったまま終戦を、敗戦を迎える。
 U.C.0080.1.1.のことだった。

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