虹のワルツ

56.揺れる横顔(佐伯 瑛)

(GS2のデイジーが海野あかりさんで出てきます)

「すみません、巻き込んじゃってしまって」
いつもより随分少ない洗い物を終え、コーヒーを入れながらそう言うと彼女は苦笑した。
「いえ……」
長い黒髪を額の中央でわけて、片方だけ耳にかけている。白い耳たぶにも首元にもアクセサリーはなく、手首のブレスレットだけが時折揺れてしゃらしゃらと音を奏でる。
控えめというよりも落ち着いた雰囲気が好ましく、それゆえに俺は彼女を、いわば“指名”してしまったのだ。

はばたきウォッチャーの取材が来るということは聞いていたけれど、客を含めた写真を撮るだの口コミと称したインタビューをするだのは聞かされていなかった。こういうときに限って店長は逃げるように姿を消してしまうし、いくらそういうものが苦手だからと言って俺に押し付けるのもカンベンして欲しかった。
『まぁた。瑛くんは囲まれるの慣れてるでしょ?』なんてことを抜かす“あかり”にチョップをしつつ、この発言には幾ばくかの皮肉が込められているのだろうかと考えたりもしたがあいつにそんな芸当ができるわけもなかった。解決。
雑誌記者が俺に向かってヘラヘラ笑いながら、『チーフさんかっこいいから、お客さんと同じ写真に入って一枚欲しいんですけど』なんて言い出したときには天を仰ぎたかった。そりゃあかっこいいと言われて悪い気はしないけれど、腕に自信があると自負しているバリスタをつかまえてその言い草はないだろう。ついでにチーフなんて安っぽい呼び方もむかついた。
高校時代の黒歴史の中、唯一俺が会得したことに感謝している“上っ面だけの笑顔でやんわりと断るスキル”を発動するものの、近くのテーブル席から話が広まってしまったのか店内の女性客がちらちらと期待に満ちた視線を送ってくる。
本当にカンベンしてくれ。
『それはちょっと……』
『じゃあお客さんはチーフが選んでいいから』
いやそういう問題じゃないから。
なおさら浮ついた雰囲気の店の中で、俺もあかりも苦笑していた。こんなへらっへらした女たちと同じ写真なんて、俺のプライドが許さないというのもあるし店の格が落ちる。
かといって打開策は見つからず降参しかけたときに、彼女が入ってきたのだった。

本当に申し訳ないとは思う。けど、あんなどうでもよさそうな女たちよりもこの人のほうがずっと、店のことをわかっていそうだとは思っていたんだ、ずっと。
なんやかやで撮影を終え、店長が帰ってしまったのにあわせて店を閉めて。ただ彼女にはお礼がしたかったので残ってもらい、今に至る。
急いでいるわけではないと言って快諾してくれた彼女は、軽く会釈するように首を傾けた。
「いつか、デザートをサービスしていただいたこともありますから……」
「そうなの?」
キャニスターからティラミスをプレートによそっていたあかりがびっくりしたような顔をする。
「ああ……。バレンタインのときに」
「ふーん?」
「あ、いやほら……」
彼女の前で『あれは残り物だったから』なんて言うのは気が引けたのでこっそり弁明すると、『瑛くんもたまには気が利くね』とのたまう。何様だ。
「……またチョップする。お客様の前でしょ」
「あっ……すみません、お見苦しいところを」
「いいえ」
控えめに笑う彼女にあかりがティラミスを差し出す。
「もうすぐそこのバリスタがコーヒーを淹れますから」
「すみません、こんなにしていただいて」
……何歳ぐらいだろう。同い年、いや随分落ち着いてるんだから年上?
「今日はお休みですか?」
あかりがカトラリーを整頓しながらそんなことを聞いている。俺は、彼女がモデルか何かでも不思議はないかなと、そういうことを考えながら棚の上にコーヒーミルを片付けていた。
「はい。学校は休みですけど、予備校で模試が、」
「えっ」
「うそっ!?」
俺はコーヒーミルを、あかりはキャニスターを取り落としそうになった。
「……高校生?」
「……あ、はい……」
ちょっとふてくされたような顔をするあたりに信憑性はあるものの、彼女が高校生だなんてちょっと、俄かには信じられない。我ながらなんたる失礼だろうかとは思うが。
「……大人っぽーい!」
あかりは何故か感激しているようだった。
「そりゃお前に比べれば誰だって大人っぽいだろ」
「ひどっ!ねえねえ、どこの学校?羽学?」
「お前、年下でもお客様はお客様だろうが」
あー、こういうのいつかあった。雨が酷い日で、あいつだ。赤城が珊瑚礁に、雨宿りに来たときだ。
あのときは叱られたのは俺のほうだったな。変なこと思い出しちまった。
苦虫を噛み潰したような顔をしているだろう俺と、妙にウキウキしているあかりにむかって彼女は顔の前で手を振った。
「あ、いいんです!」
なれなれしいのか懐っこいのかわからないが、確かにあかりは友達が多かったし多いし、こういう性格のおかげなんだろうというのも知っている。ありのままの自分を曝け出して、それで好かれているというのがうらやましかったこともあった。
「はば学!すごい、才色兼備だ」
確かにすごい。っていうかはば学か、赤城のように嫌味ったらしいヤツばっかりでもないんだな。
「お前とは天と地の差だな」
「瑛くんもね」
チョップ。
「痛いってば!さっさとコーヒー淹れなよ!」
「お前もちょっと黙らないと食べれないだろ、その……」
「瑞野、夏碕です」
「あ、ごめんね?夏碕ちゃんって呼んでいい?」
「あ、ハイ」
「わたしは海野あかり。あかりでいいよ。こっちがてr」
「佐伯です」
一向に黙りそうにないあかりをカウンターの中にひっこめさせ、入れ替わりに淹れ立てのコーヒーを差し出した。
「どうぞ――普段は出さないけど、たまには。ほらお前の分」
あかりに渡したカップからも芳ばしい香りが湯気とともに立ち込めて、視界がうすぼんやりと透けて見える。
「わ、ありがと」
「いただきます」
三人、ほとんど同時にカップに口をつけると一瞬だけ沈黙が訪れる。夏の夕日がブラインドの隙間から差し込んで、色あせた絵画のような空間を微かに照らした。
あかりはコーヒーの正体がわかったらしく、口元をゆるめている。俺はそんなあかりの顔を見て、和むというか癒されるというか、まぁそんな感じのちょっと恥ずかしくなるような感想を抱いたのだった。
「なんだか……懐かしい味がします」
酸味が苦手な人はあまり、珊瑚礁ブレンドを「おいしい」とは言わない。実は秘かに、おいしいかおいしくないかの感想を待っていた俺にとっても、不思議そうな彼女の感想が不可解だった。
「懐かしい?……ひょっとして、夏碕ちゃんは珊瑚礁に来たことがあるの?」
そこまで赤城と共通点ある、わけあるんだろうか。
「珊瑚礁……ですか?」
「えっと……長期休業中の、喫茶店の名前」
閉店させたつもりは毛頭なかったから、俺はそういう言い方をした。彼女は首を傾げて考え込むようにゆっくり瞬きをしている。
「……わかりません。でも、なんだかほっとするような懐かしいような」
俺は嬉しかった。そういう風に言ってくれる彼女をインタビューの相手に指名してよかったと思う。やっぱり俺の、人を見る目はあったということだし。
あかりはニコニコしながら俺と彼女を見比べていて、まぁ何が言いたいのかはわかるけど絶対にニヤケ面なんか見せないからな。
意地を張っているような顔をしていると、あかりは自分の分のティラミスを乗せた皿を持ってカウンター席に、彼女の隣に移動した。
「よかったらもうちょっとゆっくりしていってね?」
「え?」
何やってんだっていう俺と、何を言っているんだという顔の彼女に、あかりはまた笑いかけた。
「受験勉強で大変だろうけど、たまには息抜きしないとね?」

たまにこうしてズバッと人の核心突くようなことを言い出すんだから、“羽学のカピバラ”は時々恐ろしい。
それは俺にも気がつかないこと、というか、本人にも気がつかないことなんだから余計に驚かされる。
ただ、あいつの言うことは相手が求めている言葉だったり、なんていうか、隠された本心みたいなものだから、一気に張り詰めてた気が抜けたり安心したりするんだろう。

ほとんどなりゆきで彼女の悩み相談を引き受けてしまって(と、言っても聞いてたのはほとんどあかりだけど)、きっとコイツには見えるものがあるんだろうなと思っていた。俺は気がつかなかったけど、彼女がここに来たときからあかりは気がついていたに違いない。
この子が何かガマンしてるってことに。
頼りない顔を見てしまうと、ああ、本当に年下の、まだまだ高校生でしかないのかと思い知った。
悔しいことに人のそういう面を見抜くのはあかりには及ばないけど、それでも俺にだって、この子が普段悩みなんて周りに言えないタイプなんだってことはわかった。むしろ相談されるタイプなんだろうな。
俺たちが相談に乗ってもいいんだろうけど、もっと親しい人間が、そうしてやればいいのに。

20110320