Yazan Gable

おなかいたい。頭もいたい。学校にも行きたくなくなる。

嗅ぎなれた消毒薬のにおいと、ストーブの上におさまった薬缶の湯気は私を安心させる。ここは保健室。すっかり顔なじみのシーマ先生は私のほうを気にするでもなく、のんびりと仕事をしている。
私は薬品棚の前のパイプ椅子に座り、フリースのブランケットをひざ掛けにして文庫本を読んでいた。
廊下は静まり返っている。今は授業中。私のクラスは体育の時間。今日はバレーだったはず。
球技の回は、私はいつもここにいる。

ふと、シーマ先生が顔を上げた。私も顔を上げる。というか、上げざるをえない。廊下を早歩きで進んでくる足音に気がついて。
なんとなく、“やばい”と思ってベッドにもぐりこもうとしたけれど遅かった。勢いよく、ドアが開かれる。

バーキン!!」
「ひえっ…!」

中途半端に立ち上がりかけていたからだが一瞬で直立不動になる。「大声をおだしで無いよ」と苦言をもらすシーマ先生をどこ吹く風との顔で、声の主のヤザン先生が私の腕をつかむ。

「またお前はサボリか!毎回毎回!」
「ちがっ、あの、ほんとにおなかいたっ」
「俺の授業のときだけかぁ?」
「シーマせんせーー!!」

引きずられて保健室から連れ出されそうな私がシーマ先生に助けを求めると、ボールペンをゆらゆら振りながら、

「その子の腹痛は本物さね」

一言だけ言った。ヤザン先生はゆっくりふりかえると、疑念に満ちた目でシーマ先生を凝視する。そうこうしているうちにも腹痛の波が襲い掛かってきて、私は腹部に手をあてて、体を折った。事情を知らないヤザン先生から見ればちょっと都合のよすぎる腹痛かもしれない。

「よくある話さ。まぁ、ジェーンに関して言えば、学校にだけは来られる分軽度かもしれないけどねぇ…」
「あぁ?あれか?せいr…」
「違います!!」

なんだか気恥ずかしくてさえぎると、ヤザン先生は私の手を解いた。座っていたパイプ椅子にへたり込むと、ヤザン先生も向かいに腰を下ろす。

「あんたから話したほうがいいんじゃないかい?」

シーマ先生はそれだけ言うと、また仕事に戻ってしまった。

「俺には聞く権利と義務がありそうだな」

体育の担当だからと言わんばかりにふんぞり返るヤザン先生は黄色いジャージを着ている。バニング先生が青、カレン先生が赤をいつも来ていることから、なんとかレンジャー扱いになっているのは生徒の間じゃけっこう有名だ。その、カレーが好きなのかは知らないけれど黄レンジャー先生に話さなければいけないのだろうか、と思ってちらと顔を上げると、話すまでは梃子でも動かないような視線と目があった。
私は観念して、ぽつりぽつりと話し始める。あまり語りたくない、私のコンプレックス。

最初は、そういう自覚がなかったし、自覚が芽生えてきてからもたいしたことだとは思っていなかった。そのころ私はミノフスキー学園とは別の小学校に通っていた。自覚というのは、私は運動がまったくできないということ。50メートル走るのに二桁かかるし、ハンドボールは逆に一桁しか飛ばせない。ソフトボールじゃバットに当てられないし、サッカーやバレーはボールに当たるのが怖くてすぐに逃げてしまう。かといって長距離走はスタミナが持たず、鉄棒やマットの授業ではつき指や捻挫はザラだ。骨折もしたことがある。
ある日の、あれは確かソフトボールのゲームをしていた授業の日、例によって私は何もできずにぼうっとしながら守備に回っていた。たとえそれが飴でもガムでも、投げられたものをキャッチすることができないものだから、飛んできたボールを受け止めるなんてことはまずもって不可能だった。なるべくボールが飛んでこないような場所をうろうろして、攻守交替を待つ。私が入っていたチームはおされ気味で、地元の野球チームに所属している、クラスの男の子は明らかにいらだっていた。
もう昔のことだからあんまり覚えていないけど、多分私は何かをやらかしたんだと思う。それで、こういわれてしまったのだ。
『お前足手まとい!人数足りなくて良いからもう出てけよ』
ガキ大将的な子だったから、誰もフォローに回ってくれなかった。私は言われたとおりにフェンスにもたれかかって、ゲームの続きを眺めていた。結果は、もう覚えていない。
その翌日から、私は学校に行かなくなった。

「はぁ…んで、お前は体育恐怖症にでもなったわけか」

いつのまにか頬杖をついていたヤザン先生は呆れたように言っている。

「先生みたいに…なんでもできる人にはわからないもん、こんなこと」

だから誰も助けてくれなかった。その一言がどれだけ私を痛めつけるかわからないまま。

「お前そりゃ、小学生にそんな分別を求めるのは酷ってもんだ」
「でも、いやだ。またみんなに嫌な顔されるかもしれない、足でまといになるかもしれない…だから」
「だからもうやらねえってのか?」

だんまりをきめこむと、ヤザン先生はため息をひとつついて、立ち上がった。
中学の頃は持病持ちで通して、すこしずつだけど体育の授業には出るようになった。でも、チーム対抗とか、特に球技になるとおなかが痛くなってくる。シーマ先生は理解してくれて、いつも保健室にかくまってくれた。
きっとヤザン先生は理解できなくて、もう私を見捨てて授業に向かうんだろう。私一人にかまっていられるはずもないから。

「見学ならできるだろ」
「え?」

俯いていた私の手は、再び先生につかまれた。「お待ちよ」シーマ先生が立ち上がる。ストーブまで歩いて薬缶の中身をシリコン製湯たんぽの中にいれると、ふかふかのタオルにくるんで私にくれた。

「腹痛だけは本物だからねぇ」


体育館にいくと、クラスのみんながきゃきゃいいいながら男女入り乱れてバレーの試合をしていた。仲がいいエルやファも混じっている。やたら人数が多いなぁ、と考えて、それから体育の授業は2クラス合同だったと思い出した。それだけ、私は体育から離れていたんだろう。

「お前ら!」
「やばっ、もどってきた!」

ヤザン先生が一喝すると、みんな笑いながら先生の前に整列する。私は壁際で休んどけと言われて、それに従った。
ぼんやり眺めていると、先生は男子と女子をわけて、それからそれぞれをチームにわける。そのわけ方が突拍子も無い。「卵焼き派と目玉焼き派」とか「20歳の誕生日に彼氏に連れて行ってもらうなら居酒屋かバーか」とか、「ブルーレイは当たると思うか当たらないと思うか」とか。それがまた上手い具合に分かれてしまうから不思議で、私はそれを見ながら知らずのうちに笑っていた。
結局男子と女子とでコートを二つずつ使って(うちの体育館は広い)、ゲームがはじまる。控えのメンバーは私が座っている壁際にやってきて、観戦するらしい。なんだか、また何かを言われそうで身構えてしまった。

ジェーン?今日は調子いいの?」
「あ、湯たんぽもってる!風邪?寒くない?スカートじゃん」
「あたしのジャージかぶってていいよ」「あたしのも」「あたしのも使いなよ!」「ちょっと男子ー!ジェーンの座布団にするからジャージかしなさいよー!」

あっという間に私はみんなのジャージにぐるぐる巻きにされてしまった。少し人肌の温度が残ったそれは、すごく暖かい。

「ねぇ、チームわけとか、いつもこんな感じなの?」

尋ねてみると、エルがしかめっつらをしながら答えてくれた。

「そーなの!超いいかげんでしょ?でもそれでうまいこと分かれるのよね〜実力差もちょうどよくなるし」
「へぇ…」
「今日なんてさ、“パリとローマ、旅行にいくならどっち?”でしょ?あっ、ジェーンはどっち派?」
「絶対パリっしょ?ジェーンちゃんもそう思うよね!」
「えー!?ローマの休日って絶対!」
「なにそれ夢見すぎじゃん!」

私が聞かれたはずなのに、みんなはわいわい喋りだして、とても楽しそうだった。クラスが違って、普段喋らないような子もいる。すごく楽しそうで、後ろめたい気持ちになってしまった。

「ていうかさ、ジェーンちゃんって体弱いんでしょ?中等部んときも体育で全然見なかったし。今はどんな感じなの?」

思い切った感じで聞いてきたのは、理系クラスの女の子だった。顔つきは純粋に心配している顔そのものだった。さすがに罪悪感にさいなまれて、それでも「今はだいぶ持ち直してきたみたい」としか答えられないでいると、みんなが何故かくっついてきた。

「えっ?えっ?」
「いや、こうしてたらあったかいかなーとか」
「早くよくなって、いっしょにバレーとかしようね!」

ニコニコしている彼女たちに、私は泣きそうになりながら言った。

「でも、私…すごく運動下手だから、みんなの足ひっぱるし…」
「えー?そんなの気にすることないじゃん?」
「そうだよ。部活の試合じゃないんだし。見てたらわかるよ?」

青い髪の子(ルー・ルカって名前だった。確か)が指差すと、男子がふざけている姿が目に入った。「回転レシーブ!」とか言いながら本当にくるくる回りながらレシーブしようとして受け止めきれなかったり、逆に真面目な顔でアタックを決めようとしたら空振りする子もいる。
でもみんな笑うだけ。それも、本心からおかしくて笑ってるだけ。本当に、楽しそう。
そのとき、ホイッスルが鳴り響く。メンバー交代の合図だ。

「じゃあジェーン、行って来るから応援よろしく!」
「寒かったら男子のジャージもらいな」
「汗臭いかもしんないけど」

笑いながらコートに入る友達を見送ると、ヤザン先生が近寄ってきた。そのまま私の隣に腰を下ろすと、にやりと人の悪いような笑みを浮かべた。

「来週は腹痛にならねぇといいな」

独り言のようで、なんだかおまじないのようでもあった。ジャージにぐるぐる巻きの私は湯たんぽを抱えなおしながら、呟く。

「先生カレー好き?」

すると、チョップが振って来る。あまり痛くは無い。なんだ、黄レンジャーはばれてたのかと思いながらコートを見ると、エルがサーブに失敗していた。
どっと沸いた体育館の笑い声には、私の声も先生の声もちゃんと、混じっていた。

- end -

20100503