虹のワルツ

63. 白い砂になりたかった(夏碕

生まれて初めて学校をサボった。

明け方まで降り続いていた雨のせいで、まだ水溜りの残った煉瓦道をふらつく。やや肌寒いような気温のせいか、それとも午前9時という時間と、平日であることのおかげか、人影はまばらだった。
まさか制服で街をうろうろするわけにはいかないから、適当に服を着て外に出てきた。家の中にいると、どんどん気が滅入ってしまうようで、両親が家を出てしばらくしてから私もこっそり抜け出した。
風邪で休むと言ったときも、昨日家に帰り着いたときも、母さんの顔をまともに見ることができなかった。
何かあったのだろう、ということくらいは見当がついているに違いないけど、無理矢理聞き出そうともしてこない。
今まで何の問題も起こさず、優等生を演じきっていた私に、演じていたはずの優等生と一体化してしまった私に、初めて手を焼いているんだろうか。
結果論とはいえ、小さな復讐めいたことをしでかした自分が少し、怖かった。

右頬を、触ってみる。貼れてはいない。今朝方鏡を覗いてみれば、うっすらとついていたはずの二つのアザも消えていた。
きっと指輪の跡だったのだろう。慈しむように撫でていたそれらが消えてしまったことに、何故か言いようのない寂しさを覚えた。
口の中は切れていたけれど、朝起きてみればとうに塞がっていたし、昨夜の食事のように血の味に顔をしかめることもないだろう。
そういえば朝食も何も食べていないことを思い出した。
食欲は、なかった。

浜のほうへ丸く半円を描いて突き出した、展望台のような所から海を眺める。濡れたままの手すりには触れず、パーカーのポケットに手を入れて。
波音と人の足音を聞きながらぼんやりしていると、私の背後で誰かが立ち止まった。

「…………」
「――おはよ、夏碕ちゃん」
「……おはよう」
振り返った視線の先に、琉夏くんが私と同じく私服姿で立っていた。
彼は目を丸くしている私の隣に回りこみ、二人してしばらく海を見ていた。
久しぶりに穏やかな横顔だった。昨日、美奈ちゃんは上手く立ち回れたんだろう。
聞いてはいないけれど、そう確信できた。

「ごめんね」
どちらがそう言ったのか、二人ともだったのかもしれない。
首を回して視線がぶつかると、琉夏くんは目を伏せた。
「痛かったよな」
「痛かったけど……平気だよ」
「俺も、痛かった」
「……ごめん」
「いいんだ。あんなことしちゃった俺が悪かったんだ」
多分、琉夏くんは気付いている。痛みというのが本当はどういうものかってことを。
私と同じくらい、心を痛めている。きっと私のことを気にかけてくれているだろう、琥一くんの痛みについて。
どうしているだろう。

夏碕ちゃん、散歩しようか」


促されて砂浜に降り立つと、波打ち際のような湿った砂が靴にまとわりついた。黙って歩く琉夏くんの後ろに付いてゆっくりと、寄せる波音を聞きながら歩く。
足跡が長く続いているのを振り返ると、琉夏くんは口を開いた。
「あのね、」
海風が湿った空気を陸に押し上げている。
「いつか美奈子に言うこと、言わなきゃいけないこと…………夏碕ちゃんにも、話すね」
「私に?…………え、私が先なの?」
「練習も兼ねて」
琉夏くんは穏やかに、でも少しだけ苦しそうに笑った。凪の上空で、灰色の雲がゆっくりと流れていた。

「俺の本当の父さんと母さんはね、俺が小さいときに事故で死んじゃった」
なんとなく感じていた予感は当たった。だからと言って、すぐに何か言えるわけじゃなかったけど。
「それで、コウの家に引き取られたんだ。小学校にあがるころだったかな」
ウミネコが滑るように空を泳いでいる。太陽は雲に隠れて、水平線の向こう側を照らしているだろう。
「事故のことは、覚えてないんだ。俺が熱を出して、父さんが雪道を病院まで、車を運転した。母さんが俺のこと抱きしめてくれていて――……これはね、全部人から聞いた話で、俺は覚えてない。熱の所為なのか子供だったからか、わからないけど。それにもう、今じゃ写真を見ないと両親の顔も忘れそうになる」
頭の中で、見たはずもない雪の夜のビジョンが再生された。
ヘルメットをつけた救急隊員が、ひしゃげた車をこじ開けている映像。
何事かを叫びながら。聞きたくもない言葉を、きっと。
琉夏くんが自分の二の腕をさするようにしているのを見て、唇をかんだ。きっと彼のお母さんは最期の瞬間、最愛の息子をかばうように――
理不尽さを恨みたくなった。涙が溢れそうな目じりを隠すように目を伏せて、いつか私が熱を出したときの、琉夏くんの話を思い出した。
「悲しかった。俺のせいで、俺が熱なんて出さなきゃこんなことにならなかったのに、俺のせいなのに俺が、真っ先に忘れるのが耐えられなかった」
俯いた琉夏くんにつられて私も視線を落とすと、足跡が深く沈みこんでいるように思えた。
「コウも美奈子も、夏碕ちゃんも巻き込んでさ、俺は、周りの人を不幸にする」
絶望さえ感じさせる声に、私は何も言えなかった。

「ごめんね、朝から気分の悪い話して」
琉夏くんの言葉に静かに首を振る。彼の悲しみも辛さも私には到底推し量ることのできないものだろう。安易な励ましの言葉なんてかける気にならない。当事者でない限り、どんな言葉も人を傷つける可能性を持っているのだから。
再び歩き出そうとした琉夏くんを、私は止めた。

「私は、不幸せじゃないよ」
客観的な事実がどうであろうと、そう思いこんでいる以上はそれが本人にとっての真実。
いくら私が不幸せではないと言っても、昨日のことは事故で気にしてなんかいないと言っても、彼らの苦痛を取り除けるはずもない。
でも、和らげることはできるのかもしれない。
ひょっとしなくてもこれは、傷ついている人を見過ごすことで私自身が傷つくことを避けようとする、醜い自己弁護だと言われるに違いない。
それでもいい。だって、傷つきたくないもの。それは誰だって同じでしょう。

「それに、誰かのせいとかおかげとか、そういうことじゃないと思うもの。私は私で勝手に、幸せだって思ってるよ」
一際大きな波が視線の先の岩場にぶつかり、白く弾けた。口の中が塩辛い気がするのは、きっと海風のせいだろう。
「琉夏くんたち三人の中に、私なんかが入っていっていいのかなって、そう思うことがたくさんあった。でも、私はみんなと一緒にすごせて、楽しい思い出をたくさん作って、きっとこれからもずっとそうだって思えて、嬉しかった……ううん、ずっと嬉しいままでいたいし、そうできるって、信じてる」
絹糸のように柔らかで細い琉夏くんの髪が、風に勢いよく流されていった。鳶色の眼が、驚いたように大きく見開かれて、ゆっくりと細められる。
「話してくれてありがとう。私を、そういう話が出来る人だって思ってくれて、嬉しかったよ」
今日初めて、心から笑えた。
琉夏くんの、心からの支えにはなれなくても、遠くからでも見守ることが許される存在でいられるということが本心から嬉しかった。
私に向かって右手を差し出しながら、琉夏くんは微笑む。
「俺も……嬉しかった。きっとみんな、俺が思ってるよりも俺のこと、信じてくれてるんだな」
その右手を、握手するように握り締める。大きな手は私の手のひらを覆い隠すように握り返してくれた。
「……そうだね。きっと、言葉にするのが難しすぎて、うまくいかないのね」
泣き出しそうな顔を思い出して、胸がきゅうっと締め付けられた。
夏碕ちゃん」
「――うん?」
琉夏くんは、握ったままの手に少しだけ力を込めた。
「コウのこと、待っててやって?」
咄嗟に何も言い返せないのは、意外な発言だったってこともある。
けれど、こんなときでも琥一くんのことを、そして私のことを案じてくれる琉夏くんの優しさに泣きそうになったから、それが一番の理由だった。
「アイツ、カッコつけだからね。コウのほうから言わせてやって?そんで……そのときは思いっきり殴ってやって。“いつまで待たせんのよ!”とか言ってさ」
何を言ってくれるのを待つのか。不安でもあるけれど今はそれを信じて期待していたい。声色を真似た琉夏くんに、私は笑う。
「そうしたら、おあいこだ」
「……琉夏くんは?」
美奈ちゃんにはまだ、さっきの話すらしていないような口ぶりだった。琉夏くんも、待たせるつもりなのかもしれない。
「……俺も、殴られる覚悟だよ」
目を伏せて、微かに自嘲するように、琉夏くんは微笑んだ。昨日、待っていてほしいと、そう言えたのだろう。
一番大事な人にほど、話すことをためらってしまう気持ちは理解できる。
「そっか」
私も握った手に力を込める。想いが、伝わりますように。
「俺もカッコつけになっちゃったのかな。コウに、兄貴に似てさ――」
今日一番、嬉しい言葉だった。
いい兄弟でうらやましいと言うと、琉夏くんは「欲しいんならあげるよ」と、照れくさそうに笑う。つられて私も、声をあげて笑ってしまった。
こういうことが言える、いつもの琉夏くんに戻ってくれて、よかった。
「さて、どうしようか?」
琉夏くんは私の手を引いて歩き出す。どうする、というのは何のことかと聞くと、
「コウの罪滅ぼしに、今日は俺が夏碕ちゃんの言うこと聞いてあげる」
呆気にとられていると、琉夏くんはごくごく自然な口ぶりで、「それは口実でデートしようってことかも」と続けた。
私は欠席の届出を出しているからいいものの、琉夏くんは……。
まぁ、いいか。言ったところで素直に学校に行くとは思えないし、私だって一人より二人のほうが楽しい。
「行きたい所、ある?」
「そうだね……じゃあ、」
琉夏くんの背後に見える、霧で霞んだ山に、二つの虹がかかっていた。

20110330