Zabine Chareux

俺と彼女との出会いと言うのはある意味では特殊かもしれないし、ある意味ではありふれたものだったのかもしれない。

学部の授業を終えて家に帰る途中、携帯電話が鳴った。アルバイトをしている大手予備校からだった。帰宅時間帯で人が多いキャンパスは通話には向かないので、俺は校舎の非常階段まで歩いてから通話ボタンを押した。

「はい」
『お疲れ様です。××予備校個別指導センターです。新規指導の依頼なんですけど・・・・・・』


その高校2年生への理系数学と生物の指導を引き受けた俺は、指定の日曜午後4時前に予備校に着いていた。
俺のアルバイトは“家庭教師”とは少し異なる。やっている事はほとんど同じだが、その予備校の“個別指導”は校内の特設ブースで行われる。一つ一つ区切ってあるブースが約30あるその部屋は、ついたての上が開いているので他の指導の声が聞こえてくる。
先についていた俺は、隣のブースで指導教員の女子大生と彼女の受け持ちの女子生徒が話題のドラマの話をしているのを少し鬱陶しく思いながら生徒を待っていた。
色々な問題が起こらないように考慮しているのだろう、基本的に指導教員と生徒は同性で組まれる。とは言っても、やはり(と言うべきなのか)国語を教えられる男子学生と数学を教えられる女子学生は少ない。
だから俺の受け持ちとなる生徒が入ってきたとき、俺は別段、飛び上がるほど驚きはしなかった。

「失礼します」

予備校の女子事務員のノックで、組んでいた腕と足を解いた。返事をするとブースのドアが開く。

「こちらがジェーンバーキンさんです。――指導教員のザビーネ・シャル教員です」
「よろしくお願いします」

事務員の慣れた紹介に、彼女、ジェーンははにかみながら軽い会釈と挨拶をした。
おとなしそうな子だと言うのが、俺の第一印象だった。


指導の初日はいきなり教科書を開くようなことはしない。おそらく生徒の方が緊張しているだろうから、ここの指導教員は雑談から始めるものが多い。予備校側もそれを善しとしているから、給料泥棒なんて言われることもない(最初は、いいのかとも思っていたが)。

「高校2年生?」
「はい、理数コースです」

ジェーンは、どこか“理系らしからぬ”少女だった。どちらかと言うと、ああ、題名は知らないけど源氏物語の漫画化されたものが好きそうな女の子だった。失礼を覚悟で言うならば、それほど勉強が出来そうな子にも見えない。
文系っぽいと冗談めかしていうと、彼女は困ったように「よく言われます」と笑った。

「先生は医学部なんですよね」
「ああ」
「やっぱり・・・大変ですか?」
「う・・・ん、そうだな。大変と言えば大変。授業のコマ数はかなり多いし、実習では吐くやつもいる」
「お、男の人でもですか?」
「そりゃあ、もちろん。俺も最初は食事が摂れなくなったりした。逆に女性は強かったりするけどね・・・まあ、慣れるものだけど」
「あんまり慣れたくないですね」

真面目そうだが軽い冗談も言えるらしい。30分の雑談の中でわかったことは、彼女も医学部進学希望で、父親が内科医。それから吹奏楽部に所属していて、選抜クラスではいつも数学の成績は4番目。固定されている1位から3位は、上から順にカミーユ、ルー、ゲーツという生徒だということ(いずれも知らない人間だが)。幼いころから読書が好きで、そのためかどうかは不明だが英語・国語の成績は理系ではかなりいい方。足をひっぱる理系科目をどうにかしたい目的で予備校に通うことにしたということ。

「何が苦手?」
「・・・ええと、・・・全部です」
「うーん・・・今学校の授業は何をやってる?」
「微分積分です」

試しに、簡単な微分と積分の問題を解かせてみた。問題集の問いを綺麗にノートに書き写すところをみると、やはり真面目な生徒なのだろうと思う。特に躓くこともなかったが、回答にたどり着くまで遠回りしているので時間が余計にかかっている。不器用なのか要領が悪いのかわからないが、微笑ましく思いながら滑らかな筆跡を見つめていた。
生物も似たようなものだった。取り立てて指導が困難な生徒ではなさそうだと確信したところで、その日の指導は終わった。

「来週までにこの3題を解いてきて。わからないところは余白にでもメモしておくこと」
「はい。ありがとうございました」
「ああ、それと・・・」

腰を上げた彼女を呼びとめ、破いた手帳に連絡先を書いて渡した。禁止されているわけではない。

「体調が悪くなって休みたいときは、俺に直接連絡してくれ」
「あ・・・わかりました」

少々面食らったようにその紙切れを見つめてからジェーンはブースを去っていった。事務に提出する報告書を書くために残った俺は、手だけを動かしながら別のことを考えていた。
字が綺麗な人間に、無条件に好感を抱くのは何故なのだろう。


ジェーンの吸収力はお世辞にも良い方とは言えなかったが、元来真面目な性格のためコツコツ努力することを知っていた。
努力できると言うのは一種の才能だと俺は思っている。
長い雨の季節を過ぎて夏に差し掛かるころには問題を解くスピードは速くなっていたし、要領も若干よくなってきていた。

「今度期末テストなんです」

ある週の指導の日、ジェーンは言った。
「それなら試験範囲を勉強しようか。試験範囲は・・・どうした?」

ジェーンが俯いている間、俺はある種の予感が脳裏を掠めるのを感じていた。そういうことに敏感な人間だと言う自負はないが、少なくとも彼女よりは長く生きているだけ、わかることというのがある。

「先生・・・」
「・・・ん?」
「試験で一番取ったら、私のおねがいを・・・・・・聞いてください」

やっとのことで言い切ったのだろう。ジェーンのような少女には言い出すことさえ恥ずかしかったに違いない。消え入りそうな声はいつまでも俺の頭の中に響いた。
自惚れでもなんでもない、その“おねがい”の大体の内容は見当が付く。「そういうことは一番を取ってから言うものだ」などと言ってはぐらかせばいいのに、その時俺はズルイ大人にはなれなかった。何故?

「ああ、一番を取ったらな」

緊張の糸が切れたように微笑んだジェーンを見て、俺は単純に笑えなかった。

どこへ向かおうとしているのだろうか、俺達は。


一抹の不安だけを抱えたまま、試験期間が過ぎた。結果は、どうなっているのだろう。一番を取っていて欲しくもあるし、そうでなければいいのにとも願ってしまう。夏用の半そでの白衣を着たまま病棟から講義棟へ移動していた俺のポケットに振動が走った。着信だった。そしてそれは予想していたことだが、ジェーンからで、俺は頭上の太陽の日差しと人目を避けるために日陰に入って通話ボタンを押した。なんとも言えない心持だった。

『先生!私一番取りました!』

こちらに何も言わせず、ジェーンは興奮気味に叫んだ。おめでとう。言いながら、苦笑した。日差しが強すぎて、思わず白衣の袖で汗を拭った。

「一番を取ったからには、“おねがい”を聞いてやらなければいけないな」

言い出すのも恥ずかしいのか、黙ってしまったジェーンにそれだけを言った。彼女が何も言い出せないからと言って、“おねがい”を無かったことにして電話を切ることは出来なかった。

『先生・・・』
「うん」
『あ、のっ・・・わ、私と・・・・・・デートしてください・・・』

意識を向けていなければ、セミの鳴き声にかき消されそうな声だった。目の前を、自転車に乗った二人組の学生が通り過ぎて行った。

「それは・・・できない」

俺も負けないくらいにか細い声だっただろう。かろうじてそれだけを口にすると、予想したとおりに沈黙が訪れた。
ジェーンはどれだけの勇気をふりしぼって、その一言を口にしたのだろうか。

「できないんだが・・・、君はやっぱり要領がよくない」
『・・・・・・』
「俺と君がデートなんて、そんなことがどこかにばれたら俺は捕まってしまうだろう?」
『・・・すみません』
「謝ることはないさ。ただ、もう少し知恵を絞ればお互いにとって問題ない方向に持っていける」
『・・・えっ?』
「デート、なんて言うから拙いんだ。そうだな・・・“どこそこのアイスクリーム奢って”とか言えばよかったんだ」

鼻をすするような音が聞こえた気がした。気のせいだろう。

『・・・・・・先生、それズルイです』
「そうだな」
『ズルイです・・・それにひどい・・・。断られたと思ったのに・・・』
「・・・すまない。が、泣いたらどこにも連れて行かないし何も奢らないぞ」
『な、泣いてなんかいません!』
「そうか・・・で、君の“おねがい”は何だったか?」

額から流れる汗を拭いながら、また俺は頭の片隅で別のことを考えていた。
実習のこと、次の講義のこと、アイスクリームのこと。

腕時計に反射した太陽の光が眩しかった。

- end -

20080717