虹のワルツ

32.花畑に用事があるのは数年前の僕(夏碕)


二日前のことだった。
月に一度、美化委員の仕事が放課後に回ってくる。中庭の花壇の手入れを、美化委員が手分けして行う、それが仕事。学年をまたいだ縦割りの班で、毎週決まった曜日に行われる。
中庭と一口に言ってもけっこう広い上に、何箇所もあるものだからそれなりに大変で。
加えて同じ班にあの設楽先輩がいるものだからいらぬ気まで遣わないといけない。設楽先輩が美化委員と言うのは、面白いと言えば面白いけど。
最初は「何が楽しくて俺がこんなことしなきゃいけないんだ……」と、ぼやいては「設楽、仕事なんだから手を動かして」と、紺野先輩(最初のころは指示出しに来ていた)に注意されていたものの、最近は何か面白さでもみつけたのか、それなりに仕事もこなしているみたいだ。紺野先輩は「瑞野さんが付いていてくれたからだよ」と言ってくれた。
付いていたというのは、紺野先輩の見立てでは一番(設楽先輩に対して)忍耐強そうなのが私だったから、一緒に組ませていたことを指す。確かに4月からずっと一緒に作業をしていたけど、最初はなだめすかして仕事をしてもらうのに随分苦労した。今は一人で黙々と作業をしている姿がここからでも見える。草むしりもちょっと楽しそうだ。

「お前、」
仕事が終わり、私は用具室の前でジョウロやら小さなスコップやらを仕舞っていた。すると後ろから声をかけられる。
「はい?」
振り向くと、腕まくりをしたままの設楽先輩が立っていた
「一人で片付けてるのか?」
設楽先輩は、話していると『一を聞いて十を察しろ』と言われているような気になる相手だと思う。
「あ、えーと……クラブがある子はそっちに行っちゃいま、」
「お前だってあるだろ」
「みんな大会とかあるらしくて、」
「新体操部もそうだって聞いたぞ」
……誰から聞いたんだろう。自分以外に興味がなさそうなのに、と言ったら失礼かな。
「最近色んなところで聞くんだよ。新体操部の評判」
人に十を察することを要求するだけあって、設楽先輩はちょっとむっとした顔で私の聞きたかったことに対する答え(だろう)を付け加えた。
「評判……ですか?」
「悪くないほうのな」
それは知らなかった。とりあえずお礼を述べて、私はコンテナの中にスコップを仕舞う作業に戻る。
「お前……行かなくていいのか?」
しゃがみこんで作業を手伝おうとしてくれているのか、設楽先輩はコンテナに手を伸ばした。きっちり仕舞えるように並べて入れているのを、横から手を添えてくれる。
「すぐに終わりますから、大丈夫ですよ」
「お人よし」
そういう評判も聞く、と言われた。これは、呆れられているんだと思う。……でもこの場に限って言えば、私がやらなくちゃいけないことだし。それから無言でスコップを仕舞い終えると、ジョウロを棚に並べていく。レタリングされた黒いナンバー入りのジョウロをきっちり番号順に並べていると、
「おかしいな」
「……5番だけないですね」
10あるはずのジョウロが、9つしかなかった。
「どこかに置き忘れたのかもな」
「探してみましょうか」
設楽先輩は、ああ、と返事をして校舎のほうへ歩いていった。こんなことでも、設楽先輩がやっていると思うと、なんだか天変地異のように思ってしまう。
それはともかくとして、用具室の鍵を閉めないことにはクラブにもいけないので、私は設楽先輩と逆のほうへ歩き出した。

ジョウロを置き忘れそうなところと言ったら、花壇の近くか水場だろうと見当をつけて探してみるけれどどこにもない。校舎から一番離れている、グラウンドの端の水場にも行ってみたけどさすがに何もない。
紺野先輩か、職員室の先生に話したほうがいいかもと思いながら踵を返そうとして、地面に水滴の跡が点々と続いているのに気がついた。
秋晴れがずっと続いていたので、皆ジョウロに水をいっぱいに入れて運んでいた。あまり入れすぎると、溢れてこぼれるから、運んでいるとヘンゼルとグレーテルが落としていったパンくずみたいに跡ができる。
視線でそれを追うと、半分乾きかけのそれは学校敷地のはずれのほうへ続いている。
誰がこんなことを、と憤然としながら、私はまた歩き始めた。

校舎の壁を伝っていくと、レンガが崩れたところがある。『あれ、教会につながってるんだよ』と、琉夏くんが言っていたのを思い出した。どうやらジョウロ泥棒はこの中に入って行ったらしい。中を窺おうとして身をかがめると、向こう側から出てこようとした誰かにぶつかりそうになった。
「きゃっ!?」
「うおっ!」
低い声に後ずさりする。向こうもかなりおどろいたようで、レンガに頭をぶつけていた。「痛ぇ!」と、反射的に上がった声には聞き覚えがある。
「こ、琥一くん!?」
自慢の髪型が崩れないように頭を押さえているのは紛れもなく琥一くんだった。手にはジョウロ、ちゃんと5の数字が入っている。
けれど、美化委員でもない彼がここでジョウロを持って何をしているのか。気まずそうに視線をそらし、体の後ろにジョウロを隠そうとしているみたいだけど、もう遅いとしか言えない。
「……何してるの?」
「あ――いや、ちが……これは、その……」
動揺して、視線が泳いでいる彼の顔が少し赤い。
「……たまたまだ」
「は?……たまたまって……こんなところで何してたの?」
琥一くんはぐっと言葉に詰まってしまった。言いたくないことなんだろうか。それにしては「ウルセエよ」の一言も降ってこないのが気になる。
「お前こそこんなとこで何してんだよ」
「用具室に道具を片付けようとしてたらジョウロが一個なかったから、探しに来たの」
ちょっと怒ったように、腕を組みながら言ってみると、琥一くんは口をへの字にしてしまった。反省しているのかもしれない。私はちょっと笑って、
「いいよ。片付けておくから。――中にお花でも咲いてたの?」
ジョウロを半分、琥一くんからもぎ取るようにして受け取ると、私はレンガの崩れから中を覗き込んだ。雑草が生い茂った緑の絨毯には、鮮やかな花の色は一つもない。まさか雑草に水をあげるわけはないだろうから、秋には咲かない花なのかもしれない。
「まあ……そんなところだ」
鼻の頭をかきながら、琥一くんは言った。その後に、「ガラじゃねえのは俺だってわかってんだよ」と、拗ねたように呟いている。
「どこに咲くの?」
「あ?」
「だって毎回ジョウロ泥棒されちゃ叶わないし、私が美化委員の日に――」
「いい」
提案は、遮られた。
「俺がやらなきゃ、意味がねぇんだ」
動揺していた様子から一変して、琥一くんは力強くそう言った。気圧された私に気がつくと、彼はまた気まずそうな顔になって、「琉夏にも小波にも言うんじゃねえぞ」と言い残して、夕陽の中に去っていった。
その言い方は、花に水をやる行為が恥ずかしいからではなく、行為それ自体を秘密にしていなければならないのだと言っている気がした。
空っぽのブリキのジョウロから、水滴がぽつぽつと落ちている。

20100821