虹のワルツ

58. 踏みにじった爪跡(琥一)

蒸し暑い日だった。
夏休みに入ったこともあって忙しいのは週末だけじゃないが、それでも平日に比べれば土日の方が客が多い。
額の汗を手の甲でぬぐいながら、首にタオルをかけておくくらい大目に見ろよと、事務所の中で涼んでいる店長に悪態をついた。
休憩までもう5分ほど。
その後また4時間働いて、帰るのは9時回ってから。
ルカのヤツがメシの準備をしてるとは到底思えねえから、帰り際にどっかに寄ろうと考えつつ、首筋の汗に顔をしかめそうになった。

「よう、やってるね」
冷房の効いた事務所には俺だけだと思って、幾分気をよくしながら椅子に腰掛けたとき、新たに人が入ってきた。
それが誰なのかわかり、思わず「ゲッ」と口に出しそうなのを咄嗟にこらえて頭を軽く下げる。
苦手な人間というのは誰にでもいる。
俺はおそらく、比較的多数から苦手だと思われる側の人間だろうという自覚はあるが、そんな俺にだって苦手な人間ぐらいいる。
さも気が利くかのようにアイスクリームと炭酸のペットボトルを差し入れとして引っ提げてやって来たのは、去年ここのバイトを辞めた藤堂……さん、だった。
「……うす」
「相変わらず愛想がないねえアンタは」
なんで俺の休憩時間にピンポイントでやってくるのか。
まるで女とは思えないような気風のよさに、調子のいい連中は『姐御』だの『兄貴』だの半ばふざけて懐いていたが俺には到底真似できなかった。
女みたいな男も男みたいな女も、何考えてそうしてんのかわけがわからねえ。理解不能なものに恐怖を感じるのが人間、なんて文章をどこかで目にしたような気がするが、あながち間違いじゃないんだろうと思った。
何の用で来たのかとも聞けず、備え付けの冷蔵庫の中に差し入れを押し込んでいるのを見ていた。両手の爪が淡い水色をしているのを見て、ますますこの人のことがわからなくなっていた。
「アンタに頼みがあって、来たんだよ」
自分が座るために椅子を引きながら、俺の意図を汲んだようなことを言う。こういうところも苦手な理由だった。
「ハァ」
要領を得ない相槌を返した俺を、まるで弟子か子分でも見るように笑う。
「アタシの知り合いなんだけどね……」
花火大会でテキ屋のバイトをしないかという頼み、というか、ほとんど命令みたいなものだった。その知り合いとやらにはすでに二つ返事でOKしているというのだから信じられない。
「アンタ、弟いるって言ってたろ?丁度二人分空いててね、向こうさんも困ってんだよ。手当ても弾むって、悪い話じゃあないと思うけどね?」
「いや、急に言われても……」
頭の中で予定という名の願望を組み立てていると、ニヤついた顔を向けられた。
「なんだい、いい女でもいるのかい?」
一気に現実に引き戻されたような気がした。
アイツを誘う根性もなければ、アイツに誘われる自信もなかった。ルカと小波のどっちか、あるいは両方が言い出すだろうと漠然と考えていて、俺は単なる可能性を、約束された未来だとずっと思い込んでいた。そのことに漸く気づいて、指先が凍りついたような感覚を覚えた。
“今まで”は、“これからも”とは限らないのだ。
黙り込んで変な気を遣わせるのがイヤで、無理矢理「弟にも聞いてみるんで、それから連絡していいスか」と喉の奥から搾り出した。
きっと俺の願望はもう叶わない。
臨時収入が増えることは喜ぶべきことなんだと、言い聞かせる方に傾いていた。


家に帰ると、出掛けていたはずのルカの姿はなかった。一緒にいたのは小波だろうが、さすがに10時を回っても帰ってこないことは今までになく、俺は心配するべきか憤慨するべきかわからないまま、スーパーで買ってきたものを冷蔵庫の中につっこんだ。
馬鹿なこと(と言っていいのか、)はしないだろうという確信は、残念だがなかった。
最近のアイツはおかしい。何を考えているのかわからない。
今にとんでもないことをしでかしそうな目を、時々している。
何があったのだろうかと考えそうになって、お互いのことがさっぱりわからなくなってんのは俺たち四人、全員だと思いなおした。
ルカは無口になった。小波が花屋のバイトを、受験のためにやめるという話すら、何の感慨もないように一言言い捨てただけだった。
その小波も夏休みに入ってからは顔も合わせていない。受験で忙しい、それだけが理由であってほしいと柄にも無く願う。
瑞野は……
誘えなかった体育祭のことを思い出して、舌打ちをしてしまう。
いつか以来、話すことさえ稀になってしまった俺と瑞野だ。にも関わらず、あの時誘おうと一大決心したのに捕まえられなくて、まるで昔やらかした恥ずかしい失敗談を思い出したときのように顔が熱くなった。
悲しいとか寂しいとかよりも、情けなかった。
こんなことになった原因、アイツを悩ませているのは自分のせいだと詫びることも出来ず、それを打開できるような男になろうと思ってもそれすらできない。
その一方でアイツが悩んでいる原因の一端が自分であるということが、ある意味嬉しかった。そして、そう思ってしまう自分を恥じた。

何故だろうか。
誰も望んでいない方向に事が向かってしまうのは、それを修正できないのは、何故だろうか。


先に食事を済ませて自室に引っ込んで一時間ほどすると、外で水の音がした。レコードプレイヤーの音量を、俺は反射的に下げてしまう。
バシャバシャと頭からバケツの水を被るような音に、眉をしかめた。
(アイツ……)
中学の頃。
ケンカをふっかけられて体中傷だらけになって、俺たちはそんなときいつも、家の外や公園の水道で顔を洗ってから家に入った。余計な心配をかけまいとしたのか、それとも叱られるのが嫌だったからか、両方か。もう、ぼんやりとも覚えていない。
そんなしみったれた証拠隠滅の作業はきっと両親にも筒抜けだったに違いない。
今になってそのことを思い出せば、また自分の情けなさを恥ずかしく思った。ルカも同じように感じているだろうか。

入り口のドアが軋んだ音を立てて開かれる。ルカは無言だった。
腹が減っていないのだろうか。なんだかんだで俺はこの弟のことを心配しているのだ。そしてそれが負担になっていやしないかと、この頃はよく考え込むようになった。
いつもなら「コウ、ご飯ある?」だの聞いてくるはずなのに、やや荒々しくドアを閉めるのと大股で歩き回るような音しか聞こえない。
冷蔵庫のドアを開ける音、何を取り出すでもなくまた閉める音、俺が点けたままにしておいた階下の電気を消して階段を上る足音。
何かあったのだろうことはわかる。が、
「ルカ」
ああ、俺は疲れているんだ。疲れているから、コイツのしてきたことを聞きだす気になれないんだ。
傷つけたり傷つくことが、怖いのではない。
「何」
いつもよりもかなり低い、無感情な声だった。
「花火大会の日によ、テキ屋のバイトに入れって知り合いから頼まれてな。二人分空いてるらしいからお前の分も合わせて返事して、よかったか?」
何か言われることも億劫なようで恐ろしいようで、一気に吐き出した。肺の中の空気までなくなったようで、息苦しかった。
まくし立てたのはそれだけが理由じゃない。やっぱり花火大会に遊びに行くことができないということを、ルカの態度からほぼ確信したからだ。ならば予定が空いているかどうか聞くことすら、野暮ってモンだろう。
ルカの不機嫌と、もうやめたはずのケンカの理由が何なのかは、俺には到底わからねえ。
わからねえが、もしも俺と同じ望みが、コイツが望んだとおりの事が実現する運びならば、コイツはこんな風に殺伐とした空気を出さないだろう。
「いいよ」
短い返事の後、ルカがベッドに突っ伏したような、軋んだ耳障りな音がした。
何も言えなかった。
俺はこの弟が考えていることが時々わからない。
そうして不意に、とんでもない恐怖すら感じる。その理由すらわからぬままに。



当日、ラムネを売っているルカの顔をまともに見ることができなかった。
少し前までなら、コイツがおかしいときは殴ってでも聞き出したのに。けれど今は、その役目は俺じゃないんだろうと思っている。今までずっと考えたくもなかったこと、ひょっとしなくても勘付いていながら認めようとしなかったこと。俺自身の、醜い自尊心を守るために。
いいや、ひょっとしたらずっと昔から、ルカがすべてを曝け出せる相手は俺じゃなかったのかもしれない。
俺は、本当は疎まれているのかもしれない、必要ではないのかもしれない。
俺が気づいていないだけで、アイツは――いや、アイツらは前に進んでいるのかもしれない。
もしそうだとしたら、俺はどうしたらいいのだろう。
しかし薄情なことに俺の頭からはルカのことは抜け落ち、アイツのことを思い出していた。
もしもアイツが、瑞野が、悩んでいるときに力になってやれるのが俺じゃなかったら、俺は、どうなる。
頭上で花火が炸裂する音だけを聞きながら、炭火の上の金串を握り締めた。十分に熱せられ、軍手越しでも熱さが身に染みる。
許しを請いたい。
迷惑をかけて済まなかったと。アイツがたった一度だけ笑ってくれれば、それでもう、何もいらない。
俺はそれだけで満たされる。アイツも、ルカも小波も、それぞれが笑っていられるためなら俺はなんだってやると、そう思っていたのに。
それすらアイツらには無用だったのだろうか。

20110324