虹のワルツ

53.交差点は過ぎ去って(琉夏)

「――予備校?」
ガツンと殴られたような、というと大げさかもしれないけど、そんな感覚だった。
『うん……ていうか、模試を受けに行くだけなんだけど……』
「……そっか」
『……ゴメンね』
「いいよ。そいじゃ」

五月の連休中に4人で遊びに行こうと思って、美奈子に電話をしたら断られた。
遊びの誘いを断られたのは初めてだった。けど、俺がショックを受けた理由はそれだけ、じゃない。
「コウ、美奈子来れないって」
「あ?……なんでだよ?」
バイトに行くために自室から降りてきたコウは、ヘルメットを片手に怪訝な顔をした。
「なんか……模試受けるんだって」
「……ああ、そうか」
俺よりは納得しているような口ぶりだった。なんとなくの予感がして引き止めるようとすると、コウはスニーカーの踵に指をつっこみながら軽い口調で続けた。
「アイツも推薦貰ってさっさと進路決まりゃ、また遊べんだろ」
多分コウは、柄にもなくフォローしたつもりだったんだろう。
「え?」
「言ってたじゃねえか、指定校推薦の枠に入りてぇからがんばるだの――」
ああ、コウは俺よりも色々なことを知っているんだろう。周りの温度が下がったような気配をようやく感じたのか、コウも『しまった』みたいな顔をして言葉を止めた。
俺だって知ってるって、そう思いこんでたに違いない。けど、俺はアイツから何も聞かされてなかった。
「知らなかった」
へらっと笑ってなんとかそれだけ口にすると、最高に気まずそうな顔をしたコウはそそくさとドアを開けて出て行った。
なんで、俺じゃないんだろう。なんで俺には教えてくれなかったんだろう。
いつも気にならないSRのエンジン音がやたらうるさく感じられた。

コウがSRで走り去ってしばらくすると、West Beachの一階は波の音だけが聞こえるようになる。
何度も何度も飽きることなく繰り返される規則正しい音だけを聞いていると、気が狂いそうだった。
感情を流し去ってしまうようにため息を一つ吐き、開いたままのケータイを操作する。
呼び出しのコールが何度か続いて、涼やかな声の主は電話口に出た。
『はい?』
「もしもし?俺」
『うん、どうしたの?』
きっと夏碕ちゃんは電話口の向こうで、お母さんが子供にするように笑っているんだろう。ささくれていた気持ちが少し穏やかになった気がした。
「デートのお誘い。今度の日曜、暇?」
『今度の日曜……えっと1日?』
「そう。みんなで水族館に行きたいから」
『あー……部の合宿なの、ごめんね』
「合宿……ずっと?」
『うん。2日も学校休みで、ちょっとした遠征みたいなものかな……』
「そっか……」
それきり、俺は黙り込んでしまった。
『……琉夏くん、何か、あったの?』
「――え?」
ドキッとした。
「なんで?」
『うーん、なんとなく、かな。女のカン?』
というよりお母さんのカンみたいな気がする。今は手が空いてるから話を聞くよと言ってくれた夏碕ちゃんに、甘えてしまうことにした。
「美奈子も誘ったけど予備校の模試で断られて、それでへこんでた。そんだけ」
『そうなんだ。模試……美奈ちゃんがんばってるもんね』
「夏碕ちゃんも知ってるの?」
『……と、言うと?』
夏碕ちゃんは慎重に言葉を選んでいるようだった。うっかり喋ってしまったコウとは大違いだ。
コウとのやり取り、というかコウが言ったことを伝えると、やっぱり夏碕ちゃんも美奈子の希望進路を知っていた。蚊帳の外に追いやられたような疎外感はあるけれど、知っているってちゃんと本当のことを言ってくれて嬉しかった。嘘を言われても、もっと傷つくだけだったから。
「なーんだ、俺だけ仲間はずれか」
『そんなことないでしょ。美奈ちゃん、だって……なんて言うのかな……』
俺なんかのために眉を下げて困っているだろう夏碕ちゃんの姿を想像して、情けなくなった。
「いいんだ。アイツだって俺よりコウのほうが頼りになるって、思ってるだろうし」
『…………そ、んな』
言ってしまってから、後悔した。さっきのコウと同じだ。言わなくていいことを不用意に言って、相手を傷つける。
夏碕ちゃんは優しいから、俺とコウを、例えどちらかがその場にいなくても比べたりするはずがなかった。そういう風にして慰めてもらおうなんて思った自分が恥ずかしかった。ヒーロー失格だ。
けれど優しさに甘えてしまっていると思っていた俺にも、そうやって誰かを思いやる気持ちがあって、それだけはちょっと嬉しかった。
「――ゴメン。ちょっと弱気モードになってる」
『…………ううん、何も出来なくてごめんね』
「そんなことない。俺、夏碕ちゃんと話せなかったらベッドの中で泣いてた」
『えっ』
本気で驚いてる。俺は思わず噴出してしまって、つられて夏碕ちゃんも笑った。どうかこのまま、騙されてくれますように。卑怯な祈りを胸のうちで繰り返して、話を切り上げることにした。
「突然ゴメンね、合宿がんばってね」
『うん。また今度誘ってね』

電話が終わったら、また暗い影が忍び寄ってくるようだった。
『アイツだって俺よりコウのほうが頼りになるって、思ってるだろうし』
自分が言ったことを思い出して、そして小さい頃のことを思い出した。
まだ俺たちの背丈の差が今よりずっと小さかった頃、あの頃からコウは俺と美奈子が並んでる前を保護者みたいな顔して歩いてた。


そう、風が強い日だった。
新しい自転車を買ってもらった俺とコウは、ちょっとした冒険みたいなものに出た。冒険なんて言ったって、たかだか小学生の俺らに出来ることなんてしれている。ただ、いつもより遠くに遊びに行っただけだった。
コウは土地勘というか方向感覚が俺よりもずっとあったから、黒い自転車を立ちこぎするコウを、俺は必死で追いかけた。追い風を受けて猛スピードで、向かい風にも負けないくらい力強くペダルを踏み込んで。
見たこともない住宅街の路地裏に入っても、迷子になるだなんてちっとも思わなかった。そのくらい、頼りにしてたんだ。
しばらく風を切って自転車をこいだ。天気がよくて、母さんの『帽子をかぶっていきなさい』って言いつけを無視して出てきたせいでちょっと頭のてっぺんが熱くなったくらいだった。
それがどのあたりの場所だったか詳しくは思い出せないけど、曲がり角を曲がったコウが突然ブレーキをかけた。
『どうしたの?コウ』
『……あれ』
コウが指差した方に、白いスカートの女の子がいた。見たこともない、知らない子だった。
『コウのともだち?』
『しらねー』
立ち止まっている彼女が何をしているんだろうと俺が目を凝らすと、彼女は自分の頭よりずっと上方にある木の枝に手を伸ばしていた。
正しくは、それにひっかかった自分の帽子に、だけど。
どこかの家の背の高い木の枝に、桃色のリボンがついた帽子がひっかかっていた。
大方風に飛ばされちゃったんだろう。わざわざ立ち止まったってことは、コウは手伝ってあげるのかな。黙り込んでいる兄貴に声をかけようとすると、コウはさっと自転車から降りて彼女に近づいていった。
『あれ、オマエのなのか?』
『え……!?』
目つきの悪いガキ大将に声をかけられて、ただでさえ半泣きだった彼女は更に顔をこわばらせた。それも仕方ないってものだろう。
『まってろ。とってやるから』
『――あ!』
コウはきょろきょろとあたりを見回して、役に立ちそうなものが何もないことを確認すると木と道路を隔てていたブロック塀に足をかけて登りだした。
丁度子供の頭の高さくらいにある、透かし模様みたいなところに足と手を注意深くひっかけて。
そういうのはコウ、得意だったから、俺は女の子の隣に走り寄っても見守るだけで特に何も言わなかった。
それが逆に彼女にとって不安だったのか、俺とコウを交互に見てから、どうしようもない顔で叫んだんだった。
『あ、あぶないよ!』
オロオロしている彼女があまりにも頼りなげだった。
『だいじょうぶだよ。コウはなんだってできるんだ』
そのときの俺だって、本当はちょっと不安な顔をしてたのかもしれない。
それでもコウを信じてることに変わりはなかった。
彼女は目を擦ると、何か納得したように俺のシャツの裾を掴んで、じりじりと目標に近づいていくコウを見守っていた。
さすがに木登りとは要領が違うのだろう。一番上の、横方向に出っ張った部分をなんとか乗り越えるコウは苦戦しているようだった。
ようやくブロック塀の上に立って、精一杯手を伸ばしたコウが帽子を指先で弾いた。
『ルカ!キャッチしろ!』
『わかった!』
ふわりと舞う帽子が汚れないように、俺は両手を伸ばす。隣の彼女が『きゃっ!』と声を上げたような気がした……と思ったときには、すでに帽子は俺の手の中、コウは地面に不時着した後だった。
兄貴の名誉のために付け加えるなら、それは落下ではなく着陸だったらしい。
俺たちにとって大したことのない高さでも、大人しそうな彼女にとっては心臓が飛び出るくらい、びっくりすることだったんだろう。
『はい、帽子』
『あ……ありがと……』
受け取った帽子を被らずに抱きしめるように持っている彼女が、やっと笑った。
大仕事でもしたかのように地面に座り込んでいるコウに、わざわざ屈みこんで、『ありがとう』と笑いかけている。その小さな背中越しに、コウの照れたようなぶっきらぼうな顔が見えて、おかしくて笑ってしまった。こんな顔、するんだと思って。
それは俺が、はばたき市に来て初めて笑ったときだったのかもしれない。コウはびっくりした顔をして、そのあと安心したようにニッと笑った。
『わたし、みなこっていうの!――』


最初からそうだった、コウは俺たちの兄貴だった。
コウは俺と美奈子のこと、手のかかる弟と妹みたいに思ってる。
美奈子はコウのこと、兄貴みたいに頼ってる。
そう信じているのは俺だけだろうか。今までそう思ってきたけど、本当にそうだろうか。それとも俺の知らないところで、何かが変わってしまったんだろうか。
「…………馬鹿馬鹿しい」
こんなに薄ら暗い気持ちに、我ながらゾッとする。これが、嫉妬ってやつなんだろうか。

20101208