虹のワルツ

60. 青い空を諦めた瞬間(美奈子)

「美奈ちゃん、おはよう」
「あ、おはよ――」
後ろから声をかけられて、それが誰かなんてすぐにわかったのに、振り返った私はちょっとだけ呆気にとられた。
「夏碕ちゃん、髪……」
「あ、うん。部活も終わったしね?」
夏休み明け一日目、夏碕ちゃんの綺麗なおでこは厚めの前髪で覆われていた。ハーフアップにした後ろ髪の長さはほとんど変わっていないのに、前髪があるかないかだけでこんなに新鮮さを感じるのかと思った。
「今まで出来なかったから、ちょっと……イメチェン?」
照れくさそうに、それとも本当に慣れないからかサラサラの前髪を額に撫でつけるように触れて、夏碕ちゃんは笑った。
おかしな話だけど、前髪があるとなんだか幼く見える気がする。そういうことを言うのも無粋だと思ったから、私はただ「似合ってる」の一言に、感想を留めておくことにした。
「それ、何?」
夏碕ちゃんが指差す私の机の上に山積みになった紙の束は、私が夏休み中ほとんど毎日書いていた小論文の集合体だ。
苦手でしょうがなかったことも、これだけ目に見える形で残るように毎日続ければ自信になる。そう教えてくれたのは大迫先生で、本当にその通り、上手い下手は別にしても自信と書くスピードだけはかなり身についたと思う。
いつくしむように原稿用紙を撫でながら説明すると、夏碕ちゃんも感慨深げに口を開いた。
「継続は力なり、だし、習うより慣れろ、だもんね。……私が言っても、説得力ないけど」
「そんな……」
多分、ううん、新体操部のことを言ってるんだろう。なんと言葉をかけていいものか考えをめぐらせる私に手を振って、夏碕ちゃんは苦笑した。
「あ、ごめん。気を遣わせようとしたんじゃなくて、本当にもう大丈夫。逆に受験勉強の時間がちょっとだけでも長くなってよかったって思ってるくらいだし」
夏碕ちゃんは私が驚くほど、珍しいほど饒舌だった。
新体操部のこともあって、一学期の頃のように、ひょっとしたらそれ以上落ち込んでいるかもしれないって心配してたけど、自分の中で気持ちの整理がついたんだろうか。
やっぱり、夏碕ちゃんはすごい。
私は……琉夏くんを怒らせちゃって、仲直りする勇気だって持ってない。
なんでも自分ひとりでできる、夏碕ちゃんがうらやましくてしょうがなかった。
「美奈ちゃん?」
「――えっ?」
心配そうに、私の目の前で手のひらを降っている夏碕ちゃんが笑った。
「どうしたの?」
「ううん!これ、大迫先生に持って行ったら自慢できるかなって考えてた!」
「え?……ふふ、そうかもね」
これからは夏碕ちゃんだって本格的に受験勉強を始めるんだから、迷惑かけないように私だって一人でしっかりしないと。
12月の推薦入試で合格できれば、今とは逆に私が夏碕ちゃんを支えることも出来るかもしれないし、何より一つ問題が片付いて余裕ができれば琉夏くんともちゃんと向き合えるに違いない。
ひょっとしてそれは問題を先延ばしにしているだけかもしれないけれど、自分が一つずつしかできない不器用な人間なんだからしょうがない。言い訳のようだと、後ろめたさすら感じるけれど。
気合を入れながら、二学期が始まった。


一週間ほど経ったある日の昼休みだった。
まだまだ暑い日が続いているものの、程よく風が吹いてくる気持ちのいい日だったから、私と夏碕ちゃんはお弁当箱を持って屋上への階段を上っていた。
そんなに人はいないはずだと思っていたのに、なんだか騒然とするような浮き足立った空気を感じる。
「なんか騒がしい……ね」
「……うん」
ドアを開くと、眩しい陽射しと柔らかい風が身に降り注ぎ、歓声が耳に届いた。
「おい!来てみろよ!琉夏がまたスゲーことやってんぞ!」
「どこどこ?――おぉっ、スゲー!」
誰にともなく呼びかけるような大声に、私たちは顔をしかめた。
嫌な予感がした。というより、嫌な予感しかしない。
「スゲーこと」っていうのは、その主体が琉夏くんである以上、危ないことそれ以外の何物でもないに違いない。いつか中庭を歩いていたときに見てしまった、二階の窓から飛び降りる琉夏くんの姿を思い出す。
片手で額の上にひさしを作って、太陽のほうに目を向けた。逆光で眩しくて目を細めると、風にさらわれそうな白いシャツの裾が視界に入った。
(!!琉夏くん……)
私の胸の高さほどの、屋上の手すりの上を琉夏くんが歩いていた。ネットなんてないし地面までの高さなんて考えたくも無いくらいなのに、悠々と何を気にする風でもなく彼は両手を伸ばしバランスを取りながら危うい線の上、歩を進めている。
私がじっと見つめていたのはとてつもなく長い時間のようでもあって、一瞬のようでもあった。
(早く、止めなきゃ!!)
そう思っているのに、私の足は動かないどころかすくんでしまって眩暈までしてくる。
誰か、誰か止めて――
「あれ、おっと……ヤバ……」
ぐらりと揺れたのは、私の視界じゃなくて琉夏くんの体だった。
「危ないっ!!」
みんなの悲鳴と同時に、自分の口からも息だけが漏れる。
起きていることを直視できなくて、目を瞑り両手で耳を塞ぎながらその場に崩れ落ちてしまう私を、夏碕ちゃんと周りの女の子が支えてくれた。それだけがぼんやり認識できた。
その後に、安堵するようなため息の群れ。バランスを崩した琉夏くんが、こちら側に降り立ったことを確認するべく私は恐る恐る目を開ける。
人影の隙間から見えたのは、手を払いながら立ち上がる琉夏くんと、そこへズンズン歩いていく夏碕ちゃんの後姿だった。
ほっと安堵したのも束の間、血の気が引いてしまった感覚はずっと残っている。
夏碕ちゃんは、きっと琉夏くんを叱る。何もできなかった私のぶんまで含めて。
生きた心地のしない私の背中をさすってくれる同じクラスの女の子が言うには、「お昼ごはんをかけての屋上一周チャレンジ」だったらしい。
(そうじゃない……。そんなことで、琉夏くんはこんなこと、しないよ――)
彼女たちも止めるに止められなくてこんなことになってしまったことを、責任を感じてか、私に詫びてくれた。
でも、皆を責める気にはなれなかった。私だってその場にいてちゃんと説得できたかなんて、心もとなさ過ぎて。情けなさに胸の奥がギリギリ締め付けられた。
そんな私を置き去りにして、人ごみを掻き分けて夏碕ちゃんが琉夏くんの正面に立つ。
「失敗、失敗……。あれ、夏碕ちゃ――」

一瞬だった。
渇いた音が響いて、それまで騒然としていた屋上が静まり返った。まるで音がなくなった世界。
グラウンドから微かに聞こえてくる人の声が、却って静けさを際立てているようにも思えた。
琉夏くんに平手打ちをした夏碕ちゃんの右手が震えている。それを見ているのか見ていないのか、琉夏くんの表情は長い前髪に隠れて窺うこともできない。
誰も何も言えない時間がしばらく続いていた。
泣き出すことすら憚られるようで、私は息を殺した口元を押さえて二人を見つめていた。
ここに座ったままじゃ、何もしないままじゃダメだってわかっているのに――

「居やがった……テメェ、バカルカ!!」
屋上のドアを蹴破るようにしてやってきたのは琥一くんだった。
緊張していた皆が安心したようにそちらを向くのとほとんど時を同じくして、夏碕ちゃんが俯いたまま、入れ違いに屋上を後にした。
すれ違う瞬間、琥一くんが戸惑うような顔をしたのを、私は見逃せなかった。
琥一くんは夏碕ちゃんを追う事もせず――本当は追いかけたいに違いないのに――すぐに琉夏くんのほうへ向かって行った。
全然違う、皆が立つ場所が。

私のせいだ。
私がちゃんと琉夏くんのところに駆けていけたら、琥一くんは夏碕ちゃんのことを追いかけられたのに。
もちろん力不足なのはわかってるし、兄弟なんだからそれに及ぶはずも無いっていうのも十分理解してる。けど、それでも琉夏くんを一人にするよりはマシだって、琥一くんも思ってくれるかもしれない。
夏碕ちゃんは、きっとどこかで、ひょっとしたら泣いてるかもしれないのに。それを琥一くんだってわかってて、傍にいてあげたいだろうって、私だって痛いくらいにわかってるのに。
そうする勇気が、なかった。
それに。
まさかとは思うけれど、琉夏くんのやったことが私へのあてつけなんじゃないだろうかと思えたから。
あんなふうに、“自分は大事にされる人間じゃないんだ”と言わんばかりの行動の心当たりがないわけじゃない。
花火大会に行けなかったとき、すぐに謝らなきゃいけなかった。それが出来ていれば、私たちこんなに、心が張り裂けそうな思いをしなくてよかったのに。
私だけが傷つくならまだ、それでよかったのに。私が優柔不断で臆病だったから、夏碕ちゃんまで巻き込んで、結果的に琥一くんにも嫌な思いをさせてしまった。私だけのせいじゃないかもしれないけど、それでもあの時どうにかすることが出来ていれば、もう少し、救いのある結末だって見えたような気がするのに。
激昂する琥一くんの声、飄々と聞き流す琉夏くんの落ち着いた声、二人をなだめる他の男の子たちの声。
それらを聞きながら、私は情けないことにただ俯いてしゃがんでいるしか出来なかった。


多分同じクラスの子に、私は連れて帰ってもらったんだろう。
五限目が終わるころにようやく落ち着きを取り戻した私は、もうこれ以上傷つきたくない、傷つけたくない一心で、夏碕ちゃんに声をかけた。
悲壮な決意っていう、作り話の中にしか存在しない言葉があるとしたら、私にとって今の心情がまさにそれだって思った。
今日は琉夏くんも琥一くんもバイトがない日だから、四人で話し合おうって。
仲直りしなきゃいけないって。
それは本当に私だけの都合で、エゴだったのに、夏碕ちゃんは快諾してくれた。
もう遅いかもしれないけど、ここで食い止めることさえできれば。
なのに、やっぱり遅かった。
もう、どうしようもないところまで、私たちは来てしまっていた。

20110326