虹のワルツ

62. 聞きたくなくて君の心を殺した(琥一)

「あ――の、ごめんなさい。勝手に入っちゃって……」
俺とルカの顔を交互に見ながら言い難そうではあるものの、なんとか言葉を発する瑞野とは対照的に、小波のほうは完全にうろたえていた。
多分俺も小波と同じくらいうろたえていただろうし、逆にルカは変に諦めたように冷静だった。
しまらねぇところを見られたことと、さっきまでの会話でコイツらが――特にカンのいい瑞野が――気付かれたくない話に気付いていないか、それらが気になって動揺していた。
今日は波の音よりも、雨の音の方がよく聞こえる。それが無性に苛立たせる。
風向きのせいでWest Beachに吹き込んでくる雨を防ぐように瑞野がドアを閉めると、また静寂が訪れた。
果たして先ほどの、ケンカなのか説教なのか、よくわからないモノの続きをするわけにもいかず、俺は半ば途方に暮れて舌打ちをした。

「……何しに来た」
もっと言い様があるだろうに、俺の言葉は不機嫌さを伴って湿度の高い室内に虚しく響き渡る。
困ったような瑞野の顔も、泣き出しそうな小波の顔も、冷徹なルカの目も見ることができず、俺は砂で汚れた床に視線を落とした。
「――昼休みの……こと、で」
アイツはどんな顔をしながら、何を思いながらそんなことを言うのだろうか。
「謝らないといけないから。私……その、琉夏くんを…………」
「夏碕ちゃ……」
小波が戸惑ったような、焦ったような声をあげる。そういうことを言って欲しいわけではない、そんな意味に取れた。
コイツが着いて来ていること自体、瑞野の言葉が全部真実というわけではないのだろう。
むしろ着いて来て欲しいと言ったのは小波のほうなんじゃないか。
窓ガラスを伝う雨の雫が、薄い影になって床を這い回っていた。
瑞野は一呼吸置いて、言い淀みながらもはっきりと聞こえるように口を開いた。
「琉夏くんを……ぶっちゃった、し」
さっと血の気が引くような気がして、黙り込んでいるルカの顔を反射的に見上げる。
相変わらず何も映していないような醒めた目が一瞬だけ泳ぐように揺れた。
「ルカ」
返事は、ない。
ない代わりに、ルカは嘲笑うような顔をした。一体誰が何がその対象なのか、俺にはわからないが。
「おいル――」
「いいよ。もう。それよりさ、今取り込み中なんだ。帰っ――」
「テメェ……!」
今日何度目だろうか。またルカの胸倉を掴み上げる。
「そこまでアイツにさせといて、まだンなこと言ってんのか!?」
殴るほうは、殴られるほうよりも辛いことを、コイツだって知っているはずなのに。わかっててまだふざけたことを言っている。
視界の端で、小波が震えていた。
「離せよ」
感情も温度もない目で睨まれて、背筋が粟立った。
コイツが哀れだと思ったことがないわけではない。が、コイツが何も持っていない可哀想な人間だとは、一度も思ったことはない。
それでもそう思いこんでいるルカの、いや、人間の目はこんなにも恐ろしいものだったのかと思い知らされた。
「…………謝れ、アイツらに」
俺の言葉に鼻白んだようなルカが笑った。声を上げずに口元を歪めて。
本当は笑ったのではないかもしれない。ただ、そう見えた。
「保護者面して、何様だよ」
「テメェ――」
「やめて!」
俺たちの間に割って入ったのは瑞野だった。
「落ち着いてよ…………美奈ちゃんが、ほら、おびえてるでしょ……?」
言うとおり、小波は口元を覆うようにして、こちらを窺っている。
何か、思い出しそうだった。
まだ入学して間もない頃のこと。下校途中に余多門の連中に出くわしたときのこと。小波が仲裁に入ろうとする後ろで、おびえたように顔を強張らせていたコイツのこと。
小波が今、仲裁しないのは、俺に対してもだろうが俺以上にルカを恐れているんだろう。
アイツはルカのこんな目を知らない。
いつだってヘラヘラして何も考えていないような目と、どこから沸いてくるのか見当もつかない優しさにしか触れたことがない。
子供の頃のルカと、それを持ったままの今のルカしか、知らない。
知らないままでいて欲しかった。
「お願い、落ち着いて……。私たち今日はもう、帰るから――ね?」
交互に二人の顔を見つめ、無理矢理笑顔を作って言い聞かせる。瑞野が割って入ってきたのは、小波があんな調子だからだろう。コイツだって嫌々ながら俺たちにかまっているだけで、望んでこんな場面に関わろうとは思わないに違いない。当たり前だ。
胸倉を掴んだままの俺の右手に瑞野が手を重ねると、力が抜けて行くような気がした。
目を伏せて二つの手のひらを見つめていたルカは、一瞬苦しそうな顔をして、それからまた減らず口を叩く。
「今すぐ帰っていいよ。心配することなんかないんだ。コウはね、夏碕ちゃんのことだってもうなんとも――」

「!――ダメ……っ」

カッとなって振り上げた左手に、意識が追いつかなかった。
まるで漫画か映画のように、飛び出してきた瑞野の長い髪が翻る。
ああこのままじゃマズイな、と思うのと、握り締めた左手がアイツの頬を殴ったのがほとんど同時だった。
瞬間迷いが生じたこと、利き腕じゃなかったこと。それが威力を殺してくれていればいいのにと思った。
衝撃でルカの胸元に倒れこんだ瑞野を見て、それがいかに自分勝手な考えなのか十分に思い知りながら。

稲光が、電気もつけていないWest Beachの中を照らした。
動揺しているルカと、顔を覆いながら崩れ落ちていく小波と、力なくルカに体を預けている瑞野と、握り締めた拳を宙に浮かせたまま茫然としているだろう俺を。
のろのろと瑞野の右手が俺の右手から離れていく様を、ただ見ているしかなかった。
ルカに支えられるようにしながら、右手で俺に殴られた自分の右頬を確かめながら、瑞野はゆっくりと振り返った。
目を反らすこともできなかった。
瑞野は、ルカと同じ目をしていた。
怯えるでもない、批難するでもない、ただ途方に暮れたような目だった。
俺はこの目を、三度見たことがある。


「――追いかけて!」

小波が叫んだ。
思考停止していた俺の目が、ドアを蹴破るようにして雨の中に飛び出していく瑞野の後姿を一瞬だけ映した。
誰が誰を追いかけなきゃいけないかは、この場にいる誰もが知っている。
反射的に見てしまったルカの顔は、誰よりも辛そうだった。いつだってコイツの顔は悲しみが根底にあって、その上に剥がれそうな感情の膜が乗っているだけ。
それでも高校に上がってからは、本心から笑うことだって増えてきたと、俺は思っていたのに。
「琥一くん、追いかけて……」
立ち上がった小波は、泣いていた。
「行かなきゃ、今、行かなきゃ……」
うわ言のようにしゃくりあげながら、小波はそれでも俺とルカのほうに――いや、ルカに向かって近づいてくる。

ああ。
ああ、そうか。
もう、ルカをつなぎとめることの出来る人間は、コイツなのか。
そんなことはずっと前から知っていたような気がしたのに、寂しさすら感じてしまう。そんな場合ではないのは、俺が一番理解してなきゃいけねえのに。
小波がルカの腕に触れるか触れないかの瞬間も見ずに、俺は駆け出した。
足元にアイツの水色の折り畳み傘が落ちているのが見えた。拾うことすら考え付かず、ドアを潜り抜けて外に出る。
アイツが雷に怯えていた秋の昇降口を思い出した。土砂降りの雨に混じって、あの日と同じように大きな雷鳴が轟いた。
雨足が太く長く、視界が灰色に霞む。
雨のせいで髪が崩れて垂れてくるのを片手でかき上げ、左右を見回した。
――いた。
繁華街方面に向かって、アイツは走っていた。当然俺も後を追いかけて走り出す。
今駆け寄って、俺に何ができるのかわからないし、情けないがどうしようもないのかもしれない。殴って悪かったと、謝ることが出来たとしても俺は絶対に、一生自分のことを許せない。
体中酷い有様になりながら走る俺の後ろからバスが迫り、じわじわと追い抜いて羽ヶ崎西のバス停で停車した。
瑞野が乗り込んだバスの運転手はよほどせっかちだったのか、それとも俺が知る由もない遅れを取り戻すためだったのか、追いかける俺に気がつかないかのように走り出した。
バス停の20メートルほど後ろで、俺は立ち尽くす。
雨が全身を濡らし、体温を奪っていくことすら気にならない。そんなことは、どうでもいい。
(今からバイクで追いかければ――)
どんな顔をしてアイツに会えばいい?
通り過ぎた車の、スモークのかかった窓ガラスに自分の顔が一瞬、映りこんだ。


『琥一、琉夏は今日からお前の弟だ。兄貴になるんだからお前は――』
『……弟なんていらねーよ』

そう言ってしまったときの、居心地の悪そうなルカの目。

『じゃあ……もう、ここへは来られない?』
『うん、遠くに行っちゃうから……』
『自分だけ、ここに残ればいいよ!そうしなよ!』
『無理だよ……』

あのときの、泣き出しそうな小波の目。

『(手、草のニオイがする……)』

手当たり次第にサクラソウをちぎって捨てた、あの夜の俺の情けない目。

俺が殴ってしまった瑞野の、見たこともないような悲しい目。


悲しみと無力感と後ろめたさを抱えて、それをどうすることもできない自分に嫌気がさす。
そんな目を、昔の俺たちはしていた。子供だった俺たちは、自分自身のあり様に納得できなくて暴れた。
大人になれば何だって、自分で解決できるのに。
そう言っていたのは俺だったのかルカだったのか。それとも引越しの日まで泣いていた小波だったのか。
海の向こうで、稲光が煌いた。波のうねりが照らされて、何もかもを飲み込むように大きく揺れた。泡だった潮を吸収する余裕は、雨に濡れた砂浜にはもうない。泥のように姿を変えた波打ち際が、波に攫われる度に削られていくように思えた。
俺は取り返しのつかないことをしてしまったと、ようやく理解し始めたのはどれくらい経った頃だろうか。

荒れた海の鈍色と曇天の空の間にはもう境界すら見えない。

20110327