虹のワルツ

49.擦り切れた記憶はいつしか夢へ(夏碕)

3月1日

少しずつ暖かくなってきていた日中の気温も、日が暮れだすと一気に下がっていく。
橙色の日を背に浴びながら、もう誰も残っていないだろう校舎の脇を急ぎ足で私は進んでゆく。


数時間前

学年もクラスも性別も入り乱れて、たくさんの生徒たちが中庭や渡り廊下や教室やそこかしこではしゃいでいる。
みな離れ離れになるのを惜しむように写真を撮ったりアルバムに寄せ書きをしたり。
私も例に漏れず、部の先輩たちと一緒に何枚も写真を撮っていた。
引退した後でも時々目をかけてくれる人たちがいなくなってしまう、つまり責任が私たちにのしかかるんだってことを改めて実感するようで気が引き締まるようでもあったし、でもそれ以上にお世話になった、かわいがってくれた先輩たちが卒業するというのはものすごく寂しかった。
午後は在校生が体育館の片づけをしなければならないから、先輩方を校門で見送っていると声をかけられた。
「瑞野さん」
紺野先輩と、設楽先輩だった。
いつもどおりに、最後まできっちり制服を着ている紺野先輩とは対照に、設楽先輩のジャケットは見るも無残だった。
「……すごいですね」
申し訳程度にほつれた糸だけが残るジャケットに思わず驚嘆の声を漏らすと、不機嫌そうな顔の設楽先輩がため息をついた。
何を言う気も起こらないくらいに憔悴しているのが見て取れる。
「お二人ともご卒業おめでとうございます」
もう放課後に設楽先輩のピアノを聴くことも、校舎のどこかで琉夏くんを呼び止めようとする紺野先輩の焦ったような声を聞くこともなくなるのかと思うと、やっぱりとても寂しくなる。
せめて笑って送り出そうと、そう、今日一日ずっと心がけているけれどちゃんと笑えているんだろうか。
「ありがとう。……こんなことを僕が言うのもおかしいけど、もう設楽と君が並んで草むしりしてるのが見られなくなるんだな」
言いながら、紺野先輩はちょっと笑っていた。
「そんなもの見て何だっていうんだよ」
またも対照的に設楽先輩は怪訝な顔をした。でも設楽先輩が草むしりに精を出している様子はけっこう見ものだった。口には出せないけど。
そうか。卒業式ってことは、学年も終わりで、美化委員も今月が最後の仕事なのか。
紺野先輩が、実は三年生の間で“草むしりする設楽聖司”がひそかに注目を浴びていたことを打ち明けると、当のご本人は今更ながら不本意そうに照れていた。半ば怒ってるって言ったほうがいいかもしれない。
こんな風に、仲のいい二人を見るのも最後。色々お世話になりましたと言うと、二人に変な顔をされた。
「お前は別に紺野の世話になってないだろう」
それは……確かに私は琉夏くんたちほどには迷惑かけたりはしてないけれど。
「どちらかというと設楽が瑞野さんにお世話になったんじゃないのか?」
「……うるさい」
「文化祭とか、いらしてくださいね」

二人を見送った後、私はその場で二三度足踏みをした。
本当はすぐに教会へ向かって、確かめたかった。
『俺がやらなきゃ、意味がねぇんだ』
もしかしたら、今の時期に咲いているかもしれない。


夕陽に照らされると、煉瓦の壁は目が痛くなるような朱に染まる。
潜り抜けた先には、お世辞にも手入れされているとは言えない草むらの中の古い教会。
卒業式の日と伝説、何度か聞いたことがある。二年生の私には関係ないだろうけど。
「……じゃなくて」
雑草だけが生い茂っているように見える教会の敷地に足を踏み入れる。ところどころにクローバー、シロツメクサが群生しているけれど、まさかどこにでもあるコレを世話しているはずもないだろう、多分。世話をしないと咲かない花でもないだろうし。
けれど他にめぼしい花がなければ、琥一くんはシロツメクサか、或いは夏に咲く花を世話していたのかもしれない。
中腰になりながら、どんな小さな花も見逃さないように歩いていると、草むらよりもちょっとだけ背の高い緑の塊を見つけた。
皺の多いギザギザの葉は、他の草とは明らかに違う。
これは怪しい。
なんだか探偵ごっこでもしている気分になる。その場にしゃがみこんで葉をかき分けてみることにした。
琥一くんは、この植物の世話をしているんだろうか。
なんとなく、教会の伝説を思い出した後の私は、彼が世話していた花は今の時期に咲くに違いないと確信していた。
なのに、かき分けてもかき分けても、緑ばかりで何もない。
「まだ、咲いてないのかな……あ」
10株ほどがかたまって植わっているのを全部探って、そのうちの2株からつぼみが見つかった。
指先よりも小さな、かわいらしいつぼみ。ひょっとしてもうすぐ、咲くのかもしれない。

それから毎日、私は教会へ通った。

試験前も試験期間中も、人気が少なくなるのを待ってそそくさと教会へ向かう。
秘密の恋人と逢瀬をしているような、悪いことをしているような気分だった。
それは多分、『ルカにも小波にも言うんじゃねえぞ』と言い放った琥一くんが忘れられないからだと思う。
きっと、あの花は三人、幼馴染の三人にとって何か大切なものなんだろう。幼馴染にはきっとわかるに違いない。
そう思うと、私はないがしろにされているような被害妄想を微かに抱いてしまった。
一体こうして教会に向かう道すがら、何度首を振ってネガティブな囁きを振り切ったことだろうか。
でも、咲いている花を見つけた日に、私はこう思った。
“どうして今まであの三人と一緒にいることを疑問に思わなかったのだろう”、と。
美奈ちゃんが気を遣ってくれたに違いないとか、琉夏くんは何も気にしていないのだろうとか、そういうことも考えた。

サクラソウ

濃い桃色の花弁で、凛としたたたずまいの花。
花言葉は、永続する愛情。

あたりが暗くなる帰り際に、商店街の書店で園芸の分厚い本を捲った。名前も知らない花を写真で見つけるのは大変だったけど、身近な人で花に詳しいのがアンネリーでバイトしてる琉夏くんと美奈ちゃんなのだから聞くに聞けない。
開花時期も特徴もぴったりあてはまるサクラソウの花言葉は、一体誰の、誰に対する思いを乗せているんだろうか。
情けないほどに、それが気がかりでしょうがなかった。

20101107