虹のワルツ

39.触れたそばから離してしまう(琥一)


“すき”

そう見えた。
あいつの唇がゆっくりと動く様子を思い出す。声を出すのも辛いくらいに弱っているように見えた。俺の手を掴んで、熱に浮かされて、声にならない声でそう言って、俺の腕をすり抜けていった。

「心配かけてごめんね……でも本当にもう大丈夫!」
小波とルカに無理矢理初詣に連れて行かされて、その足で瑞野の家を訪れた。元々見舞いには行くつもりだったからそれはいいとして、初詣はカンベンして欲しかった。なんだって、新年早々人ごみの中につっこまなきゃいけねえんだ。げんなりした俺をよそに、ルカと小波はおみくじを引いたり出店で飲食したりと、楽しんでいたみたいだったが。……理解できねえ。
ルカが作った花束に、それから果物やらコンビニで買ったデザート類やらを抱えてインターホンを鳴らすと、瑞野はけろっとした顔で俺たちを出迎えた。多分拍子抜けしたのは俺だけじゃない。
買ってきたものを台所へ運ぼうとする瑞野を、俺たちは止める。確かにコイツの家だが病み上がりの瑞野にそこまでさせるつもりはない。病人は座ってろと俺が言うと、小波が瑞野をリビングのコタツの中に押し込んでいる。ま、あれくらいしなきゃアイツは言うこと聞かないだろう。
俺は、とりあえずゼリーやらプリンやらを冷蔵庫に押し込む。他所の家の冷蔵庫を開けるのはちょっと気が引けたが、中はきちんと整頓された冷蔵庫だった。生真面目なのは血筋か?なんてことを考えている横でルカがダイニングテーブルの上の花瓶に、解いたブーケを差し込んで整えている。へぇ、バイトしてるだけあって結構サマになってるんだな。
二人ともこっちにおいでよと、先にコタツに入った小波が呼んでいる。お前は家主じゃねえだろとつっこもうとしたら、ルカが我が物顔で戸棚からグラスを四つ取り出しているのが目に入って、俺は思わず言葉に詰まってしまった。お前らちょっと遠慮がなさ過ぎるんじゃねえか?
夏碕ちゃん、お茶でいい?」
「うん、ありがとう」
コタツに入ると、小波がペットボトルのお茶をグラスに注ぐ。遠慮がないくらいにしないと、瑞野が勝手に動いてしまうんだろう。そういう意味じゃこの場合、ルカと小波のほうが場の空気を読めているのかもしれない。
「なんていうか……お客様なのに、ごめん……」
瑞野はグラスをコタツの上に置くと、俺たちを見回しながら謝っている。そろえた両手は手の甲が黒いカーディガンにすっぽりと覆われている。部屋着だろうか。男物みたいにでかいカーディガンの下にVネックのカットソー、下はグレーのストレートデニム。こういう格好をしているのかと、さっきはまじまじと見てしまった。
「いいの!気にしないで、病み上がりなんだから」
「でも本当にもう……大丈夫よ?」
「本当に?無理してない?」
「喉痛くない?熱は下がった?」
「うん。しばらくは部活も休んでゆっくりするけど、本当に大丈夫」
過保護なくらいに気遣う二人に、瑞野は笑いながら、それでも申し訳なさそうに手を振った。俺はどう口を挟んだものか、頬杖をついて思案していると逆に瑞野に話しかけられる。
「琥一くんも……その、心配かけてごめん」
目蓋を伏せている瑞野は、自分が何を言ったのか覚えているのだろうか。
「気にすんな、たいしたことなくてよかったな」
「うん……あの、運んでくれたんだよね?」
「あ?……ああ」
なんだ、それも覚えてないのか。
「私……なんか変なこと言ってなかった?」
ぎくっとした。
「……いや?別に」
言った。お前はとんでもないこと言った。けどそれは俺が教えるべきことじゃあない、と思う。
「なんで?覚えてないの?」
小波が心配そうに瑞野の顔を覗き込むと、何故かルカが答えた。
「ああ、すごい熱出てたら、なんか頭はぼーっと……朦朧とする、ってやつ?そうなるから、覚えてないよね?」
そうそう、と瑞野が何度も頷く。自分たちだけのあるあるネタで盛り上がってる二人を小波はそういうものかと納得しかけた顔でしげしげと眺めている。
「熱が出てたのは最初の三日ぐらいだったけどね、その間のこと全然覚えてないの」
「だろ?俺もそうだったもん」
「え?琉夏くんもそんなことあったの?」
「うん。ずっと小さい頃にね」
どこか遠くを見ているようなルカに、それ以上誰も追及しなかった。俺がグラスの中身を口にしたからかもしれない。
「あ、また勝手に一人だけ飲んで!」
小波に目ざとくたしなめられた。最近コイツに説教されるのが増えてきた気がする。俺だって言いくるめられるだけではいないから、もちろん言い返す。
「ウルセー。なんだよ、乾杯でもするつもりだったのか?」
「あ、いいなそれ。夏碕ちゃんの退院に乾杯だ」
提案したルカがグラスを掲げる。小波もそれに倣い、しょうがないから俺も追随する。
「え?あ、ありがとう……」
瑞野は困惑しながらも嬉しそうな顔でグラスを掲げた。ルカが乾杯と言うのにあわせて、コタツの四方から伸びた手に握られたグラスがぶつかって軽い音を奏でた。

ファミリーパックのチョコレートやらポテトチップスやらをコタツの上に広げて、口にするものが不健康すぎる快気祝いが始まった。
健康優良児の小波は入院生活に興味があるらしく、瑞野から根掘り葉掘り話を聞きだしている。さすがに一週間の入院生活が退屈だったのか、瑞野は嬉々としてその求めに応じた。
大迫のみならず理事長まで見舞いに来ただの、部活のメンバーが来て一月の半分までは休むように半ば脅迫していったことだの、病院食は不味いのが定説だけど自分が入院したところはそう不味くはなかったが量がすさまじく、確実に太ったに違いないだの。身振り手振りを交えて一通り話し終わると今度はルカがテレビを見たいと言い出して、新年特番にチャンネルを合わせた。お笑い芸人が大御所歌手と対抗してスポーツの勝負をしている様子がルカは気に入ったらしく、時折笑い声を上げている。つーかコイツ、寝そべって完全にリラックスモードじゃねえか。
半分呆れながら、俺たちはしばらくプラズマテレビの画面を眺めていた。観るんじゃなくて、眺める。多分俺たちじゃなくても、正月をぼんやり過ごしている人間は大体そうだろう。
番組の中で芸人がとったリアクションに俺がちょっと笑う。瑞野も笑う。が、残りの二人は黙ったままだった。おかしいなと思って覗き込むと、ルカは寝そべって、小波はコタツの上に半分突っ伏して、いつの間にか眠っていた。
「あらら……」
苦笑しながら瑞野は立ち上がって、ソファーにかかっていたひざ掛けをルカに、自分が着ていたカーディガンを小波にかけてやっている。
「寒くねえのか?」
白いカットソーの首周りは思ったよりも広く開いていた。見るからに寒々しい。
「平気だよ?あ、琥一くんも眠いなら寝てていいよ。夜になったら起こすから」
「寝るか。人んちで寝るコイツらがおかしいだけだろ」
「そんな……疲れてるんだよ、お正月早々に私の……お見舞い、かな?……に来て、さ」
視界の端でルカが身じろぎをした。小波はくうくうと静かに寝息を立てている。
「テレビ、観ないなら消すけど、いい?」
「ああ」
瑞野がリモコンでテレビの電源を落とすと、リビングはしんと静まり返った。
壁にかけられた時計の、秒針が進む音すら聞こえない。時折外から車が通る音やら、人の声が聞こえてくるくらいだ。
「お前、」
「ねえ、」
気まずさに堪えきれなくなって口を開いたタイミングが同じだった。
「あ……ごめん」
「……なんだ」
「えっと、お腹すいてない?」
へらっと笑う瑞野は、何か作ろうかと申し出てくる。腹が減ってはいないが、減っていたとしてもその申し出は断っていただろう。
「いや?俺は平気だ」
「そう……あ、さっき何、言いかけたの?」
瑞野はもぐりこむような動きをして、コタツ布団を肩まで被っている。やっぱ寒いんじゃねえかと言いながら、脇に丸めていた俺の上着をよこすと、照れくさそうに羽織る。黒いジャケットに袖まで通して、「で?何言おうとしたの?」としつこく聞いてくる。せっかくはぐらかしたと思ったのに。
「別に」
「大したことじゃないとか?」
「ああ」
そう、大したことじゃない。アレはきっと惚けた頭のお前が何も考えずに言ったことなんだろう。そういうことにしておく。
「……そう」
ゆるく一つにまとめられた瑞野の髪から、一房の髪が零れ落ちた。
「あ、いや。一つあった」
「何?」
「その上着のポケットによ、お前の髪留めが入ってる」
パーティーのときに落としていったヤツだ。
「髪留め?……どこのポケット?」
きょろきょろしながら、胸ポケットから順に手探りで目的物を探している。手伝わないのは、いつかと同じ徹を踏まないためだ。
「あ、あった。ああ、これか……」
左手が入る位置になるポケットから、瑞野は銀色の髪留めを取り出してそのまま自分の髪をまとめなおした。一つに束ねて、ぐるぐるねじって、なんかよくわからん動きをして二つの髪留めで固定している。きちんと櫛を使ってやれば、あの日と同じきっちりした髪型になるんだろうというのだけはわかった。
「ありがと、すっかり忘れてた」
落としたことはおろか、自分が外したことも覚えていないんだろう。熱ってのは中々怖えもんだなと妙な感心をしながら、俺はちょっと笑った。

20100910