虹のワルツ

51.深海回遊中(琥一)

去年の文化祭の時期だっただろうか。
新体操部の、派手な一年たちが眉をひそめるようにして俺の横を通り過ぎて行ったことがあった。
大方、俺みたいなヤツが瑞野とつるんでるのがあいつらは気に入らないんだろう。
少し前までは勝手に言わせておけばいいと思っていた。実際、そうだった。たかが一年のやっかみみたいな誹謗中傷を、瑞野が聞いたところで説教はしても鵜呑みにするはずがないという、信頼のようなものもあった。
それは本当に正しかったのか?
二年最後の期末が散々な結果だったアイツの、負担になっていなかったなんて誰が断言できる?


1,2,3,と掛け声に合わせて長いリボンが揃って舞い上がる。
一見スムーズに運んでいるようでも、新体操部の連中……というかある一人にとっては納得のいかないものらしい。何度か「はい」と声を張り上げて、瑞野は部員を集めて指導をする。
体育館の、別のスペースでは他校の新体操部が似たようなことをやっている。合同練習というだけあって、お互いの演技を最後には披露しあうらしいが。
ルカと小波は並んで演技に夢中になっている。俺と違って何度も大会なんかを見に行っていたらしいが、そんな二人にとっても注目せざるをえないくらいすげえんだろう。多分。
桜色のリボンが、持ち手ごと宙に放り投げられた。てんでバラバラの方向に飛んでいったそれらを追うように、部員たちが飛び跳ねる。
もともとの持ち主を交換するように、リボンは一本も床に落ちることなくキャッチされた。すげえ、と純粋に思ったが、
「はい、集合」
瑞野には納得いかなかったらしい。タイミングのずれだとか、そういうものだろうか。
「実は厳しいよね、夏碕ちゃんね」
「うん……」
真剣な顔で練習光景を凝視している二人の言うとおりだと思った。
アイツは、自分にはもっと厳しい。

「あ、」
二週間後。新学期の初日、昇降口で瑞野に出くわした。
なんとなく気まずさのようなものを感じたのか、何度も鞄の持ち手を握りなおしながら瑞野は「おはよう」とだけ口にした。
クラス分けの表で、コイツと小波は同じ文系選抜クラスになっていることを知っている。俺とルカは言うまでもなく同じクラスに入れるはずもなかったが、それが最善だったのではないかと思っている。
もしもコイツが、選抜クラスから漏れていたら。
別に関係なかったのだとしても、俺は酷く嫌な気持ちになったに違いない。そして勘のいい瑞野もまた、嫌な気分になっただろう。
勘がいいだけじゃないから、余計にたちが悪い。
「おう」
この後、なんと言うべきだろうか。思えば俺と瑞野の間に共通の何かがあるわけでもない。同じクラスなら担任の大迫でもネタにして盛り上がり、はしなくとも、会話くらいはできただろう。
周りの生徒たちは、春休み中のことをあれこれ喋ったり、テレビドラマの話をして盛り上がっている。
他にどうすることもできず、並んで教室に向かって歩き出した。校舎の4階まで階段を上がって、そこで左右に分かれる。それまで間が持つ自信なんてこれっぽっちもなかった。
寝坊したルカを待てばよかったかもしれないと、情けないことまで考えていた。
「あっ、そういえば――」
「あ?」
「進路指導があるらしいね?今日」
正直、それを俺に言うかと思いはしたものの、確かにそれくらいしか話題がない。嘆かわしいことに。
こんな風に気を遣わせなければならないというのも、それ自体嘆かわしい。
「どうするか考えてる?」
「あ?説教かよ?」
まるで小波に言われているようで、反射的に口から飛び出したのは憎まれ口だった。
しまった、と思ったときにはもう遅い。なんだって俺は、こういうことしか言えないのかとうんざりする。
「ち――がうよ、まだ決めてないから参考にと思って」
萎縮しながらも少しだけ怒ったように瑞野が反論する。見上げた視線と見下ろした視線がかち合って、すぐにそらされた。
――何してんだか。
「……決めてねえのか?」
「う、ん。進学するつもりはあるんだけど」
「オマエなら、どこだって受かるんじゃねえか?」
それは本心からそう思っていたし、難しかったとしても瑞野ならできるんじゃないかとも思った。
その邪魔にはなりたくなかった。
「…………あっ、そうじゃなくてね、参考に」
「俺に聞いたところでどうしようもねえだろ」
言い終わるのと同時に、4階にたどり着いた。なげやりに「じゃあな」と言って、自分の教室へ向かう。
背中に物言いたげな視線が投げかけられているような気がした。気のせいだと、そう思い込むことにした。
そういえば合同練習のことでも言えばよかったのではないかと気がついたのはHRが始まったときで、次に会ったらそのときこそ何某かの感想を述べねばと、そう思った。可能かどうかは、この際問題じゃない。

「あれ、今帰り?」
進路指導も終わって下校する廊下の途中、小波と出くわした。聞けばこいつも進路指導が丁度終わったところらしい。
「琥一くんはどうするの?」
同じ日に三回も同じことを聞かれれば、俺じゃなくてもげんなりするだろう。
「いいだろ別に。オマエはどうすんだよ?」
「私?」
小波は迷いながら口を開いた。
「まだ大学は決めてないんだけど…………その、教育学部に行きたいの」
「教育……なんだよ、オマエ、ガッコの先生になんのか?」
それはちょっと面白いかもしれない。
「ほら笑う!だから言いたくなかったのに!」
ということは本当に教師になりたいということか。
「悪ぃ悪ぃ」
「反省してるんだか……」
じとりと睨む視線にまた噴出しそうになりながら、小波の頭をガシガシとかき混ぜた。
「いいんじゃねえか?オマエ世話焼きだから、大迫みてぇになるぜ、きっと」
「あー!もう!ぐちゃぐちゃにしないでよ!……でも、大迫先生みたいになれるなら、うれしいな」
髪を整えてから、本当に嬉しそうに笑った。
教師というのは、向いていると思う。本当に世話焼きだと思うし、俺らみたいな連中にもうんざりすることなく付き合っているし、勉強もできるようだし。
「ま、がんばれよ」
「うん!」
その場の流れで一緒に帰ろうということになって、荷物を取りにいくアイツに付き合って教室まで移動した。
瑞野の姿はなかった。小波が言うには、だいぶ早い順番で進路指導は終わっていたらしい。
「夏碕ちゃん?なんか迷ってるみたいだったよ?でも新体操もやってるし、一体大とかいけそうだよね?」
一流体育大学。
「……ああ、そうかもな」
進学と言っていたから部活のことをすっかり忘れていたが、確かにそういう選択肢もあるんだろう。ひょっとしたらアイツ、将来オリンピックに出たりするんだろうか。どれほどの実力者かは知らないが、なにがしかの大会に出ることはあるに違いない。そのときは、会場で見てやろう。

革靴に履き替えて外に出ると、穏やかな春の日差しが降り注いでいた。まだ午後になったばかりだ。部活に行く生徒たちとすれ違いながら、中庭を突っ切って校門へ向かった。まるで冬眠から覚めた生き物たちが活発に動き出したような、そんな中からやや大きな、聞き覚えのある声が聞こえた。
「……と、文学部はこんなカンジ?で、じゃあ次法学部ね」
確か一個下の、新名とか言ったか。軽そうなアイツの口から飛び出しそうもない言葉に思わず足を止めてしまう。何気ないフリをしてあたりを見回すと、花壇の脇のベンチに腰掛ける二人分の後姿を俺は認めた。
「え?法学部なんて、私別に弁護士とかそういうのは……」
話の相手は瑞野だった。
「夏碕さん、甘い甘い。法学部が全員司法試験受けるわけないでしょ?」
「……それもそうか」
「んーでも夏碕さんならなれっかも?あー、で、とりあえず法学部はさ、まあ言ってしまえばつぶしが利く学部。経済もだけど、法は――」
何故アイツらが二人でいるのかわからない。それは妬み嫉みを抜きにしても到底理解できそうになかった。同じように、小波も怪訝な顔をしている。
「ま、公務員試験とか受ける人もいるらしいし?教員免許とれば公民とかのセンセイにもなれるから、そういう意味でも法と経済はつぶし利くって言われてるんじゃない?」
「なるほど……そうか……うん」
「……あーあ、夏碕さんが経済に行ってくれたらなー」
「え?――なんで?」
「だってオレも今んとこ経済が第一志望だし?」
「そうなの?」
「そ。ちょっと考えてみる気になった?」
「うーん……でも、それは別問題だもの」
「ちぇ、バッサリか。せっかく情報提供したのにー……」
「ごめんごめん、感謝してます。新名くん、すごいよね。二年生なのにもう進路のこと考えてるんだから」
「オレって堅実っしょ?同じ学部でもガッコによっちゃ試験科目違ったり、傾斜配点になってたり、そういうのあるからね」
「すごい……私、選択科目選ぶときにそんなこと考えてなかったのに」

苛々していいものなのか、それとも落ち込むべきなのかがわからない。
「あ!」
けれどこれ以上聞いていることだけは出来なくて、中庭を迂回するように俺は踵を返した。
慌てたように小走りでついてくる小波が何度も呼びかける。
「琥一く……」
「オマエは、」
門を過ぎたあたりで立ち止まって、振り返った。
「オマエが気にすることじゃ――……なんつー顔してんだよ」
なんでコイツが泣きそうなんだ。
ぼりぼりと首の後ろをかきながら、どうしたものかと逡巡する。
「だって……」
スカートの裾が皺になるほど握り締められているのを見て、ふっと口元が緩んでしまった。
小さい頃、遊んでいた教会からの帰り道。ときどき俺が意地の悪いことを言うと、コイツはこうやって拗ねていた。なだめるのはいつもルカの役目で……ああ、そうだ。なだめていたルカがいつのまにか俺に食ってかかって、そしてコイツはお決まりの文句を言うんだ。
『ケンカしちゃだめ!』
教師になるとか立派なこと言ってるわりには、泣き出しそうな顔があの頃のままだ。まだ、コイツも俺もガキだ。
それは何故か無性に俺を安心させた。
「ほら、帰るぞ」
ああ、きっと置いていかれるんじゃないかと思っていたんだろう。目に見える形で迫ってきた孵化の前触れから逃げているわけじゃないが、向き合っているわけでもない、そんな自分にもどかしさを感じている。それは事実だ。
だから、どうにかしなければならない。

20101118