山づみの欲望ら



ジェーン・バーキン
その女はアナベル・ガトーにとってやっかいな存在でしかなかった。
一つ年下、華奢な体、幼い顔立ち。その全てが繰り出すのは、トップの成績、躍動する四肢、冷たい眼差し。いずれも見た目に似つかわしくないものばかりで、うかつに近づいて手を伸ばそうものなら噛み付かれるのが関の山だった。
とは言うもののどこのコミュニティにもおせっかいの好きな人間というのはいるもので、そういう連中が宥めすかしたりご機嫌をとったりを繰り返すうちにジェーンは周囲に溶け込んでいった。
一つ程度の年齢差はさしたる問題とは思えないし、その差が生み出したのかは定かではないが、彼女の起伏に欠けるプロポーションも時を経るにつれて変化していった。まるで持て余していたような活発な動きも徐々に鳴りを潜めてゆき、もしかしたら彼女の行動のほうに体がついていこうとしていったのかもしれないと思うほどに。人を寄せ付けない瞳は年相応の美しさを手に入れると、まるで雪の女王と見まがうほどの触れえざる魅力をたたえた。それも、一度打ち解けてしまえばただの人見知りのなせる業だと誰もが理解する。ジェーンは本来ならば素直で、少々抜けているくらいの人間なのだから。
見た目に似合わず親しみやすい人間の称号を手に入れたジェーンを目の当たりにしても、ガトーは彼女に近づこうなどとは思わなかった。
ただ彼は単純に、一つ年下のそれも女が、自分よりもよい成績を収めていることが許せなかっただけだ。

にも拘らず、というより、周りはそんなことは知る由もないので、ことあるごとに二人を競わせようとする。
やれ野戦演習のトップはどちらか、シミュレーターでの撃墜数はどちらが多いか、はたまた学科の試験ではどちらの名前がより上に存在するか。
ガトーは、どうでもいいと思いながらも負けることだけは嫌いなので力を出してしまう。そうして、最中にこう考えるのだ。
力半分で及べば言い訳にもなったろうにと。
が、彼のプライドが許さない。フェミニズムがどうこうというのもさておき、相手がなんであろうが全力をもって叩き潰すのが彼の信条だった。
それで勝てればいいのだろうが、毎度良い結果が訪れるわけもない。
たかだか年下の女に負けたことを悔しがる日はいつも、結局己が「所詮女だ」と相手を見くびっていた事実を認めざるを得ない。それがなおさら悔しくて、彼は自分の未熟さと同じくらいに、ジェーンの才能を呪った。

あるとき彼はこう訪ねられた。「あなた、私のことが嫌いでしょう」 と。
ゆっくり振り返った先にあったのは冷たい目だった。少し笑っていた。笑いながら、どこか物足りぬ寂しさを含んでいた。
彼はその質問に答えずに立ち去る。どう返答しても、ジェーンを打ち負かすことなどできそうになかったから。

時は過ぎ、士官学校を卒業する年になる。
結局この二人の毎度の勝負は五分五分で、卒業する者のほとんど全てを巻き込んだ盛大なトトカルチョがひっそりと、しかしおおっぴらに執り行われようとしていた。
どちらが主席として卒業するのか。
冗談ではないのはガトーのほうである。所詮はくだらない勝負ばかりだったが主席の名誉となれば話は別だ。そんなものを賭けの対象にされてなるものかと、乗り込んだ首謀者の寮室の中にはジェーンがいた。

「嫌なの?」
「当たり前だ」
「どうして」

掴みかからんばかりの勢いだったガトーを制し、連れ出した扉の外でジェーンは極めて冷静に問いただした。

「主席という栄誉ある立場をくだらん賭けの対象にするなど、正気の沙汰じゃない」

むしろどうして彼女がこうも落ち着いているのかが不可解だった。まさか彼女自身も首謀者の一員だったのかと眉をひそめかけたのを、心底不服そうな目に睨み返された。

「私だっていい気はしないけれど、最後じゃない。やるなら節度を持ってって、言いに来ただけ」

こう言われては返す言葉もない。どちらが年長なのかと疑問すら浮かぶ。言葉に詰まったまま唇を結んでいると、ジェーンは一歩前に踏み出した。随分背は伸びたと言っても、大柄なガトーに比べればまだまだ到底差は縮まらない。
彼女はじっと、彼の口のあたりを見ていた。一体何かと片方の眉を上げると、

「じゃあ、こうしましょう。私が主席だったら、あなたは私の言うことを聞く」
「……は?」
「私があなたに言うことを聞かせられるかどうかを、皆が賭けの対象にすればいいわ。そう言ってくる」
「それのどこが解決になる、何も変わっていない」
「変わったわ。たとえあなたが主席じゃなくても、私の言うことを聞かなければ私の負け。もう主席の座は賭けの対象じゃない」

とんだ言葉遊びだ。馬鹿馬鹿しいと一笑に付して、やはり問題そのものを解決しようとドアを開けようとするが、その腕を小さな手に掴まれる。
小さな手だった。
こんなものにいつも負けていたのかと思うとふつふつと悔しさがこみ上げた。

「私を言いなりにさせる、自信でもあるのか」
「ないわ」

いつもは冷たい目に、珍しく熱がこもっているように見えた。その炎は、彼の心に一抹の恐れを忍び込ませる。
どうして頷いたのかわからなかった。
彼女が瞬きをするのも、小さな唇を動かすのも恐ろしいほどに彼を混乱させた。掴まれた腕は温かく、血の通う人間だということを思い知らされた。
ジェーンは女だった。ただの、どこにでもいる、女だ。
体術ではさすがに勝負したことはない。ないが、きっと自分はなんの苦もなく彼女を組み伏せられるだろうと思った。それこそ、一方的に、一瞬で。
もしもそのような事態になったら、きっと自分はひどく困惑するのだろう。
そうしてそのまま醜行を働く自分を想起して、彼は自分を恥じた。恥じ入れど、それを否定することなどはできなかった。


主席として卒業したのは、ジェーンのほうだった。
今までほどに悔しさがこみ上げてくるわけでもない、まして恨むことなどしない。予想よりも、というよりは、こんなに落ち着いていられるのが予想外だった。不思議だった。壇上で答辞を読み上げる彼女を見ても、ほとんど何も感じない。
ほとんど、というのは、彼の奥底に何かがくすぶっていることを、彼自身がよく知っていたからだ。
全く何も感じないと自分を欺くことはしなかった。


「それでこんなところに連れてきて何をさせるつもりなんだ」

こんなところというのは、ジェーンの寮室だった。相部屋になってはいるものの、ルームメイトは他と連れ立って祝賀会へ向かっている。そもそも主席の彼女が祝賀会へ行かずにどういうつもりなのか。ガトーは怪訝な顔で腕を組んだまま立ち尽くしていた。壁に背中をつけて、幾分緊張した面持ちで。
規則で決まっているのだ、異性の宿舎自体には入ってはならない。ありし日にそれを破っても主席の座を射止めたジェーンが心底恐ろしかった。

彼女は今後、グラナダに送られる。

「やっぱり、やめておく」

先ほどからずっと俯きがちだったジェーンが目を伏せたまま呟いた。彼女は、彼のいる向かい、丁度ドアから一直線に進んだ先の壁に、背中をつけて立っている。腕は組まず、背中の方に回したまま。
思いつめたような顔が何を考えているのかわからなかった。ただ、彼女は自ら負けに逃げるような人間ではなかった。それが、最後の最後でそうやって逃れようとするのが、彼は無性に腹立たしかった。

「無理矢理決めておいてなんなんだ」
「無理矢理なら別に取り下げてもいいでしょう」
「それでお前はいいのか」

嫌なやつだと思いながらも逃げることをしなかったのは、ジェーンをそれ相応に見ていたからだ。敬意を表していたからだ。女だろうが年下だろうが才ある人間を無為に貶めることはしない。認めていたのだ、彼女を。

「満足なのか」

苛立ちに任せて歩み寄ると、ジェーンが身を強張らせるのが見て取れた。まただ。どうしてお前は女なのだ。

「笑うわ。あなたきっと、笑うわ」
「お前は私に勝ったんだ。敗者に何を恥じる」
「そういう意味じゃない。そういう意味じゃ……」

小さなつむじを見下ろしながら、どうしたものかと思案するしかなかった。本当にどうでもいいと言うのなら、この女のことなど放って立ち去ればいい。敬意を侮蔑に変えて、もう二度と会わぬと決めて。
それなのに足が動かないのは、それを否定したいからだ。積み上げられたジェーンという人物が崩れて、全く別のものになるのが嫌だったのだ。
だとしたら、どうすればいい? 彼が考えたところで答えは出なかった。
決まり悪い空気の中、口を開いたのは彼女のほうだった。

「キスして」

氷のような温度に、一息の熱がこもっていた。その熱が、じわりと彼の耳朶を掠める。
ぞくりとした。

「……は?」
「キスして、私に」
「そうじゃない、お前は……何を言ってるのかわかってるのか」
「馬鹿にしないでよ。……だから、言いたくなかったのに」

俯いた眼下の頬に赤みが差しているように見えた。理解を超えた彼女の言動にたじろぎながら、彼はかろうじて口を開く。

「私がそうすると、お前は本当に思っているのか」

どうして自分なのか、どうしてキスしろなどというのか、その理由が聞きたかった。察することはできてもそれは所詮憶測に過ぎない。ただ、憶測のまま行動に移すことはできる。それこそ、

「男なら、感情がなくてもできるでしょう、そういうこと」

そう、彼女の言うように。
それは確かに的を射ているのかもしれないが、ジェーンはあまりにも見くびっている。彼を。彼という男を。

「……馬鹿にするな」

多分自分は理由が欲しい。いいや、理由なんてそんなものはとうに知っている。ただジェーンの口からそれを聞きたいだけ。ただ一言聞けば、屈服させられる。
こんな風に無理矢理頭を抱え込んで、口付けるまでもなく。
愛しているとか好きだとか、剥き出しにしたこの女が見たい。どんな顔をしてそれを言うのか、見たい。
言葉では偽ることはできる。できるから、口を塞いだ。生身の肌に粘膜に触れれば、わかるだろうか。触れたところで、何がわかろうか。
甘い。やわらかい。温かい。
女は砂糖で出来ている。突拍子もないことを考え付いたのは何が原因か、それもどうでもいい。ただ柔らかで、何もかもを飲み込むようなうねり。唇も肌も髪も、自分とは違う。異質の存在。対になるもの。未知の感覚。

「やっぱり、言うんじゃなかった」

唇を開放されたジェーンが何を言っているのか聞こえても、理解する気もなかった。積み上げてきた彼女の冷徹さがざらざらと砂を崩すように剥落していく。同じように、自分の理性も。

「何故」
「もっと……してほしくなるから……」

かすれるような声と、上体に触れる手のひらの熱。それは上へ上へと伸びてくるのに、四肢を巡る血の流れは止められない。

「だったらそう、命じればいい。私はお前の言いなりなのだから」
「言わないと、してくれないの?」

顎に触れられた指先が熱い。肩に乗せられた手のひらが熱い。絡み合うように触れ合った体のそこかしこが熱い。この熱に全てを投げ出してしまいたい。
両の頬を掴んで噛み付く。貪って、蹂躙する。もっともっと奥へとこの女は誘う。言葉にはしなくともそれが聞こえる。
命じられてそうしているのかわからない。もうどちらが支配者なのか、そんなことすらどうでもよかった。
何故なら互いの内にある欲は、これから全て合するのだから。

- end -

20121113

title from OL