愛なき

 U.C.0083.1.1――

『終戦から三年が過ぎた今日、地球圏の各地では戦没者慰霊の催しが行われています。
人類の実に半数以上を失う結果となった一年戦争。未だその爪痕は深く、人々の心もまた、深い悲しみを忘れることは出来ません。私達は、家族を失いました。恋人を、親友を、失いました。しかし、多くの犠牲の上に成り立つ平和を手にした者として、為すべきこともあるのです。
連邦政府は地球圏復興のためのコロニー再建計画や、戦災孤児と難民の支援に着手しています。また、ジオン共和国と共同して、戦時行方不明者の捜索にも当たっていますが――』



LOVELESS


 フォン・ブラウン市は、月の恒久都市である。
 中立を保つこの都市の歴史はどのコロニーよりも古い。そしてこの都市は、非常に豊かだ。三年前の戦禍に巻き込まれることもなく、それどころかむしろ戦争を利用して多くの企業が利益を上げていた。月に暮らす人々は『ルナリアン』と呼ばれる。恵まれ、搾取する側であった『アースノイド』とも窮乏し搾取される側だった『スペースノイド』とも異なる、豊かな人々の雰囲気が、全く新しい名前を彼らに与えたのだろう。
 その豊かさの最たるものがアナハイム・エレクトロニクスである。現在では大企業にのし上がった同社は戦時中に地球連邦軍に兵器の部品を納入していたが、今ではジオニック社を吸収し、モビルスーツ開発の最先端を担う巨大な企業体となっている。ジオニック社に所属していた技術者たちも現在ではアナハイムに勤める企業人である。それを平和の象徴と呼ぶべきか判断するのは時期尚早だろう。
 それでも月面都市に落ち延びた元軍人たちに比べればきわめて穏やかに暮らしていることは明らかだった。
 よいことなのかもしれない。しかし……
 アナベル・ガトーはそんなことを考えていた。考えながら暮らし、どれくらいの月日が流れただろうか。
 月は、重力が地球の六分の一しかない。彼だけでなくここに落ち延びてきたジオン敗残兵は、それゆえに大きな苦痛を感じていた。足が地に着いている感覚がないのだ。コロニーでさえ、地球とほぼ同等の重力は発生していた。それが、思うように四肢に力は入らないし、多重階層の居住地は人口太陽ではなく照明のパネルで時間が制御されている。ルナリアンならばいざ知らず、このままでは体が鈍く衰えてしまうことだけを懸念していた。
 戦争が終わって、もはや戦うこともないと思っていたにも関わらず、そんな心配ばかりしていた。
 おかしかった。
 結局自分は戦うことしかできないのかとも思うし、掲げていた大義に本心から傾倒していたからこそ今の不満があるのだろうかとも思った。もしかしたらその大義を奪われて進むべき道を失った自分は、死に場所だけを求めているのかもしれない、とも。
 ニューイヤーセレモニーに向かう人々で沸いた街、彼はその中を無意識的に歩いていた。一応、港へ向かって目的とする船に乗らなければならないという使命はあったのだが、知らずのうちに考え事に耽っていた。月に落ち延びてからというもの、意識をどこかに飛ばされるかのように考え事にふける事が多くなった。

§

 巨大なビルに掲げられた液晶のディスプレイは、フォンブラウン繁華街階層最大の“目印”であり、待ち合わせ場所としてはもっとも有名なスポットだった。そのディスプレイから流れてくるのは、キャスターが話す内容に深くリンクした、あらゆるシンガー、ロックバンドが歌う平和の祈りの歌。地下生活をしていた頃は自由に情報を得ることもままならず、低い頻度で接触するジオン連絡員からもたらされるものにしか触れていない。だから、彼の横を通り過ぎる人々がいくら歌を口ずさんでも彼にはそれは出来ないことであり、それこそ最初は違和感の真っ只中にいた。これだけの人間が知っている歌を、自分は知らない。自分が戦時中、何をしていたのかを彼らは知らない。

 自分は本当に月に暮らしていたのだろうか。生きていたのだろうか。

『今回、我がフォン・ブラウン市ではチャリティーコンサートを開催します。
出演は、戦時中から反戦歌を歌い続けてきた“アナベル”です』

 同じ名前というのは、どうにも心臓に悪い。今現在雑踏の中にいる人々が彼の名前を知らないということがわかっていても、思わずギクリとして顔を上げてしまう。立ち止まってしまったのは彼だけではなかった。どうやらその“アナベル”は月でも人気が高いらしい。立ち止まり、歓声を上げる人々の多さがそれを物語っている。
 ディスプレイの中の女性キャスターはシックなワンピース、男性キャスターはスーツ、ともに黒い衣装で片手にマイクを握っている。彼らの背後には『終戦三周年記念・戦没者慰霊』と書かれており、おそらく原稿が置かれているだろう小さなスタンドには白い花が控えめに飾られている。また、右上にも同じ花のモチーフをあしらった『FBBC (フォン・ブラウン・ブロードキャスティング)特別記念番組』の透けた文字が小さく浮かんでいる。
 そういえば道ゆく人々も胸元に白い花を刺している。全員がそうしているわけではないのだが、どことなく疎外感を感じてしまった。見た目だけでなく、内心のありようと言うべきだろうか。つまりガトーは、自分とこの街の人々は決定的に違うのだと捉えている。
 所詮、ルナリアンは平和を享受するだけの人間。そして戦いの中でしか己を出すことの出来ない、スペースノイドの真の解放のために戦うことを選んだ自分。同じ場所にいたとしても、正反対なのだからしょうがない。
 そう、自分はこれからまた、戦乱を引き起こしに行くのだから。この目に映るすべてを焼き尽くす決意で、己の意地を通そうとしているのだ。

『戦時中にはクラブシンガーとして歌い続けてきた彼女ですが、フォン・ブラウン・レコードからのメジャーデビューは終戦とほぼ同時期でした。デビュー以来、ラブ・ソングを中心にリリースする彼女は、瞬く間にチャートを上り詰め、昨年は前人未到のコロニー間ツアーを成し遂げました。さらに彼女は、発表した曲の売り上げの一部を戦後復興に寄付、フォン・ブラウン市民名誉賞と連邦政府からの感謝状を受賞し、いつしか彼女には“フォン・ブラウンの天使”の異名がついて回るようになりました』

「……ひどい話だな」
 思わず口から言葉がこぼれた。
 そんな偉業をなしている人物と、戦犯として追われている自分が同じ名前ということに、皮肉すら感じる。いや、これは皮肉以外のなんでもないかもしれない。口元を歪めて歩き出そうとした彼の耳に、その歌声は届いた。

 忘れるはずもない歌声。

 彼は混乱した。
 同時に、どこかで納得もしていた。
 月に向かうように計らったのは自分であるし、彼女の歌声の素晴らしさたるや、彼自身がよく知っている。だがそれがまさか地球圏全土まで名が広がっているとは想像すらしていなかったし、自分の名前を使われているなどと…。
 それは彼に淡い喜びをもたらした。二度と会うことすら叶わぬと思っていた女が、生きている。それだけではない。自分の名前を我が物のように使って……彼は苦笑した。そんなわけがない。アナベルこそが彼女の本当の名前かもしれない。それを、思い出したのかもしれない。
 もしそうだとしたら、偶然とは不思議なものだ。
 自分のことを覚えてくれているだろうか。彼は、そうであることを願った。

『まさに天使の歌声と名高い彼女。我々FBBCは地球圏全域へのライブの実況中継権を獲得しています。フォン・ブラウン標準時の午前零時、まもなく“アナベル”のステージが開幕します』
『“アナベル”といえば戦後間もないころにリリースした“LOVELESS”が代表作と言えるでしょう。離れ離れになってしまう恋人達をしっとりと歌い上げた珠玉のバラードです。終戦記念映画の主題歌にもなり、街角で耳にした方も多いのではないでしょうか? 現在流れている映像が、その映画のものですね。製作陣から主演キャスト、スポンサーも戦後復興への寄付を行い、劇場に設置された募金箱への募金額も実に大きなニュースとなりましたね。実はこの寄付案を提出したのは“アナベル”だという噂が流れていますが――』

 映画の映像らしきものとかぶさって、彼女が歌う姿も映る。そういう演出の映画なのか、それともこの特番がそういう編集をしているのか知らないが、些か感傷的な気分になりそうだった。まるで自分達のようだと一瞬思って、違うのだと言い聞かせる。おこがましい。こんなにロマンティックな別れではなかった。あの夜は、雪が降ってくるほどに寒く冷たく、そして自分の心も冷たかった、こんなふうに抱きしめることなどなかった。彼女も、こんなに泣いて縋って嫌だとは言わなかった。
 センチメンタルに身を委ねていた彼の耳朶を、心無い言葉が打つ。
「なんかさ、それって売名行為じゃない?」
 声がした方向には、人待ち顔の男二人が立っていた。ほろ酔いの赤ら顔には品性が感じられず、その言葉の内容も相まってガトーは顔をしかめてしまう。
 もう一人の男が、好奇心にまみれた顔で口を開いた。
「お前、しらねぇの?」
「何を?」
「“アナベル”ってさ、恋人をなくしたらしいぜ」
 ぎくりとした。自分の、思い上がりにだ。
「戦争で?」
「本当かよ?それも嘘なんじゃねーの」
「おっまえ、ひねくれてんなぁ!」
 あきれたように笑いあう二人を見ないようにしながらも、ぐっと拳を握り締める。
 彼らを殴ってしまいたかった。
 それが事実かどうかはどうでもよかった。ただ彼女が、彼女に関わるすべてが、嘲笑の的になるのが堪えられなかった。
 なぜ?
 自問する彼の胸には、彼女への愛があっただろうか。
 愛ゆえに彼女を守ったと本心から言えるだろうか。もしかしたらそれは、彼女を守るために自分がなした尽力を、無駄だと思いたくはなかったからではないか。自分の選択を否定したくないからではないのか。
 結局自分は己のことしか考えていないのではないか。
 いいや、違う。違うのだ。自分はこの、大義のために、ありとあらゆるものを捨てたのだ。スペースノイドの真の開放のため、ジオンの理想を成就させるため。これらは決して、自分だけのためのお題目ではないのだから。

 そうだろう。
 そうだろう“セシル”。そうでもなければ私はお前の手を放しは――

 不意に視界が明るくなる。
 イルミネーションが瞬時に広がり、街は昼間のような光の海に飲まれた。市が用意したサプライズの演出に道行く人々は思わず足を止める。歩いているのはガトーだけだった。
 所詮自分には許されないものなのだ。平和も、愛も。

 わっと湧き上がる歓声が遠ざかる。暗い海へ歩を進める彼の背中に、その残滓は届いていたのだろうか。

 ディスプレイモニターには男女が映し出される。
 睦まじく寄り添う二人の会話は、雑踏の間をむなしくすり抜けていった。


――雪を見てみたいの。
――雪?
――見たことがないから。
――地球に降りたことがないのかい?
――ええ、わたし、ずっとコロニーにいたの。コロニーの雪は、にせものでしょう?
――そうか、それなら、戦争が終わったら雪を見に行こう。本物の雪を。
――約束よ。
――もちろん、約束だ。
――待っているわ。あなたが、迎えに来てくれる日を。



 地球、アラスカ。
 女は北の空を見上げる。
 ゆらめく光の色の帯がたなびいている。
 どこまでも続くオーロラの先には何があるのだろうか。
 死せる者の魂を運ぶ流れならば、その先には、あるいは――

 女は歩き始めた。
 未踏破の雪原を、いずこへともなく、一人で。

Fin.