虹のワルツ

54.ふたりぼっちが行き過ぎる(美奈子)

『これからオマエのこと、美奈子って呼んでいい?』

陽だまりの中、春休みに二人で行ったお花見のことを思い出していた。儚い、という字は、人の夢。本当に夢は夢のまま、琉夏くんはそこからすぐにでも消え去ってしまいそうなくらいに綺麗で、非現実的で、手を伸ばしても届かないような気がした。
届かないって思っているのに、それでも手を伸ばしてきてくれたのは琉夏くんのほうだった。
ずるい、と思った。
私には踏み込ませる余地なんてちっとも見せないのに、琉夏くんはしたたかに距離を詰めてきて。時々それから逃れることも出来なくなって、からめとられて深いところへ落ちていくんじゃないかと、最近はそういう夢ばかりを見るようになってしまった。

「コラァ!」
「ひえっ!?」
ためいきを一つ吐き出したのと同じタイミングで、大迫先生に教科書で叩かれてしまった。どっと沸く教室の景色が私になじんでくると、先生が腕を組んで私の右斜め前に仁王立ちしているのが視界に入る。
そういえば、4限の最中だった。
「いくら春だからっていつまでもぼんやりするな!」
呆れたように顔をしかめている大迫先生の言うとおりで、本当にここのところの私はぼんやりしっぱなしだと思う。
「……す、すみません」
「小波は授業終了後、全員分のノートを集めて持ってこーい」
「えっ…………わ、わかりました」
「よーし、じゃあ続けるぞー……」
教壇のほうへ戻っていく大迫先生の背中を見送りながら、最近おなじみのためいきをひとつ。
不二山くんの早弁事件とか、新名くんからのメール事件とか、なんでこういうの、多いのかなあ……。
全部自業自得だから、しょうがないんだけど。

昼休みに入るとすぐにノートを集めて職員室まで運び、氷室先生に怒られないように早足で教室に舞い戻って、それからお弁当を引っつかんで、さっきよりも早足で校舎の端のミヨのクラスまで向かう。今日は約束をしていたのにこんなことになってしまって、本当に自分の馬鹿さ加減に情けなくなった。
窓際の席で髪をいじっているミヨは、私に気がつくと机の上に詰んでいた本(私が貸していた、初恋シリーズ)を整えながらちょっと笑った。その横のお弁当箱はまだクロスに包まれたままで、遅れてしまった私を待っていてくれたんだと思うと本当に申し訳なくて、顔の前で両手をあわせた。
「ミヨ、遅れてごめんね!」
「ううん、大丈夫。バンビ、何かあった?」
「それがねぇ……」
お弁当を広げながら授業中の顛末を語ってみせると、時折ふんふんと頷きながら聞いていたミヨの顔はちょっと困ったような色を帯び始めた。料理上手のミヨのお母さん自慢のお弁当を見るのも今日の楽しみだったのに、ミヨの手は蓋にかけられたまま止まっている。
「……どうしたの?」
私のお弁当箱からは、しょうが焼きの香ばしい香りが漂ってくる。ミヨはちらと私を見ると、無言でお弁当箱の蓋を開けた。最初に目に入ったのは、肉じゃがの中の鮮やかな緑のきぬさやだった。
「バンビ、どうして授業中にぼうっとしてたの?」
「え?……どうしてって、」
ミヨの大きな目が、少しだけ細められた。
「ちょ、ちょっと考え事……かな」
「なんとなく理由、わかるけど」
これも星の導き、なのかな。本当にわかってるならわざわざ聞かなくてもいいのに……とは思いつつも、ミヨが一石を投じてくれたおかげで誰にも話せないもやもやを話してみようという気にはなった。
「なんていうのかな…………その、このままずるずるしちゃっていいのかなって思うの、最近。
琉夏くんが何か隠してるっていうか、抱えてるっていうか、それはなんとなく、わかるんだけどね?でも、それって私が聞いていいことなのかなって悩んじゃうし、そういうこと聞いたら……」
嫌われたりしないかな。無遠慮だって、不躾だって、思われないかな。
飲み込んだ言葉もミヨには通じたみたいで、お箸を持った小さな手を止めたまま、ミヨは頭を振った。
「もしもね…………バンビ」
もやもやしている私と同じように、ミヨもいいあぐねているような感じがした。
ミヨだって(彼女の言う星の導きを信じるなら、)そんなに何もかもを知っているわけじゃなくて、おおまかな形ぐらいしかわかんないに違いない。
「バンビが全部、受け止められるなら、聞いてあげるべき」
「受け止める……」
それは、言葉で言うよりもずっと重くて難しくて、大変なことなんだろう。そんなこと、私にできるんだろうか。
「受け止めて、支えてくれる、そんな人になら、話そうって思う。誰だって」
ミヨのその言葉を聞いて、失礼ながらちょっとびっくりした。
今の言葉は多分、きっと星の導き云々は関係ない、ミヨ自身の言葉だから。
はっとしたような顔をしていたんだろう。ミヨは私の目をじっと、真剣に見つめ返してきた。
「でも、もしもバンビが今のはっきりしない状況を変えたいからって、それだけの理由で聞くのなら、止めた方がいいと思う。
きっとそれは、バンビの問題だけが解決する方法だから、彼の問題は変わらず、宙に浮いたままだから」
「…………そうだね」
私だけがすっきりしたいから根掘り葉掘り聞くなんて、それは本当に利己的なことだ。

でも琉夏くんが私ににじり寄って来ているのが、時々彼のワガママなんじゃないかと思うこともある。
どうして、自分から離してくれないんだろう。
そういうことを思うのは、悪いことだろうか。私は受け入れて支えることが、仮に出来たとしても、それだけなんだろうか。
琉夏くんが、私じゃなきゃいけない理由を見つけられないのなら、私だって、私が琉夏くんを支える理由を見つけられない。
もしも彼が、私が無償の愛とやらを与えられるような人間だと思い込んでいるのなら、それは本当に思いあがりだ。
私は自分を捨ててまで、不透明な相手に尽くすことなんてできない。そんなに、出来た人間なんかじゃない。

だけど、私が琉夏くんを支えようと思うことも、ひょっとしなくても思い上がりなんだろう。
脆いようで儚いようで、彼は本当はずっと強い人なのかもしれなくて、そして私はやっぱり、彼のことを知らないのだと痛感した。

ミヨはゆっくりと瞬きを二つすると、黙り込んでいた私に向かって口を開いた。
「時間を必要としてるのはね、バンビ、二人ともそう。でも焦るのも時間をかけすぎるのもダメ。タイミングも重要。星の囁きに耳を傾けるの」
最後に出てきたのがいつものミヨらしい言い回しで、私の口元は少し緩んでしまった。
でも口元だけじゃなくて、ちょっと張り詰めていた気持ちもリラックスできたような気がする。
「そうだよね…………うん……」
「……どうしたの、バンビ。急にニヤニヤしてる」
「ニヤニヤじゃないよ、ニコニコって言ってよ!」
「どっちも一緒」
そういうミヨもさっきまでの真剣な顔から、いつものいたずらっぽい笑顔に変わっている。
「ね、今日一緒に帰ろう?初恋シリーズの最新刊、そろそろ入ってるはずだよ」
「うん、わかった。……バンビがケーキ、おごってくれるなら」
えっ、と口から零れそうなのをこらえて、相談に乗ってもらったのはまあ確かだし、と腹を括ると、やっぱりミヨは笑った。
「冗談だよ?」
「うん……そろそろ見分けがつくようになってきた」
悪意のないわがままにつきあって、けっこうな時間が経つし。
「ふーん……じゃあ、次から全部本気で言おうかな」
「えっ……」
いや、これもウソだろうと思ってしばらく見詰め合っても、ミヨは表情一つ変えずにじっと私の目を見ていて、笑っても困った顔をしても何も言ってくれない。
「ウソ。バンビ、やっぱり楽しい」
私も、ミヨのほうが何枚も上手な気がする。だいぶ前からそう思ってたけど。
人の数だけ想いがある。そのすべてを知ろうとすることはとてもできなくて、たった一人のことだってとても難しい。
でも少しずつでも、時が進むのと同じくして、前進できたらいいのかもしれない。

20110210