虹のワルツ

38.帰り花の残り香(美奈子)


年末のアンネリーは、かき入れ時だ。近所の華道教室の先生がお年始のために大量にお花を買い込んだり、その生徒さんらしきおば様方が同じような花を買いにきたり、お遣いらしい小学生ぐらいの男の子が注連飾りをくださいってちょっと緊張気味に走ってきたり。
師走ってこういうことだなあと思いながら、私も琉夏くんもスタッフの皆も、慌しくあちこちを駆け回っていた。クリスマス前からずっとこんな忙しさが続いている。

クリスマス。パーティーの真っ最中に夏碕ちゃんは倒れた。
彼女を天之橋邸の別室に運んだ琥一くんが「アイツ……すげえ熱だった。……インフルエンザとかじゃねえといいけど」と心配そうに言っていたのを思い出す。
琉夏くんも私も気が気じゃなかった。その後のパーティーもあまり楽しめなかった。
大丈夫かな。そう思って何度も、連絡しようと思った。けど、回復した夏碕ちゃんからの連絡を待つ方が彼女の負担にならなさそうだと判断して、私たちは三日ほど、ちょっと不安な日々をすごしていた。

「肺炎!?」
お昼間から雪が降りそうなほど薄暗く曇った28日の午後、夏碕ちゃんのお母さんがアンネリーにやってきた。年明けに使うらしいお花の注文を終えると、私と琉夏くんに夏碕ちゃんのことを話してくれた。
39度を越す高熱に、病院が出した診断結果は肺炎だったそうだ。それって大丈夫なのかと思って、琉夏くんと二人で身を乗り出すと、灰色のストールをぐるぐる巻きにしたおばさんは笑いながら手を振った。
「大丈夫よ。もうしばらく入院しなきゃいけないけど――」
「入院!?」
生まれてこの方大病を患ったこともなければ大怪我をしたこともない私は、入院という言葉が非常に、重いものだと感じてしまう。ほとんど泣きそうな顔になっていた(だろう)私を見て、おばさんは慌てて付け加える。
「ああ、入院って言ってもね、ほら肺炎は……夏碕だけかもしれないけど、とにかくあの子、一週間は朝晩に点滴をしなきゃいけないだけで、別に、絶対に入院しなきゃいけないわけじゃないの。でも毎日病院に連れて行くのがちょっと難しいから、それと、ちょっとだけ大事をとって入院してるだけよ?」
だから美奈ちゃん、安心して。そう言いながらおばさんは私の肩をポンポンと叩いた。
「もう熱は下がったし、さっき様子を見に行ったらけろっとした顔でごはんもほとんど食べてたもの」
「ほ、本当……?」
肺炎って、すごく大変な病名に聞こえるけど、そういうものだろうか。たった三日でそんなに回復するのかな……。
「ごめんね、二人にも心配かけちゃったわね?」
「ううん、夏碕ちゃんが大丈夫なら、俺たちそれで安心だもん。な?」
「うん……ちょっと、びっくりしたけど。早く良くなるといいですね」
おばさんの笑顔を見て、やっと安心できた私と琉夏くんはほっとため息をついた。
顔を見合わせて安堵の笑みを浮かべる私たちを見て、おばさんは手を叩いて更に口を開く。
「あ、そうだ。もしよかったら、お正月……は二人とも家にいるだろうし……まあ、年明けにでもウチに来てくれる?」
「お正月?」
きょとんとした琉夏くんと私に、おばさんは説明してくれた。
夏碕ちゃんの退院は31日だけど、おばさんもおじさんも明日からどうしても実家に帰らないといけないらしい。いつもは夏碕ちゃんも一緒に行くらしいけど、さすがに今年は(何しろ飛行機と電車の長旅らしいから)連れて行くわけにはいかず、家にひとりぼっちになってしまうそうだ。
「なんだかあの調子じゃ、年明けにはすっかり回復してそうなのよね……」
どこか呆れているようなおばさんが、片手を頬にあててため息をつく。そんなに、現時点で元気なんだろうか。
「いいよ。お正月、一人じゃ寂しいもんね」
琉夏くんはにっこり笑った。私も彼に続いて手を上げる。
「行きます!」
「来てくれる?よかったわぁ……」
おばさんもほっとしたように笑っている。
確かに新年早々家に一人ぼっちは寂しいだろうし、年内の予定が詰まっていてお見舞いに行けそうもないから、それなりに元気になった夏碕ちゃんと新年を過ごすのはいい考えだと思う。そうだ、何かお花を持っていこうかな。後で琉夏くんに相談してみよう。

「よいお年を」と言っておばさんを見送ってから、私と琉夏くんもバイトから上がる。あったかいココアの缶を握り締めながら歩く帰り道は、本当に雪が降りそうなくらいに寒い。私も琉夏くんも吐く息が真っ白だ。もっと遅い時間に、もっと郊外へ行けばきっと綺麗な星空が見えるだろうと思いながら空を見上げる。曇天の空は吐き出した息でいっそう白く曇った。
ゆっくりと、わざと時間をかけて帰り道を歩く。どちらが言い出したわけでもないけど琉夏くんは最近私を家まで歩いて送ってくれる。寒い季節はあまりバイクに乗りたくないらしいから、もっぱら琥一くんが使っているとのこと。
あ、と私は気づいた。一瞬だけ歩を止めた私を振り向いて、
「コウにも教えとかないとね」
琉夏くんはココアの缶に頬ずりしながら、私のほうを見て言った。
「そうだね、心配してたもんね」
本当に。熱にうなされる夏碕ちゃんよりも琥一くんの顔色の方が悪かった。目の前で倒れられればそうもなるだろう、とは思うものの、きっとそれだけじゃなかったんだろうと思う。
私たちだって心配してたけど、琥一くんはフロアの片隅でゆったりとワルツみたいなものを踊る三年生をぼんやりと見ているばかりで、ほとんど何も口にしなかった。
「帰った後もさ、アイツ……心ここにあらずって感じで、ぼけっとしてた」
琉夏くんの顔は、長い前髪に隠れて見えない。
「……やっぱさ、今メールしたほうがいいかな」
早く教えた方がいいのか、それとも帰ってからゆっくり話したほうがいいのか、琉夏くんは携帯を片手に決めかねているようだった。
「今日は琥一くん、お家にいるの?」
「ううん。臨時でバイトに行ってる」
帰ってくるのは俺より遅いかも。琉夏くんが大きなため息をつくと、白い息の塊がふわりと霧散した。
持っていたココアの缶は、あまりにもゆっくりと歩きすぎたせいでもう温くなってしまっている。なんとなく立ち止まってしまった私たちは、ブロック塀に凭れてココアの缶を開けた。ぬるいココアは、おいしくなかった。
「ねえ」
「なに?」
唇についたココアを舐める琉夏くんにちょっと笑いながら、私は一つの提案をしてみる。
「今から行こ、スタリオンに」
ちょっとだけ話をするくらいなら大丈夫だろうし、もしダメだったら近くのウィニングバーガーで待って、一緒に帰ればいい。
ずっと気を揉んでいる琥一くんを安心させたいのもある。でも琉夏くんが、そんな琥一くんのことを気にかけてつらそうな顔をしているのも、見ているこっちがつらいから。
私が考えていたことを言うと、琉夏くんは急いでココアを飲み干した。
「そっか……うん、それがいい」
口元を今度は手の甲でぬぐって、「ほら、オマエも早く飲んで」と催促する琉夏くんが、やっといつもらしい笑顔を見せてくれた。
やっぱり二人とも、本当に仲がいい。そんな二人が笑ってくれた方が、私だって嬉しい。
だから私も急いでココアを飲み干して、私たちはスタリオン石油の近くまで行けるバスに乗り込んだ。

20100910