虹のワルツ

61. 落ちた雫は剃刀に(琉夏)

昼休みからゆっくりと曇天に変わっていった空は、俺がWest Beachに帰り着く頃を見計らったかのように雨を降らせ始めた。
間一髪で出入り口の庇に滑り込み、濡れた髪に指を通して軽く水を切るようにする。まだ渇いたままの地面にポツポツと雫が落ちて、思い出したくも無いことばかり、思い出してしまった。

人にぶたれてこんなに痛いと思ったのは久しぶりだった。
空手もそうだったし、どうでもいいヤツらとのケンカだって俺にとっては大したことない。痛いのは、きっと一緒に心まで殴られたときだ。
それは親父だったりコウだったり、今日初めてだったけど、夏碕ちゃんだったり。
心配してもらっているということと、要らぬ心配をかけてしまった後悔の念が一気に俺を押しつぶす瞬間は、いっそ楽になりたいと思うほど辛くて心苦しい瞬間だ。

雨はどんどん激しくなっていく。アスファルトが濡れて黒く滲んでいくように、俺の心まで侵食されているように思えた。


West Beachの中には、もうコウがいた。
カウンターのスツールに腰掛けて、猫背になって何かを読んでいる。テーブルの上にも適当に積み上げられたのは漫画しかないように、俺たちが読むのは漫画か雑誌かのどちらかしかない。
どちらかしかないから、大体それが何であるかは見当がつく。それでも、いつもどおり「何読んでんの」と声をかけようとして、振り返ったコウの視線に気づいてやめた。
怒ってるとも、悲しんでるともとれない、妙に冷え切った目だった。
もう俺は軽蔑されているのかもしれない。
そう考えると、あれほど覚悟していたはずなのに、それこそ薄ら暗い願望さえ抱いていたはずなのに、見放される怖さが勝って思わず口を開いていた。
「――もうあんなことしないよ、俺」
もう一度雑誌のほうへと体を戻しかけていたコウの動きが止まった。俺のほうを見ずに、言葉だけが雨音にかき消されそうになりながら、届いた。
「ああ。…………俺はともかくな、アイツらには心配させんなよ」
ふっと気温が下がったような気がした。
どうして俺は、ただそれだけの言葉に物足りなさを感じたんだろう。
コウが口下手で不器用で無愛想なんて、知ってるのに。

(もう、コウは俺のこと心配してくれないの?)

「……何か言ったか」
「え?ううん?」
返される答えのわかりきった質問なんてしたくなくて、貝のように口をつぐむことにした。胸のうちに澱のように溜まった汚い何かを自覚しながら。
ソファー席に鞄を放り投げて、コウに一体何をそんなに熱心に読んでいるのかと尋ねた。
「花椿から押し付けられたんだよ」
そう言いながら、コウは俺のほうに雑誌を投げる。
『はばたきウォッチャー』のつるつるした表紙に写っていたのは夏碕ちゃんだった。
“はばたき市散策 大人の喫茶店”という大きな文字の示すとおり、喫茶店のカウンター席を斜め横から撮った写真のメインは夏碕ちゃんで。でも俺が声を上げそうになったのはそれだけじゃなく、夏碕ちゃんの奥に写っているのが夏休みのあの日、一緒にいた男だったからだ。
俺だってあの時誤解をしていたのに、コウは……。
ああ、だからさっき、気のない返事しかできなかったのか。自分勝手に結びつけた結論に満足していると、コウはスツールから立ち上がって階段の方へ歩いていこうとした。
慌てて、「もう読まないの?」と背中に声をかけると、「いらねえ」とぶっきらぼうな声が返ってくる。
「なんで?」
「なんでってオマエ…………」
「あ、ヤキモチだ」
「ハァ!?――バカ言ってんじゃねえよ」
裏返った声はそれこそ真実を物語っているように聞こえたて、少しだけ、俺は笑う。
今になって思えば本当に俺はバカなんだけど、うっかりこんなことを口走っていた。
「でも、この男の人と夏碕ちゃん、一緒にいたよ」
コウの顔がこわばったことに気がつかなかったのは、俺が雑誌を捲っていたせいと、雨音が激しかったせいだろう。
「夏休みにさ。見たんだ、俺」
捲り難い薄っぺらなページを一枚捲る。同じくらい薄っぺらな言葉が口から零れる。
「商店街で」
顔を上げると、コウが何か考え込むような顔をしていた。
俺の言葉に驚いてはいるようだったけれど、信じられないといったような風ではなくて、ただ純粋に考えをめぐらせているだけのように見えた。
それが、不可解だった。

「コウ?」
「――あ?……ああ、そうかよ」
気にもしていないような口ぶり。
「……気にならないの?」
「なんでだよ」
なんで、って。
どう見たってコウは夏碕ちゃんのことが好きだし、夏碕ちゃんだってそうだろ。

「どうでもいいのかよ」

コウは怪訝な顔をしていた。俺が何を言っているのか、どうしてそういう話になるのか、困惑しているようだった。
俺は本当にあの時、夏碕ちゃんが手の届かないところに連れ去られるんじゃないかって、本当に本当に、本気で焦ってたのに。
なんで当事者のコウはそんなに落ち着いていられる?
確かに俺が今言ってることはタチの悪い冗談かもしれないけど、なんで大事な人を奪われそうだってのに、そんなに落ち着いていられる?
今度は俺の体温が下がったような、冷たいものがこみ上げてくるような感覚に襲われた。
「別に、どうでも――」
「いいんだよな、コウは。大切な人を失う悲しさなんて知らないんだから」
後から死ぬほど後悔すればいい。どうせ残された方は、それしかできないんだから。
俺は、多分怒っていた。空っぽのような気がするのに、それでも怒っているんだろうというのはぼんやり理解できた。
自分が自分じゃないみたいな、懐かしい違和感が舞い戻った気がした。
「おい、何言って、」
「コウは可哀想なおと――……ルカとは違うんだ」
吐き捨てるように口にした言葉が、誰よりも自分の胸に突き刺さった。
はばたき市に来て以来、思うことはあっても絶対に口にしなかった言葉を、初めて発した。思ったよりも俺は落ち着いていたし、手や声が震える事だってなかった。

「……もう一度言ってみろ」
こちらに歩いてきたコウが、俺の胸倉を掴み、低い声で脅しながら睨みつける。
そうやって腹を立ててるのも、腹を立てながら心配しているように見せるのも、真実なのかどうかわからない。
「何べんでも言ってやる。俺はどうせ、失うばかりの、何も持ってない可哀想な人間だ。オマエの同情だって、」
自分に嫌気が差して、コウのでかい手を両手で引き剥がす。
「いらねぇんだよ」

雨の音がやけに大きく聞こえていた。
コウは、雨が降りそうになるとすぐに外に飛び出して、SRにカバーをかける。帰ってきたときはそのまま停められていたSRは、今頃びしょびしょになっているだろう。次に乗るときはオイルをさしてやらないといけないな。俺は現実逃避するでもなく、ただ淡々とそんなことを考えていた。
妙に冷静な自分が不思議だった。
静けさがしばらく続きそうな気がした瞬間、コウはテーブルを叩いて怒号を上げた。
「テメェが言えたことか、あぁ!?屋上であんなことしたテメェは、アイツらも俺も、その可哀想な人間ってヤツにするところだったんじゃねぇか!」
俺と対照的にアツくなってるコウが、なんだかおかしかった。
笑っている気がした、俺が。
「認めたな、俺が可哀想だって」
「そういうことを言ってんじゃねえだろうが!」
「じゃあ何だよ!?」

West Beachの前の道路を、車が走り去っていく。水しぶきを上げながら通過するそれはどんどん遠ざかり、やがて音は聞こえなくなった。
コウは、上手く言葉が見つからないのか、それとも口に出すのをためらっているのか、黙ったままだった。
「もう、ほっといてくれよ…………俺は、コウとは違うんだ」
同じだったらよかったのに、なんてことは一度も思ったことはない。
俺だけで十分なんだ。
「テメェ一人で何ができる。それでどうにかなるとでも思ってんじゃねぇだろうな」
「それが一番なんだ。やっぱり俺は、周りの人たちを不幸にする」
傷跡を強く圧迫するような嫌な痛みを久しぶりに思い出した。こんな思いを抱えるのは俺だけでいいと思う一方、一人になることの悲しさが嫌だった。
「神様は……どうしてあの時俺も連れて――」
「ルカ!!」
ああ、今度は本気で殴られる。
コウが振りかぶった瞬間、ドアが軋む音を立てて開いた。
顔を強張らせて動きを止めたコウにつられ、振り向いた先にいたのは、美奈子と夏碕ちゃんだった。

雨音に混じって、遠雷が響いた。

20110327