虹のワルツ

30.虹色世界はキミの中(夏碕)


少しすすぎ残したかもしれない。ドライヤーを当てながら髪の間に手を入れるとコンディショナーの残滓がちょっとヌルついている気がした。
修学旅行の四日目、団体行動だった今日は、有名な乳製品メーカーの工場見学だった。いよいよ明日で修学旅行も終わりだと思うと、短かったなあと、そう思ってしまう。
「夏碕さぁ、琥一くんと二人で居たでしょ?」
浴槽の中でクラスの女の子たちに、ニヤニヤされながら問い詰められた。それは昨日の夜のこと。そして今日も、「本当に何もないの?」と疑わしい目つきで聞かれてしまった。何もない、と思う。別に付き合ってるわけじゃないし、そこは彼女たちも「あの琥一くんがさ、誰かと付き合うとか、ないよねえ?」なんて、失礼なんだかなんなんだかなことを言っていたし。
でも確かになんとなく、琥一くんは一人でいるのが似合っている気がする。私なんかが横にいていいのかなとか、美奈子ちゃんや琉夏くんといるのはしっくりくるな、とか、そういう風にも思う。
ただ、昨日二人でまわったのは本当に楽しかったし嬉しかったし、それが独りよがりなんかじゃなかったらいいのに。

大浴場から部屋へ戻る途中、通路の真ん中で琉夏くんと美奈子ちゃんを見つけた。もうすぐ消灯時間だけど、何してるんだろう?
「あ、夏碕ちゃん!」
二人そろって目を輝かせて、ああこれはなにか悪戯をやらかすときの顔だ、と思って身構えたときには二人に両脇から掴まれていた。
「ちょ、ちょっと!どこに連れて行くの!」
そのまま引っ張られるようにして、ずんずんと通路を進んでいく。こっちは男子の部屋だ。
「戦場へ一名様ごあんなーい!」
浮かれた声の美奈子ちゃんがドアを開けた瞬間、私の顔に何かがぶつかった。
「ぎえっ……」
「夏碕ちゃん!!」
拍子で膝をついてしまい、これにはさすがに二人とも驚いたみたいだけど、次の瞬間にはもう中に飛び込んでいた。
「お姉ちゃんの仇は俺が討つ!」
仇って……。
痛みの残る鼻を抑えながら、膝の上に落ちたものを確認する。なんとなく予想していたけど、それは枕だった。旅館によくある、多分蕎麦殻のかたーい枕。これが当たれば確かに痛い。痛いだろうに、みんな本当に楽しそうに枕をぶつけたり受け止めたり避けたりしている。ああ……こんなことしてたら、
「怒られるのに、とか思ってんだろ?」
言い当てたのは琥一くんだった。ぽかんとしていると、いきなり私の腕をひっぱって立ち上がらせる。なんか、楽しそう……。テンション上がってるのかな。
「来い、お前はこっちだ」
「ええ!?」
私も参加するの!?というのは今更かもしれない。「あー瑞野さんだ!」「めっずらしーな」「俺、瑞野にはあてられねーよ」
男子は勝手なことばっかり言って……。当てられないとか言ってさっき当てたくせに……。
「ほら、反撃しろ!」
琥一くんが私に枕を一つ押し付けてくる。それを受け取ると大きく振りかぶって、えいと投げてみた。
「いってえ!当たった!」
どこか楽しそうに、避けずに私の投げた枕に当たってみせた男子が大げさに痛がっている。それを見てみんなが大声で笑っていて、私もつられて笑顔になった。
「よっしゃ、こっちも反撃!」
「瑞野さんも小波さんも痛くしないでねぇ〜」
「うっわ!お前、キッモイ!」
大笑いの大騒動が始まった。思えば中等部時代にはこんなことしたことがない。私ってけっこうつまらない人生を送っていたのかも……なんて考えられる暇があったのは最初だけで、いつのまにか枕投げに、投げてはかわしに夢中になっていた。
そんなに長い時間そうしていたわけじゃないけど、せっかくお風呂に入ったのにしっとりと汗ばんできたなと思った頃に突然この部屋の扉が空けられた。
「コラァ!突撃生徒指導だぁ!」
大迫先生の声だ。
大体の旅館やホテルの大きな部屋がそうであるように、この部屋も通路と部屋を隔てる扉と、さらに出入り口と大部屋を隔てる扉の二重構造になっている。だから、まだ大迫先生はこの惨状(だろう、これは)は見えていない、はず。
「やべっ!電気消せ!」
「隠れろ!」
みんなが布団の中に潜ったりしているのが、電気が消される前の一瞬に見えた。私は背後の、布団が入っていた押入れに転がり込んだ。本当に文字通り。頭が押入れの段に当たらないように身をかがめて、お尻から着地するはずだった。というか、そうなったんだけど、私が「きっと固い床にぶつかると痛いだろうな」と予想して構えていたのが裏切られた。
「ウオッ!?」
比較的小さな、そんな声が聞こえたのに首をひねったときには、私は誰かが身を潜めているその上にすとんと体を落としていた。
「えっ――」
「バカ!声出すな!」
琥一くんだった。
片膝を立てて座っていたところに私が落ちてきたものだから、きっとびっくりしたに違いない。でもそれは私だって、まさかそこに誰かがすでにいたなんて知らなかったからびっくりしていて、思わず声を出しそうになった。すると、大きな右手が私の口を覆う。ごつごつした手に、大きな指輪がふたつ。左腕は、暴れるとでも思ったのか、私のウエストにくるっと回されて。後ろから抱きすくめられるというのはこういう状況なのではと、そう思うと心臓はバクバク言うし顔に血は上ってくるしで、早く大迫先生に出て行ってほしくてしょうがなかった。
「ふぅん……中々やるな…………。よし、今日のところは見逃してやる」
そんな声が聞こえると、ドアを二回閉じる音がして、誰かが頃合を見計らって電気をつけた。
「びびったぁ〜」「あっぶねー」みんなが安心しているような声も聞こえる。衣擦れの音もするから、みんなきっと布団の中から出てきてるんだろう。
多分、そんなに長い時間じゃなかったのに、私の体はいろんなことを覚えている。
ちょっと湿ったお互いの体操服越しの、琥一くんの、体温とか心臓の音とか呼吸する気配とか。たまらなくなって思わず、ウエストに回された琥一くんの手首をぎゅうと掴むと、琥一くんは少し身じろぎをした。彼の左耳のピアスが揺れる、繊細な音がした。







(おまけ? 一方桜井琥一は)

両腕を解いてやると、瑞野は「ぷはっ」と息を吐いて、前かがみになりながら何度か呼吸を繰り返した。
知らないうちに力が入っていたのかもしれない。微かに開いた押入れの隙間から入ってくる細い光の筋で、アイツの体の線が良く見えた。
「おい……大丈夫か」
行き場を失った両手で肩にそっと触れると、瑞野は勢いよく振り返った。びびらせたんだろう。
「ん、へいき……」
頬にかかった髪を払いながらのセリフは、俺の手のひらに当たっていた生ぬるい呼気を思い起こさせた。薄い唇と思っていたのに意外に柔らかいと思ったことも、ちょっと汗ばんだ首筋から女のニオイがしたことも。ニオイと言えば、髪のニオイが違った。女子は自分の愛用のシャンプーとかそういうのを持ってきているんだろう。サテンのような肌触りの長い髪が俺の頬にずっと触れていた。
心臓に悪かった。
そういうのをラッキーだと思えるほど、俺はまだ何もかもに慣れてはいないって思い知った。

20100818