虹のワルツ

31.無言の波(美奈子)


夏碕ちゃんは10月になると、実質的にも形式的にも新体操部のキャプテンになった。
カレンもそうだけど、やっぱりキャプテンというのは忙しいみたい。加えて夏碕ちゃんはクラブの後輩に慕われてるようで、お昼ご飯のときも華やかな新体操部の女の子たちが私たちのクラスに集まってくる。そういうわけで私は最近、カレンとミヨと三人で食べるか、琉夏くんと琥一くんの三人で食べるか、ほとんどそのどちらかだった。
それでも、これまでの大会前のときのように私はそれを寂しがっていない。
寂しいことは寂しいけど、多分それを気にするような余裕がなかったんだろう。

ある日の放課後、昇降口で夏碕ちゃんに呼び止められた。
「美奈ちゃん」
修学旅行から帰った頃から、夏碕ちゃんは私のことをこう呼ぶようになった。琉夏くんも。
「今帰り?」
「うん。夏碕ちゃんは、クラブは?」
ローファーを地面に置きながら、今日はお休みだと教えてくれた。
そういえば、今日はいつも持っている大きなバッグがない。教室にいたときに気づいていたはずなのに、私はすっかり忘れていたみたいだ。
「よかったら、お茶でもして帰らない?」
もちろんオーケー。

学校から程近い、チェーン店の喫茶店に入る。夏碕ちゃんはいつもレモンティーで、私は今日はミルクティーを注文した。
カウンターで受け取ったそれらを運ぶと、私たちはお気に入りの窓際の席に腰を下ろした。
夏碕ちゃんは少しやせたような気がする。
「美奈ちゃん」
瞬きよりもゆっくりと目蓋を動かして、夏碕ちゃんは頬杖をついた。
「なに?」
「どうしたの?最近、ちょっと元気がないように見える」
あっ、と口を開けてしまいそうになった。
元気がないわけじゃない。それどころか最近は、お休みの日は毎日家で休んでいるから、授業中の居眠りも減って……それはいいとして、
「そう、かな?」
夏碕ちゃんは何かに気づいているのかもしれない。
「うん。……何か悩んでたりするのかなって思って」
何もないなら、それが一番だけど。
夏碕ちゃんはストローの先で、グラスに浮いたレモンスライスをつついている。落とした視線の先で、液体が揺らいだ。
小樽の海が、静かに凪いでいるのを思い出した。海を見下ろす丘の上の、からっぽの空き地のことを。ずっと黙ったままだった琉夏くんのことを。

夏碕ちゃんと私は、しばらく何も喋らずに、秋の夕日を浴びながら家路を急ぐ人の流れをぼんやりと見ていた。
「あのね、」
思い切って私が口を開くと、夏碕ちゃんは頬杖を解いて私に向き直る。
でも私が窓の外を眺めたままだったので、夏碕ちゃんもまた窓の外に視線を戻した。それを確認してから、続ける。
「夏碕ちゃんは、誰かの秘密って、気になる?」
なんとなく、伏せるように言ってしまった。
夏碕ちゃんはしばらく時間を置いて、
「……うん、気になるけど、それが誰かにもよる」
「それが、誰か?」
私は夏碕ちゃんを正面から見据えた。
「うん。あんまり知らない人の秘密は、興味ないかも」
ああ、そういう意味かと納得して、私はほっと安堵した。
「じゃあ……もし、もしも、知り合いが秘密を抱えてるけど、教えてくれないときって、どうする?」
「知り合いが、教えてくれないとき……」
一言ずつ噛み砕くようにして、夏碕ちゃんは考え込む素振りをした。
「教えてって、言ったのに教えてくれないの?」
「そうじゃないの。でも、聞いちゃいけない気がする」
言いながら、答えは出ているような気がした。
西日が少しだけ差し込むこの窓のむこうは、私の知らない人ばかりで、それぞれが私の知る由もない何かを抱えているのかもしれないと思うと、なんだか不思議でしょうがない。
「じゃあ、私だったら待つよ。相手が話してくれるのを」
今日だって、美奈ちゃんが何もないって言ったなら他の話をしようと思ってたし。と、夏碕ちゃんはテーブルの上で手を組みながら笑った。
うん、そうだよね。
「それが、いいよね。たぶん」
本当はわかってたけど、私は誰かに安心させて欲しかったのかもしれない。そして、夏碕ちゃんはその役に適任で、まるで悩んでいたのが嘘のように、もやもやがとれていく。
安心したらおなかがすいてしまった。夏碕ちゃんにケーキを食べていかないかと提案すると、驚いたように目を見開いていた。
仕方ない。我ながらゲンキンだとは思うし。
「一緒に買ってくるよ。何がいい?」
「いいの?じゃあ、私はミルクレープで」
財布だけを掴んで席を立ち、夏碕ちゃんの隣を通り過ぎる瞬間、
「……ひみつ、か」
そう、彼女が呟くのが聞こえた。

20100821