虹のワルツ

48.弱いぼくを許して / SIDE:夏碕

ライブハウスに来たことがあるかどうか尋ねると、琥一くんは首を傾げるように虚空を見ながら少しだけ考えて「ねぇな」と一言で答えた。
私よりはずっと音楽に詳しいのだろうけど、彼が好きそうな音楽が現代の世で生演奏されているかというと確かにそれは疑わしかった。
そういえばどうして私は彼の音楽の好みを知っているのだろうかと考えそうになって、それは美奈ちゃんや琉夏くんのせいだと思い当たる。
彼女らが意図的に私に、そういう情報を(言葉は悪いけれど)吹き込んだのか、それとも私の耳が半分自動的にそういう情報を選別して記憶しているのかはわからないけど。
長机とパイプ椅子の簡素な受付にいたのはイノのお兄さんだった。というか、聞いたところによるとこちらが本物の“イノ”らしいけど。
ファンらしきお姉さんたちからチケットを回収して、彼は私に気がつくとちょっと驚いたような顔をした。
「あ、夏碕ちゃん。妹がお世話になってます」
何度か顔を合わせたことはある。話しやすい感じの、優しい人だ。
「楽しんでいってね」
そう言う……井上さんの顔はイタズラっぽくて、イノ(妹)よりも見ようによっては女の子のようだった。
事の顛末はきっと妹から聞いているに違いない。なんだか無性に恥ずかしくなった。
ライブハウスというところに来たのは初めてだった。幅のない階段を上って、チラシがベタベタ貼られたドアを開けると饐えたようなにおいがする。床も壁も震えているくらいに大きな音楽が流れていて、私は琥一くんの後ろでちょっと体を震わせた。
1ドリンク制だからカウンターでなんか頼んでって、と井上さんに言われたので、私たちはコーラをいただくことにした。
透明なプラスチックのカップに口を付けると、リップクリームの跡がべたりとついてしまった。そのたびにぬぐうのも面倒だし、私はもうだらしなく唇をつけたままにしようと思ってしまうくらい、なんだか雰囲気に酔うというか、そんな感じだった。
カウンターの隅では、髪の短い女の人が煙草を吸いながらお友達と思しき人と話している。ばっちりお化粧も決まっていて、大人っぽい人ばっかりだ。カウンターの中の、多分スタッフの女の人も睫が長くてキレイ。その彼女にたまに声をかけにくる、こちらも音響か何かのスタッフらしき顎鬚の男の人も、みんな大人。
場違いではないといいのに。私はなんだか心細さのようなものを感じて、琥一くんに身を寄せた。混雑しているから、きっとそのせいだって思われるに違いない。


轟音で耳がおかしくなったらどうしようかと思っていたけど、静かなバラードや、時々ピアノとクラシックギターだけの曲も演奏された。
さすがに、バレンタインライブと銘打っているだけあってそういう曲ばっかり。
でもこれじゃあまるで遠まわしな告白をしているような気分になって、どうにも居心地が悪かった。
演奏される曲はすごくいいのに、きれいで時々切なくて、コップをペコペコへこませながら私は自分の体を抱いていた。
二人とも言葉少なで、何を考えているのか、何を考えたらいいのかわからなくて困っていた。だから私はずっと、ステージの上で歌う人たちを見ていたんだと思う。
セクシーに少ししゃがれた声の女の人、爽やかに澄んだ声の男の人、声はなくて楽器だけのアレンジ曲を演奏する人たち。
こんなにたくさんの、歌の表現の仕方があるものかとちょっと感心しつつ、私はこの気持ちが伝言ゲームか連想ゲームみたいに伝わっていればいいのにとも思ってしまった。
それはすぐに、あまりにも臆病で卑怯な目論見だと思いなおしたけれど。
『Only You』
とても綺麗な曲だった。私、この曲が好き。そう口からこぼれ出た言葉は、琥一くんの耳に拾われていた。
体の芯まで染み入るような夜の寒気を吸い込んで、「そうか」と一言言ったきり。ジャケットの前をかき合わせながら、私を連れて歩き出した。
同じものを見て、同じものを聴いて、気持ちを共有できたらいいのにと思う。誰とでもいつでもそういうわけにはいかないって、そのくらいわかっているけど、ちょっとだけ残念だった。


たどり着いたのは、駅前の地下駐輪場だった。歩道を歩いて中に入ると、自転車やバイクがずらりと並んでいる。琥一くんは券売機のようなものに小銭を何枚か入れてボタンを操作している。
「送ってく」
黒いバイクのところまで歩くと、シートの脇に引っかかっていた大きなヘルメットを押し付けられた。
琥一くんは反対側からもう一つの黒いヘルメットを取った。こっちの青いのは、琉夏くんのだろう。
ガボガボのヘルメットをかぶって、やたらにゆとりのある顎紐を止め具で固定している間、琥一くんはバイクに跨って何かを踏み下ろすような動作をしている。エンジンをかけているんだとわかったのは、地下の空間に大きな爆音が響いたときだった。
「びっくりした……」
琥一くんは、笑った。
エンジンがかかったのに、すぐに乗らないのはなぜかと思って聞いてみると、寒い時期は十分にエンジンを暖気しないと乗ってる最中にエンストしてしまう、とのこと。そういうものとは知らず、さっさとヘルメットを被ってしまった自分がちょっと恥ずかしくなる。
時々排気口に手をかざしているのは、きっと温まったかどうかを見ているんだろう。
「これ使え」
何度か温まり具合を見ている間、彼は黒い手袋を私に差し出した。革で出来た、大きな手袋。
「寒いだろ」
「でも運転する方が、」
「俺はいいんだよ」
きっと頑として譲らないんだろうことは容易に想像できるから、私は大人しくそれを両手に嵌めることにした。
内側が起毛素材であたたかい。ジャケットの袖の先をくるりと覆うように。手袋はそのくらい大きかった。
この手袋の持ち主の、大きな優しい手は、私がしたようにヘルメットの止め具をパチンと止めた。
「行くぞ」


ジェットコースターの上り坂のよう。
駐輪場から出てくるときにそう感じた。
ゆるやかな上り坂だって、必死に彼にしがみついて通り抜ける。
バイクに乗せてもらったのは初めてだけど、多分穏やかな運転なんだろう。ドキドキするけど怖いとは思わない。
それでも必死にしがみついているのは、そうしたほうがより安心するから。だと思う。
顔も見えないし、エンジン音で声もきっと聞こえない。どうしてなのかわからないけど、切なくてしょうがない私は、大きな背中にできるだけくっついていた。子供みたいに。
いっそ子供ならよかった。性差を気にしない接触が許される歳をとうに越えて、理性の皮で覆われた本能をひた隠しにしている、ずっと。
おおっぴらにこんなことが出来るきっかけがあってよかった。臆病な私は、そんなことを思いながら組んだ両手に力を込めた。


後ろに乗っていた私だって寒かったけど、琥一くんはもっと寒かったに違いない。
家の前にたどり着いて、触れた指先は氷のようだった。
「冷たくなってる」
申し訳ない気持ちと、どうしようもない苦しさが私を襲う。きっとこの人が他人のために差し出せるのは指先や手のひらだけじゃない。それは、そのことは私の奥深くを痛めつける。
「ごめん」
私だって指先や手のひらだけじゃなく、差し出したい、捧げたい。
冷えてしまった指先に息を吐きかけた。
バイクのエンジンが唸るのと、私の心臓の鼓動はどちらが早いんだろう。
手袋に覆われていたとはいえ、私の手のひらの温度はたかがしれている。脈打つ心臓を鷲づかみにされれば、きっと暖かくなるだろうなんてバカなことを考えて、私の手は彼の手のひらを首に導いていた。
それがいわゆる若さの所為なのかはわからないけど、そのとき私は仮に絞め殺されてもいいと思った。
琥一くんがそうしたいのなら。
なんだか本当に首を絞められているような気分になって、恍惚のままに目を閉じた。
それと、同時だった。
「もう、いい」
彼は、私を突き放した。


それが最善だったんだろうと、私は自室で思う。
ジャケットをクローゼットにかけながら、ああも積極的な(私にしては)行動をとったことに自分で驚愕してしまうし、何より今更恥ずかしい。
部屋着に着替えるのも面倒なので、カーディガンを羽織ろうとすると、手首にブレスレットをつけたままだったことに気がついた。
机の上のアクセサリー入れの蓋を開けると、『虹の彼方に』が軽やかに流れ出す。
修学旅行のあれこれを思い出して、自然と笑みが浮かんだ。あのときはしょうもない意地を張って、でも仲直りをして。
あの頃は、意識していたのかなと考えてみる。
そういうつもりはなかったんだろうけど、でもきっとあんなことがなければ今、私の胸にこんな恋慕の情は宿らなかったと思う。
その情念は日に日に私を苛む。辛いと思うこともある。
オルゴールの螺子を巻きながら、それでもすべてが泡沫に消えるよりはずっとずっと、幸福だと信じている。
それに、その先に進むということがどういうことなのかわからないし、イコール未知のものへの恐怖もある。
『おやすみなさい』
冷気に長時間晒されて、ようやく冷静さを取り戻しつつあった私は、そうとしか言えなかった。
もしかしたら、二人同じことを考えているのかもしれないなんて、都合のいい解釈は夢物語でしかないことを、私は知っている。
けれどそれすらが、逃げ口上にすぎないのかもしれない。
真実なんてものは、私自身すらよくわからない。

私は、臆病者だ。

20101102