虹のワルツ

33.呼吸音と唄声とノイズ(琥一)


放課後、大迫につかまった。
というよりは、前々から「お前は出席が足りんから補習するぞ」と言われていたのをのらりくらりと回避していたらとうとうとっつかまって、「今日の放課後に補習を受けなかったら、現代文の単位はやらん!」と言われて二進も三進もいかなくなったというのが正しい。
メンドクセぇが、単位が取れなきゃ困るのはこっちだ。一学期の試験前に「留年したら琥一くんは私と夏碕ちゃんと、それに琉夏くんの後輩になっちゃうね!」と小波が言っていたのを思い出す。あのヤロ、清清しいくらいの笑顔で言いやがって。ガキの頃は頼りない顔で俺らの後ろをちょこちょこついてくるのが関の山だったくせに。変な方向に成長したんだろう。
そんなわけで俺はHRが終わった後も教室に残ってぼんやりと時間を潰している。さっさと始めりゃいいのによ。
頬杖をついて廊下を行きかう生徒の流れを見ていると、見知った顔が目に留まった。宇賀神、だっけか?いつだったか、バイト先で一悶着あったのを思い出す。
ちまっこい宇賀神は、教室の前で立ち止まった。
「夏碕」
見上げるように顔を上げた先には、部活に向かう途中の瑞野がいる。
「ミヨ?どうしたの?」
女の中じゃ割とデカイ方の瑞野と、人類の中では間違いなく小さい部類に入る宇賀神の会話というのは、絵としてちょっと面白い。俺は頬杖をついていた手のひらをずらして、緩みそうな口元を隠した。
「あのね、新体操部の練習風景、スケッチさせてほしい」
俺やルカと話すときは見上げるほうの瑞野が見上げられているのは、中々奇妙な感じだ。
「あ、そっか。美術部はもう文化祭の準備してるんだっけ」
「うん」
そういやうちのクラス、今年は何やるんだか。変な衣装を着せるようなもんじゃなきゃあ、まあなんでもいいか。
「いいよ?普通に練習してればいいんでしょ?」
「うん。ありがとう」
それから二人はぺちゃくちゃ喋りながら多目的室のほうへ歩いていった。
俺は頬杖を解いて、頭の上で両手を組んだ。
『夏碕ちゃん、合同練習のときかっこよかったんだよ?』
ルカがそう言っていたのを思い出す。『曲も演技もかっこよかった、俺は詳しくないけど、夏碕ちゃんが一番きれーだった』 だかなんだか。俺は練習があることも知らなかった。実際のところ、その日はバイトだったし聞かされてたところで観にいったかどうかはわからねえが、なんだか釈然としない。
釈然としないまま、大迫が教室に入ってきて、気乗りしない補習を受けることになった。
廊下と反対側の窓の外は、ものすごい速さで雲が流れている。
こりゃ雨だな。

補習が終わった頃には、もう土砂降りになっていた。こちとら天気予報をマメに気にかけるような人間じゃないので、昇降口の傘立てにある傘を適当に見繕って拝借することにした。どうせ何ヶ月も前から置いてあるコンビニのビニ傘だ、誰も困りゃしねえだろ。
地面に叩きつけるように降っている雨の様子を見ると、どうもこの中に飛び出していく気にはなれない。しばらく様子を見てみることにした。
下駄箱に軽く体重を預けてたたずんでいると、派手な女子の集団が横を通り過ぎて行った。物言いたげな視線には気づかないフリをする。これもいつだったか、ルカの携帯の番号を教えろと詰め寄る女子に思ったままのことを言ったら、偶然通りがかった小波に口やかましく言われたのを思い出す。
雨音の大きさは変わらない。
『女の子に、あんなふうに言っちゃだめだよ』
いつの間にかそんなことまで言うようになったのかと思う。最近はルカの姉貴みてぇになってるしな。
自然と口元が緩んだ。俺はあいつの親父でもねえってのに。
年寄り臭いことを考えていた自分に呆れていると、一瞬視界がきらりと光った。数秒後に、振動も伝わりそうな轟音が耳に届く。こりゃ収まりそうにない。
いい加減、帰るかと思って傘を開くと、また稲光が走る。雷鳴を覚悟するように身構えて3秒、轟音と一緒に何かが落ちる音がした。下駄箱の向かいの方からだろうと思って覗き込むと、女子が一人、下駄箱から靴を取り出す動作の途中で固まっていた。落ちたのは置き傘にしていた折りたたみ傘だろう。床に水色の傘が落ちている。右手を下駄箱の中に突っ込んで、左手は耳を覆うように、肩もすくめているのは瑞野だった。
「……」
意外な弱点というか。
怖いものなんてありませんとでも言いそうなヤツだと思っていた。声をかけていいものか迷っていると、いっそう明るい稲光が走る。瑞野はとうとう、中途半端に掴んでいたローファーもぼとぼとと取りこぼした。
「ひい……!」
なんだよその悲鳴みたいなの。いや、悲鳴だろうけど。
悪いとは思うが、俺は堪えきれずに噴出してしまった。耳を塞いでいる瑞野には聞こえないだろう。もっとも、同時に轟いた雷鳴にかき消されたわけだったが。
全身をこわばらせている瑞野を見ていると、ちょっとからかってやろうと、そういう気分になる。俺は開いた傘を畳んで息を吸い込んだ。
「おい!」
「うあっ!?」
どっからそんな声が出るんだと聞きたくなる悲鳴に、俺は今度こそ大声で笑ってしまった。しゃがみこんでしまった瑞野が顔を上げる。
「……え……?こ、琥一くん?」
眉を下げて怯えたような顔でキョトンとした様子だ。器用なやつ。
「おまっ、何ビビってんだよ、ガキかぁ?」
げらげら笑っている俺を見て何とか人心地のついたらしい瑞野は、今度は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「脅かさないでよ!」
「ああ?人聞きの悪ぃこと言うなよ、お前ずっとビビッてたじゃねえか」
「み、見てたの!?」
「おう?見てたぜ?」
瑞野はまだ何かしらを言おうとして口を開けた。が、また視界が光に包まれると動きを止める。本気でビビッてやがる、とニヤニヤしていた俺の耳に轟音が届いたのと、直接的にはそのせいでない穏やかな衝撃に体が傾いだのはほとんど同時だった。
「も……やだ……」
瑞野の、泣きそうな声がする。いやこれは俺のせいじゃないだろうと自己弁護するよりも、覚えのある甘ったるい匂いがすぐ近くから漂うことの方が大問題だった。
「お、おい……」
鞄と傘を持った左手と、ポケットの中の右手。俺にしがみついた瑞野。どうしたらいいんだ、こりゃ。
胸元に額をつけて、髪が少しほつれている。俺のブレザーを握り締める両手が白くなっている。ノイズのように、雨はいつまでも等量の水を地面に叩きつけている。
「大丈夫か……?」
喉が渇いて、舌が口の中に張り付きそうだ。
ポケットから引き抜いた右手で肩に触れようとして、やめた。そのかわりに華奢な背中に手を回して、反対側の肩を抱いた。
早く雨がやめばいい。ばらばらに散らかったローファーと折り畳み傘が何度か稲光に照らされて影を作っても、瑞野はじっと押し黙ったままだった。
雷がどこかに落ちればいい。
時折雨音に混じって、ぴたぴたとどこかから垂れてくる雫の音も聞こえる。
次に稲光が煌いたら、右手に力をこめようと思った。ただ、そう思ったときに限って事象は反対の方へ逃げていく。
「は……うあっ!」
瑞野が驚いて、俺の腕の中から飛び出した。驚いたのは多分自分の行動に対してだろう。
「ご、ごめ……」
髪を整える瑞野に気取られないように、俺は行き場を失った右手をそっと下ろした。
「もう、平気か?」
「うん……」
どうしても小さい頃から、怖くてしょうがなくて。そう言いながらローファーを履いて、折り畳み傘を拾って、瑞野はいつもどおりの調子を取り戻したようだった。もう平気なら、それならそれに越したことはない。
まだ雨はやまない。
「んじゃ、帰るか」
「――うん」
瑞野は一瞬だけ、意外そうな顔をした。その後で笑顔で答えたくせに、また鳴り響いた雷に一寸だけ肩をすくめる。
「ハァ……行くぞ」
放っておいたらいつまでもここでビクビクしながら夜になっちまうだろうと、俺はそう考えてあいつの左手を掴んで歩き出した。

20100830