虹のワルツ

65. 頭の中はパラレル・ワールド(琥一)

あれだけ雨に降られても風邪をひかない、どころか、悪寒すら感じない自分の体は鈍感なんだろうか。きっとそうだろう。
廊下側、日当たりなんて言葉に縁のない席で両手を何度か握り締めたり開いたりして、それからぐっと握り締める。
瑞野は今日、欠席しているらしい。休み時間にきた小波からのメールでそれを知って、したところでどうしようもない後悔だけを繰り返している。
こんな俺に殴られて無事であるはずがない。痛かっただろうに、腫れていないだろうか、アザになっていないだろうか、口の中や唇が切れたりしていないだろうか。もしそうだとしたら、ひょっとして俺に気を遣って休んでいるだけじゃないだろうか。
――いや、それは俺の身勝手な、俺だけのための気休めだ。アイツは本当にショックを受けて休んでいるのかもしれないのだから。

ルカも昨日は早々とベッドにもぐりこんで、一度も口を聞いていない。
朝、俺が起きてもまだ寝ていた。起きていたのかもしれないが、階段で立ち止まった俺の目に映ったのは、布団を被ったまま微動だにしないルカの後ろ頭だった。いつもなら学校に行く前にたたき起こす俺も気が引けて声もかけずに出てきてしまい、小波に心配をかけてしまった。
情けない。情けない兄弟だ。


「昨日の感じだと、大丈夫みたいな気がしたのに……」
コイツらの間にどんな会話があったのか俺は知らない。
昼休みに俺のクラスを訪ねてきた小波を伴って、空き教室に移動した。昼飯を食うだけならまだしも、話しづらい内容ならやむをえないだろう。
「琉夏くんね、反省してたよ?俺が悪かったんだって、ちゃんと謝るって言ってた」
そう言って俺の顔を窺う小波に、俺は「そうか」と答えることしか出来ない。
察したように口をつぐんだ小波に、酷く申し訳ないと思った。
「――そんな顔すんな。兄弟ゲンカなら今までだって何度もやってる。そのうちいつもどおりになるから、オマエは安心して……勉強でもしてくれ、な?」
俺たちのせいで上手くいかないなんてことは、もう懲り懲りだ。
「……うん。わかった」
そのあたりのことを上手く飲み込んだのか、小波は力なく笑った。
「それから……琥一くんは夏碕ちゃんのこと…………どうでもいいわけ、ないよね?」
心底不安そうな目をしているのは、昨日のルカのあの発言のせいだろう。
「…………ンなわけねえだろ」
ルカがあんなことを言っても、俺はアイツを信じている。
夏休みにアイツは、他の誰でもなく俺に電話をしてくれた。俺の声が聞きたいと言ってくれた。
花椿から押し付けられた雑誌の表紙、あの写真には、俺が去年の花火大会で取ってやったブレスレットが写っていた。
嬉しかった。
アイツはあんなものをまだ大事にしてくれている。俺との思い出を、そして多分、俺のことも。
自惚れかもしれない。それでもいい。想うくらいは、こんな俺にだって許される気がした。
「そうだよね」
小波はほっとしたように目蓋を伏せた。その仕草に、アイツを思い出して締め付けられるような苦しさを感じる。
「変なこと聞いて、ごめん……ごめんね」
取り繕うような顔をされた俺は一体、今どんな顔をしているのかと自嘲したくなった。
頭の中はルカのことと瑞野のことで埋め尽くされて、そのくせどちらか一方に偏ることができない。本心から気にしているのはどっちかなんてわかっているはずなのに、これまで10年近くをかけて染み付いた“兄貴ぶり”は中々消え去りそうにない。
「なぁ、」
「うん?」
弁当箱を片付けながら、小波は顔を上げた。大きな目は、あの頃からずっと変わっていない。

『ルカのこと、頼んだ』


「――いや、なんでもねぇ」
それは、もしも俺が言葉にするとしたら、もう少し未来に言うべきことなんだろう。
大体言わなくたっていいことなんだ。もう誰も子供のままではいられないし、誰も中途半端な保護者ではいられない。
もう俺はルカの保護者じゃないし、ルカが助けを求めるのは俺じゃない。
何度も何度も言い聞かせたのに、その度に足場が崩れそうな不安感を覚えてしまう。
誰かに必要とされたいんだ。他の誰でもいいんじゃなく、ただ一人。その一人に、俺だけを必要として欲しい。

「……また、みんなで遊べるよね?」
「ああ、もちろんだ」
俺の返事には何の根拠もない。
それにまた四人で集まるなんて、それは正しい姿ではない気がしていた。
それでもつっぱねることも出来ず、ある意味では非情な返事をしてしまった。俺は、汚いヤツだ。その場しのぎの嘘をついて、結局最後は全てをダメにする。
二人とも、途方に暮れたように笑っていた。


放課後、久しぶりに教会に足を運んだのは、サクラソウが気になったからじゃない。
ルカがいるかもしれない家に帰って、互いに気を遣いあうのが疲れそうだったからだ。
夏の間に背の伸びた草を足で掻き分けて進み、教会の裏手――ステンドグラスの正面に腰を下ろす。
革靴に、湿った草の切れ端がいくつも張り付いていた。昨日の激しい雨がサクラソウをダメにしてしまったかもしれないと思うと、無性に不安になった。何もかもが壊れてもせめて、これだけは残っていてほしい。最初の春に抱いていた罪滅ぼしの意識すら、最近は薄れていたのに。
妖精の鍵。心に思い描く人のところに、連れて行ってくれる。
2年生最後の日にここに来てみると、一輪だけだったサクラソウの数が随分増えていて俺は安心したものだった。
薄桃色から紅色に近いものまで、グラデーションを描くように点在する花弁が鮮やかで、綺麗だった。
俺が守りたかったもの。そして今、心から守りたいもの。
それは桃色のサクラソウだったはずなのに、いつの間にか姿を変えていた。
一株だけ、突然変異のように現れた白いサクラソウ。
子供の頃、三人でこっそり忍び込んだときには白い花弁なんてなかった。どこからか種が飛んできたのか、それとも本当に突然変異なのか。
水色にも見えるその花弁が、やけに目を惹いた。同時に、思い浮かべる姿があった。清楚でたおやかな姿、凛とした佇まい。
夏の大会のとき、白と銀色の衣装に水色のリボンを持った瑞野の姿を見て、見透かされているんじゃないかと驚いた。そんなはずはないだろうに。
ルカをつなぎとめる存在がいつの間にか小波になっていたように、俺が一番守りたい存在もいつの間にかアイツになっていた。
いつか、俺がどうしてサクラソウの世話をしていたのか話してやりたい。ルカが話していたことも教えてやりたい。
そのときには白いサクラソウを渡してもいいだろうか、なんて、ガラにもなく思っていたのに。
俺は全部、壊しちまった。
後悔はいつだって、身に降りかかるのが遅すぎる。


その日以来、週二で入っていたバイトを週四に増やした。
いつまでもルカと向き合わないままではいられないと、それは十分にわかっている。ただきっかけというか、どういうタイミングで何を言えばいいのかがわからないだけ。ただそれだけが、上手くいかない。
兄弟ゲンカなんて、それこそ小波に弁明したとおり何度も繰り返したはずなのに。なのに今回はどうしたらいいのか皆目見当もつかなかった。
店長は特に驚くでもなく、むしろ歓迎してくれた。バイト先の同期の連中にも受験で忙しくなるヤツはそれなりにいる。俺は俺で車校に通うための資金を貯めようと思っていたところだったし、結果的に踏ん切りがついたのはそれなりによかったのではないかとも思う。
単純に、忙しくすれば余計なことを考えずに済むだろうという思いもあった。受験勉強なんてモノに縁がない分、こういうことでしか自分を追い込めないのは、なんだか周りから浮いているような気もした。
クラスの連中も段々ピリピリしてきている。運動部の連中は特に、夏の大会が終わってから猛烈な勢いで勉強を始めた。
アイツもそうなんだろう。
購買に昼飯を買いに行った帰り、進路指導室から出てきた瑞野とばったり会ってしまった。
咄嗟に何も言えずに通り過ぎようとした俺に、アイツは悲しそうに微笑むだけだった。
あの電話以来、少しだけ元に戻ったような距離がまた離れてしまったと思い知らされるには十分だった。

20110407