Ginius Sahalim

例えば、あなたが使っている携帯電話。そういうもののデザインをする人に、私はなりたいんです。


放課後、物理準備室。中間試験からすでに3日が過ぎて、生徒の大半は勉強漬けの日々から開放されている。はずなのに、私の目の前に座っているのは何も読み取れない無表情を浮かべたギニアス先生。ちなみに、担任。

「バーキン」
「・・・はい」
「国語の点数は?」
「78点です」
「英語は?」
「85点です」
「数学は?」
「・・・62点です」
「そして物理は・・・」

32点です、なんて言えない。友達にも言えない、親にも言えない。
まして、物理担当のギニアス先生になんて言えない。(もっとも、物理担当だからバレバレなんだけど)

「・・・すみません」
「・・・」

まるで、呆れて物も言えないかのように(というか、実際そうなんだろう)ギニアス先生は大きくため息をついた。
本当に申し訳ない気持ちでいっぱい。だって、毎日のように放課後に補習してくれてるから。先生も、私ばっかりにかまってられないのに。それなのに、私の成績ときたら下がることはあっても上がることは滅多にない。

「次は・・・来月の模試だな。50点は取ってみろ」
「が、がんばり・・・マス」

教科書を開きながらギニアス先生はあっさりそう言った。50点、てことは、今の点数+18点。ええと、問題数にして何問正答を増やせば・・・。険しい道のりに、ノートを捲る私の手は鈍い動きを見せていた。

今はまだ2年生で、来年迎える大学受験のことを意識してる子はほとんどいない。私は、一応理系のクラスに在籍してる。一応、って言うのは理系科目がほとんどダメで(さっきのテスト結果からわかるけど)、進級時に散々文系を進められたから。
でも、工学部への進学には物理が必須だし、工業デザインをやるからには工学部への進学が必要なわけで、とは言ってもやっぱり物理の成績はひどいし、ああもう!いい加減、進歩を見せない私に、先生も呆れてるだろうなあ。

「昨日の続きからだ。問題は解いてきたか?」
「あ、はい。一応・・・」
「一応?」

先生は伏せていた視線を上げた。睨んでいるような視線の鋭さにはいつまでたっても慣れない。本当は睨んでなんかいなくて、それが普通なんだってことには、結構前から知ってはいるんだけど・・・。

「その、間違ってるかもしれないんで・・・あの、すみません・・・」

叱られてるわけじゃないのに、まるで叱られてるようでしゅんとしてしまう。気まずい。先生もやりづらいだろうな。うつむいたままの私に何も声をかけず、ギニアス先生は私のノートを取った。私の視界には先生の顔は入らない。意図的にそうやっている。
ただ、白くて細い手を見ていた。関節がゴツゴツしてる大きな手。

「惜しいところまで出来てるんだがな・・・」

ギニアス先生は残念そうに呟いた。そろりと顔を上げてみるけど、表情はいつもどおり。無表情。声色だけ残念がってみたのかな。そういう、まどろっこしいことはしなさそうなのに。

「じゃあまず、ここの計算間違いから・・・これは使う定理が違う。これじゃなくて・・・」

そうしてまた、ユウウツな放課後の時間が始まった。




教科書1ページ分を説明するのに、ギニアス先生はどれだけ時間をかけただろうか。授業なら、一時間で大体10ページは進む。
それだけ私が物理をわかってないってことで。他のみんなはどうしてスラスラ問題を解けるんだろう。
おんなじこと、先生も思ってるのかな。みんなはちゃんと一回の授業(予習、復習をやってる子もいるけど)でわかるのに、どうして私は何回説明してもわからないんだろう、って、思ってるのかな。
私のシャープペンシルはいつまで経っても正確な数字を書けない。このままじゃ、取り残されちゃう。みんなについていけないより、ギニアス先生に呆れられて、見捨てられる方が怖かった。ユウウツなのは、先生が怖いからじゃない、補習が嫌なわけでもない。

私のシャープペンシルが完全に動かなくなると、先生は無言で教室を出て行った。

なんで私、こうなんだろう。情けなくて涙が出てくる。

学年が始まって最初のテストで赤点、しかも学年最下位の私に、ギニアス先生は補習をつけてくれた。最初は・・・先生のことが怖くてしょうがなかった。でも、何度躓いても繰り返し教えてくれる先生は、先生だけが頼りだったのに。
問題を解くのもやめて、こぼれる涙を指で拭った。涙が流れれば流れるほど、情けなさだけが募っていった。

ガラッと教室のドアが開く音がした。ギニアス先生が戻ってきたから、私はせめて涙は見せないようにゴシゴシと目元をこすってからうつむいた。気がついていない先生は机のほうにスタスタ歩いてくる。ああ、問題解いてないなあ、また呆れられちゃうかなあ。

これ以上さがらないくらい、眉尻を下げてうつむく私の前に何かが置かれた。視線をずらすと、それはカフェオレの缶だった。

「疲れただろう?休憩・・・」

途切れた先生の言葉で、泣いているのがばれたんだとわかった。気まずいのと恥ずかしいのと情けないので何も出来ないでいる私に、先生はまた何かを差し出した。グレンチェックのハンカチだった。
なんでこんなに優しいんだろう。なのに私は、先生がしてくれることに何も返せない。また、鼻の奥がツンとしてきた。困ってるだろうな、先生。そう思って必死で涙をこらえていると、ポン、と頭に大きな手が乗せられた。そうして、いつもよりも低いけれど優しい声で先生は私に言葉をかけた。

「ジェーン・・・お前が頑張っているのはわかっている。あんまり自分を追い詰めるんじゃない」

“わかっている”
それを聞いた瞬間、堰を切ったように涙がぽろぽろこぼれだした。先生の手は大きくてあったかくて、それで余計に涙が出てきた。使わせてもらったハンカチは、なんなのかよくわからないけどすごくいい匂いがした。心地よささえ、感じるくらいに。

私がみっともなく泣いている間、先生の手はずっと私の頭の上に乗っかっていた。

「先生、」
「なんだ?」

落ち着きを取り戻してから、私は聞いてみた。

「私、いつまで経ってもこんななのに、どうして補習してくれるんですか?」

尋ねるだけでまた涙が出そうなくらいだった。「担任だから」とか言われるのかな、って思ったけど、耳に届いた先生の答えは思いもしないものだった。

「お前が一番、頑張ってるから」
「え?」
「努力が必ずしも結果に結びつくわけじゃない、が、結果を出せる奴は必ず努力している」

自分のブラックコーヒーの缶を口に運びながら、先生はなんでもないように言ってのけた。

「お前はちょっと要領が悪いだけだ」

慰められてる・・・のかな。
ギニアス先生がそんなこと言うのが意外で、言葉を返せないでいると、ふと視線がぶつかった。
黙ったままでいるのも気まずくて、とりあえず「ありがとうございます」とだけ、返事をした。何かおかしかったのか、先生は軽く笑った。
あ、笑えるんだ。なんて失礼なことを思ってしまったけど、先生の笑顔は穏やかで優しいものだった。ちょっとだけ、見惚れた。

「飲まないのか?」
「あ、はい!いただきます」

プルタブを指で引き上げた。ぬるくなっていたけれど、コーヒーの苦みの中のほんの少しの甘さが誰かさんみたいで、どこかほっとした。
疲れたときは甘いもの、って言うけど、本当にそうかも。先生に励まされて元気を取り戻した私は休憩時間さえ惜しくなって、シャープペンシルを持って先生への質問を開始した。

「もう少し休んだ方がいいんじゃないか?」
「今、すっごくやる気が出てきたんです。絶対次のテストで点数取ってみせます」

意気込んでいる私とは裏腹に、先生はなぜかやれやれといった顔をしてみせた。

「すぐそうやって無理をする。少しずつでいいんだ、一つ一つ積み重ねていけ」
「はーい。・・・先生みたい」
「みたいって・・・先生なんだがな」

少しむっとしたギニアス先生の顔も初めて見るもので、こうやって私も先生のことを一つずつ知っていくんだろうな、と思った。

- end -

20080606