虹のワルツ

37.てのひらに乗せられた重み(夏碕)


12月23日はセールの日。私は一人、合同練習やら申し込んでいた予備校の模試やらで疲れた体に鞭打って、はるばるショッピングモールまで靴を買いに来ている。明日のクリスマスパーティに着て行くドレスに合わせて、今年こそはヒールの低い、歩きやすい靴を手に入れようと思って。去年カレンから借りたパンプスはヒールが高すぎて歩くに歩けなかったから。
ちょっと大人っぽいデザインだけれど、綺麗な白いオープントゥのパンプスを予想以上に安く買えたので、駅前の商店街の喫茶店でちょっと贅沢な時間をすごそうと思った。
いつも友達と行くチェーン店の三倍はするコーヒーと、アナスタシアに負けないくらい美味しいケーキを出してくれるその喫茶店は私のお気に入りだ。と言っても、そんなに頻繁に贅沢をするわけにはいかないので、二週間に一度ぐらいのペースで通っている。
端正な顔立ちのウェイターさん(多分アルバイト)に爽やかな声で迎えられて、私はいつもどおり、カウンター席の端に陣取った。なんでもそうだけど、隅っこが落ち着く。
今日は歩いてちょっと暑いから水出しアイスコーヒー、それからティラミスを注文した。
やっぱりケーキはおいしいし、ここのコーヒーは他と比べ物にならないくらいに深みのある味わい……だと思う。詳しくないからあまり御大層なことはいえないけれど。それにしても、コートを脱いでもアイスコーヒーを飲んでも、私はずっと暑いままだった。暖房が効きすぎているのかしらと思って周りを見ても、みな穏やかな顔をしている。確かに夏よりも冬が好きだけどそんなに暑がりなつもりは毛頭ないのに……と首を傾げていると、カウンターの中からウェイターさんが声をかけてくれた。
「温度、下げましょうか?」
お冷を注ぎ足しながら、ちょっと身をかがめて小声で話しかけてくる。ちらっと視線を上げたところから察するに、きっと暖房の温度のことを言っているんだろう。
「いえ、大丈夫です」
爽やかすぎる笑顔に、そう返すしかなかった。ウェイターさんは「失礼しました」とにっこり笑って、カウンターの中で何らかの作業を始めている。すごく感じのいい人だと思う。それにかっこいいし、この喫茶店に女性客が多いのも頷けた。
テーブルの端に立てられているメニューには、ランチプレートも載っていた。最近始めたのかもしれない。いつかお昼時に来る機会があれば食べてみたいなあと、ぼんやり思う。

冬の街が好きだ。ちょっと寒そうに身を震わせる人たちの色とりどりのコートも、つないだ手を彼のポケットに入れているカップルも、真新しいニット帽と手袋が嬉しそうな子供たちも、私を暖かくさせる。
それを抜きにしても、私が感じている暑さはちょっとおかしい。さすがに怪しいと思って、帰宅後すぐに体温計で熱を測ってみると37度。微熱が出ていたのかとようやく納得できたけど、明日は楽しみにしていたクリスマスパーティだから絶対に休めない。
ちょっと頭がぼうっとするくらいなら大丈夫だろうし、夕飯の後に飲んだ解熱剤のおかげで、夜に明日の支度をしているころには随分意識もはっきりしてきた。ま、大したことないだろうし、パーティーが終わった後にゆっくり休めば病院に行く必要もないだろう。
念のため早めに床に入って、その日は久しぶりにぐっすり眠った。

『紳士、淑女のみなさん……』
シャンデリアつきのホールには荘厳なクラシックの調べが満ちている。去年、初めてここに来たときは皆圧倒されていた。今年も一年生たちが半ば唖然としているのがここからでもわかる。部の後輩たちもちょっと興奮気味だ。さっきまで彼女たちと話していたけれど、起きてすぐに解熱剤を飲んだおかげで、昨日よりも頭はすっきりしている。
「夏碕ちゃん、メリークリスマス!」
美奈ちゃんだ。去年よりもずっと綺麗にメイクをしている彼女は会場の中でも一際輝いている。
「メリークリスマス、美奈ちゃん」
持っていたシャンパングラス同士をぶつけると、チン、という音と一緒に炭酸の泡が弾けた。
「一人?」
てっきり琉夏くんと一緒にいるのかと思っていたのに。
「うん。琉夏くんは女の子たちに囲まれちゃって……」
ああ、さもありなん。と、私が二三度頷くと、美奈ちゃんは寂しそうに目蓋を伏せた。でも、琉夏くんはきっと美奈ちゃんのところに来ると私は踏んでいる。
「夏碕ちゃんも一人?」
「うん。今のところは。……ちょっとおしゃべりでもしながら、琉夏くんを待とうか」
「……うん!」
美奈ちゃんは私の提案に満面の笑みで頷いた。

それからしばらく二人で壁際で談笑していたところに姿を見せたのは琥一くんだった。
「おい小波、ルカが探してた」
「え――……本当?」
「嘘言ってどうすんだよ。ほら、いってこい」
と琥一くんは呆れながら「しっしっ」と手をひらひらさせた。美奈ちゃんは嬉しそうに笑って、それからはにかみながらそそくさと私たちを残して去っていった。
かわいいなあ、ほほえましいなあと思いながら見送る。ちょこちょこと小走りの美奈ちゃんは、間もなく人の波に飲まれて見えなくなった。
残された私と琥一くんは、特に何も喋らない。
キャメルカラーのスーツに、赤に黒いストライプのシャツ、ピンクのタイ。とてもよく似合ってる。背が高くて、男の人に言うことかはわからないけどスタイルもよくて、まるで往年の映画の俳優みたい。
去年と同じ服なのに、去年はこんな風に思わなかった。
変だ、私。なんだかぼうっとしてきて、まるでうっとりするような感覚。顔が赤くなっている気がする。
どうしたんだろう。
手袋越しでは、顔に手を当てても何も感じない。
そんなことをしていると、琥一くんが怪訝な顔で聞いてきた。
「どうした、お前……さっきから黙って」
「え……ううん、なんでもない」
まさか、「あなたに見惚れていました」なんて言えやしないから適当に言葉を濁す。
「……具合悪いのか?」
そんなに変な顔をしていたのかしらと思っていると、琥一くんの右手が私の額に当てられた。大きな手のひらは私の視界もちょっと遮る。びっくりして目を見開くと、その手は額から離れていった。琥一くんは、私と同じように驚いた顔をしている。はて、何故だろうと思ったのもつかの間、今度は両手を頬に当てられて、顔を包み込まれてしまった。
冷たい手のひらの温度のせいか、その行動のせいか、私はシャンパングラスを床に落としてしまった。私があっと声を上げるより先に、琥一くんは顔をしかめて私を叱るように言った。
「熱あんじゃねえか……!」
熱……そういえば解熱剤を飲んできたけど、そろそろ切れる頃かもしれない。ああ、だから私はぼうっとしていたのか。
「だいじょぶ、平気だよ」
「平気って、お前……おい、寒くないか?」
「ううん、どっちかっていうと暑いくらい……」
そうそう、昨日も暑くて。って、冬なんだけど。
「……どっかで休め、ほら」
「いいよ、平気平気」
何故かおろおろしながら手を差し出す琥一くんをよそに、私は落としてしまったシャンパングラスを拾おうと身をかがめた。よかった、割れてない。

ゆっくりと立ち上がろうとしたとき、ぐらりと視界が反転していった。あれ、これってまずいかもしれない……。

天井のシャンデリアの光が眩しい。無数の光が段々とぼやけていく。とても綺麗。
かしゃん、と、小さな音が聞こえた。またグラスを落としてしまったみたいだ。割れていなければいいけど。
琥一くんの声が聞こえた。「瑞野!」
なんだか周りも騒がしくなってる気がする。「何?」「誰か倒れたの?」「誰か、先生呼んで!」「夏碕ちゃん!?」
聞こえてる、聞こえてるけど何も声が出ない。叫ばなくてもいいのに、なんだか恥ずかしいな……。頭がぐらぐらする。熱のせいでこんなふうになったのは、多分初めて。ぼうっとして、何も考えられない。違う、考えているけどちっともまとまらない。だって誰かが私を抱きかかえているのさえ、今はどうだってよくなってる。
おかしいな。
私、倒れたらしいのにゆらゆら揺れてる。誰かの腕の中で揺れてる。膝の裏と、背中に力強い腕を感じる。
誰?
ぼんやりとした視界に、桃色のタイの端が入った。苦しくて、目を閉じる。右手で彼の上着を掴んで。それすらも何の気休めにもならない。
どうしてこんなにも苦しい?熱の所為?

息をするのもつらくなってきたなと考えていたら、いつのまにか柔らかな何かの上に横たわっていた。ふかふかの、これはソファーか何かだろう。夜会巻にした髪の、髪留めが当たって痛い。
だるさを無理に押しのけながら腕を回してそれを取ろうとすると、大きな手が手伝ってくれた。髪はソファーの脇へ、髪留めは私の手からそれぞれ滑り、下に落ちていく。目で追いながら、何の音もしないところを見るときっと絨毯か何かが敷いてあるんだろう。
ここは、どこだろう。
まわりを見回すように目を動かすと、大きな手の持ち主が髪留めを拾おうと手をそちらへ伸ばすところだった。
やめて。
私は、彼の大きな手を掴んでいた。何がしたいんだろう、私は。もう何も考えられなかった。
そのまま彼の手を、私は自分の頬に導く。冷たい手のひらが気持ちよかった。
気持ちいい、と言ったはずなのに何も聞こえない。ぱくぱくと口を動かしているだけ。
“苦しいのか”
彼がそう言った気がした。別のことを言ったのかもしれない。でも、たとえそうだったとしても、私にはもう通じない。
私の手で押さえられた彼の手の、親指が私の唇をなぞった。優しい手つき、彼は優しい人。

好き。


私、琥一くんが好き。

20100907