虹のワルツ

47.弱いぼくを許して / SIDE:琥一


狭っ苦しくて薄暗くてヤニ臭い。その上、爆音がやかましいことこの上ない。
ライブハウスなんてそういう場所だと思っていた。
大体当たってはいたけれど、いざ入ってみるとやけに穏やかな空気で女が多い。受付っぽいところでチケットをもぎっている、瑞野の知り合いの井上とかいうヤツの兄貴は、雰囲気こそちょっとチャラチャラしてる感じだったが、割かしまともそうなヤツだった。
「妹がお世話になってます。ま、楽しんでってね」
真ん中で長い髪を分けて、食えない感じの笑い方をする。なんかこう、油断ならぬ相手のような気がして、でも他人だからどうでもいいかと我に返る。
中に入ってみると染み付いた煙草のにおいがかすかに漂うだけで、カウンターの片隅で紫煙をくゆらす一人以外は煙草を吸っていない。
そんなものかと拍子抜けした。
流れているのは電子音がやけに際立って聴こえるテクノ・ポップだった。舌足らずのような、本当に少女が歌っているような、聞き覚えのない言語の歌詞は頭に入らない。
コーラを二つ頼んだ。
17:55
袖をずらして腕時計を見ると、もうすぐ始まる時間のはずだ。どこからわいてきたのかと疑いたくなるほど人が増えて、ステージ前は押し合いへし合いになるんじゃないかってくらいだ。人気のバンドなんだろう。俺は、その良さなんてわかりゃしねえが。
コイツはどうなんだろう。
「前に行かなくていいのか?」
「え?――私は、いいかな」
苦笑している。あまり得意な場所でもないんだろう。
脱いだジャケットを片手にかけて、コーラのプラスチックカップを唇につけたまま、ぼんやりとしている。ように見える。
そうならざるをえなくてそうしているのだろうが、普段よりもずっと近くに瑞野がいる。擦り寄ってきているんじゃないかと勘違いするくらいに。
たまに視線を落とすと、瑞野の大きく開いたニットの胸元の真ん中にくぼみが見える。薄暗くて、その奥は見えない。なんとなく安心した。


対バンしてるバンドも、メインだか主催だかのバンドも、どちらかというと穏やかな曲ばかりを演奏した。
バレンタイン、という単語がMCの最中に何度も飛び出す。
ああ、だから今日は女が多いのかとようやく思い当たって、どうしたものかと困ってきたような、落ち着かなさを感じた。
コイツは一体どういうつもりで俺をこんな日にこんなところに誘ったんだろうか。本日何度目かわからない疑問を頭の中でぐるぐるかき回す。
ごくたまに小波に誘われてボウリングだかに付き合わされるが、ありゃアイツが琉夏に勝ちたいから特訓つけろと言ったのがきっかけだった気がする。
今日のコイツの誘いはなんなんだ。勘違いしそうだ。いや、そうじゃない。
それが勘違いなのか、無言の訴えなのか半分ずつの疑念を抱えてどっちつかずだから、俺はきっと困っている。
『――それじゃあ次で最後』
ボーカルの男(どこかで見たような気がする)がそういうと、黄色い声が惜しむような声を上げた。
どうせ予定調和なアンコールをやるんだろうと、一人白けた顔をしているうちに、『Only You』と言われた曲が始まった。
プラターズかと一瞬期待しそうになって、まさかそんなことはないだろうと前のめりになりそうになった体を戻した。
クリーントーンに近い、かすかに歪んだ音色のギターから静かにはじまったバラードに、観客も静かに興奮しているようだった。
瑞野は、真剣な顔をして歌うボーカルの男を見ている。

「私、この曲が好き」
ライブハウスから出る途中に、瑞野がそう言ったのが聞こえた。
こういう曲が好きなのか、それともたまたまこの曲だけ気に入ったのか。どちらにせよ、だったらもう少し真面目に聴けばよかったと少し後悔した。
外はすっかり暗くなっている。思ったよりも寒くて、白い息を吐き出しながら駅前の駐輪場まで瑞野と一緒に歩いた。


暖気している間、排ガスのニオイが立ち込める駐輪場の片隅には俺たち二人だけだった。
そんなことを気にするのは格好悪いので口には出さないが、コイツの片手にずっとぶら下がっている、黒地にピンクの模様の紙袋が気になっていた。
しつこいようだが今日はバレンタインというやつで、去年もらって今年もらえないはずはないだろうなんて、ガラにもなく期待している。
昼休みに女子に囲まれ半分困った顔のルカを見て、きっと同じようなことを考えてるんだろうと思った。
甘い物好きのアイツだって、たくさんのどうでもいいチョコレートより、たった一つだけのチョコレートが欲しいんだろう。
つまり俺は、期待している。
何もなかった昼休みと放課後をまたいで。
さすがにそれを口に出すのも、せびっているようなので気づかないふりをしている。今日と言う日におおっぴらにチョコが欲しいなんて言える男なんてそうそういないだろうけれど。
待っているというか受身でいるというか、けれどそれは、本当は卑怯なことなんじゃないだろうかとも思う。
そういうイベントごとのときは女に花を持たせたほうがいいんだろう、なんてことを考えながら、実際は自分に根性がないだけだ。
ライブハウスの中で、人ごみから守るようにアイツを抱き寄せることだってできた。なのにしなかった。
SRのシートに二人跨って、後ろから両腕を回されて、抱きつかれるような格好になって。
触れたいという欲求すら他人任せだ。
冷たい風が乾燥した唇を何度も切りつけた。


瑞野の家の前でアイツが降りる。俺はエンジンをかけっぱなし、サイドスタンドだけ下ろして跨ったまま、ヘルメットと手袋を受け取った。
指先が触れ合うと、アイツは何かに気づいたような顔になった。
「冷たくなってる、ごめん」
真冬に手袋もなしに運転すれば、確かにそうもなる。
「気にすんな、」
「あの、」
両手をつかまれた。少しだけ温度の高い柔らかな手のひらの感触が、すぐにもっと柔らかいものに変わる。
瑞野は俺の両手を自分の唇の近くに持ってきて、息を吐きかけた。湿ったような温い息と、一瞬だけ触れた唇の柔らかさがおぞましいものにかわって俺の背筋を駆け上がった。
不味い、と思うのに、手を離すことができない。
温まっていく指先が、アイツを絞め殺すように首筋に当てられると、俺の体は熱くなるように感じた。第一関節のすぐ下で、頚動脈が規則正しく浮き上がっては沈む。
少し力を込めれば、俺はきっとコイツを……どうとでも出来る。
頼りない首とストールの間の暖まった空気じゃ物足りないと言って、コイツを抱き寄せたところでなんになるだろう。
俺の一時的な下賎な欲求が満たされて、それだけで済むかどうかもわからない上に、きっと説明を求めるだろうコイツに対してうまく立ち回ることもきっとできない。
弁明するのも卑怯なら、弁明ではない真実を告げようとしないのも卑怯だ。
SRが規則正しく排気を吐き出す。時々、咳き込むように大きく震える。
「もう、いい」
これ以上は俺がオマエに責任とれない。
今は突き放すしかない、できない。
瑞野がどんな顔をするのか見たくはなくて、視線をそらした。
俺に突き放されて悲しそうな顔をするのも、眉を動かさないのも見たくはなかった。
しばしの沈黙の後、排気音を掻き分けるように呼びかけられた。
「これ……」
紙袋を目の前に突きつける様は、子供向けのアニメで見たシーンを思い出させた。
「…………なんだ?」
俺はバカかと自分を殴りたくなる。手袋を嵌めた手で受け取ると、「ガトーショコラ」だと教えてもらえた。
「あまり、甘くないように作ってみたけど……美味しくないかもしれないから、そのときは捨てて」
斜め下をじっと見つめながら話す様が儚げで、もしも俺たちが子供じゃなければ、俺はきっととんでもないことをやらかしていたに違いない。
攫ってしまいたかった。
「――バカ、ちゃんと食う」
瑞野は声を上げずに笑って、頷いた。
小さなバッグを持ったまま、立ち尽くす瑞野の次の言葉を待っていた。待ちながら、前にもこんなことがあった気がした。
ああ、あれは確かコイツにハンカチを渡したときだった。
あの時、俺は中々渡せずにコイツを散々待たせたんだっけか。
スロットルを回さないように握り締めた。
あの時と立場が逆だ、なんて考えて、望んだ結末が来るのを待っていた。


今思えば、それは決して望んでいた結末じゃあないのだと思う。
負け惜しみでも悔恨でもなく、そう思う。
紙袋の中の、これでもかと過剰包装された包みを丁寧に解きながら、『おやすみなさい』と言った瑞野の顔を、一つずつ思い出していた。
そもそも俺がアイツにまかせっきりなのもいけないのだ。
そう気づいたときにはもう遅かったんだと思う。アイツが何も言わないのなら、俺だって何も気づかないふりをしているしかない。
丁度、このガトーショコラを受け取る前のように。
アイツにとってこれが精一杯なのか、いいやそれはあまりにも都合のいい考えだ。きっとそれ以上でもそれ以下でもない。
俺はアイツにとってはただそれだけの存在だと考えた方が、余計なことを考えなくてすむ。
口に入れたガトーショコラは、想像していたよりずっと苦かった。

俺は、卑怯者だ。

20101102