虹のワルツ

66. わらう、はなす、泣く、怒る(設楽)

「設楽先輩?」

エスカレーターを降りて歩き出そうとした瞬間に、背後から語尾の上がった疑問系で呼び止められた。振り返れば、懐かしい制服を着た瑞野の姿が目に入る。見たことのない髪形――というより、前髪のせいで一瞬誰だかわからなかったが、人のいい笑顔のおかげで顔と名前はすぐに一致した。
ちなみにここは駅前の商業ビルの中で、俺は今しがた楽器店で注文していた楽譜を受け取ってきたところだった。ビルの中には楽器店だけでなく、洋服やら雑貨やらの店がいくつも入っているし、こいつもそのあたりに買い物にでも来ているんだろう。
「ああ、お前か」
「お久しぶりです」
ふわりと笑った仕草にあわせて、前髪が揺れた。
「髪、切ったのか」
「あ……はい。部活も終わりましたし、ちょっとイメージチェンジと思って……」
変でしょうか、と、言外に聞かれたような気がした。別におかしくはない。ただ見慣れないからそう言っただけだと告げるとまた笑う。
俺が高校時代に見ていた笑顔と、少し違う気がした。具体的にどう違うのかは上手く説明できそうにもないし、こいつだって自覚していなさそうだとも思ったから、気付かないフリをして話を変えた。
「買い物か?」
「ええと、そんな感じです。ちょっと楽器屋さんに」
「……楽器?」
何か音楽をやっていたとは聞いた記憶がない。
「その……学園祭で…………笑いません?」
学園祭。そういえばあと二ヶ月もしないうちにそんな季節になるのか。
「笑わない。言えよ」
なんとなく瑞野に付いていくようにして俺たちは歩き出した。エスカレーターの乗り口近くで話し込めば迷惑だろうし。
「……バンド、やるんです。それで、ギターをある人から借りることになって……」
「…………へぇ?」
意外だ。
そんな顔をしてみせると、瑞野も途方に暮れたように項垂れた。
「メンバーが……部の同級生なんですけど、勝手に楽器決めちゃって。はぁ……ギターなんて一番目立ちそうなのに」
部、というのは新体操か。なら、瑞野はリズム感は人よりもありそうだと俺は思う。
「やったことないのか、ギター?」
「はい……今日から猛練習ですよ、多分」
指が動かないに違いないです、と、言いながら瑞野は手のひらを振った。白い指は俺が思っていたよりもずっと長い。
そんな様子を見ながら、複数人でやるなら自信の無いヤツはリズム担当――バンドならドラムスやベースだろう――にはならないほうがいいと教えてやると、当然怪訝な顔をした瑞野が聞き返す。
「どうしてですか?」
「曲っていうのは、音が外れていてもそれなりに聴こえるけど、リズムが外れてしまえばいくら音程が正確でも聴くに耐えないからな。……まあ、お前はリズム感あるだろうから余計なお世話かもしれないけど」
「いえ、そんなこと……。でも、そうなんですね。設楽先輩がそう仰るなら、きっと私にはギターが一番いいんでしょうね」
そう言われるとなんだか照れるようで、俺は視線を逸らし、上昇していくエスカレーターの方を見遣った。
「他のメンバーは経験者なのか?」
「えっと、ベースの子は、趣味でやってるみたいで。ドラムの子は経験はないけどけっこう前から練習してるみたいです」
ベースが趣味っていうのは珍しいな。珍しいというか変わっているというか。一人でやって楽しいのだろうか。大きなお世話だろうけど。
「ふぅん。じゃあお前が一番の初心者ってわけか」
「一番どころか正真正銘初心者ですよ。足引っ張りそうでもう……。でもやるって言った手前もあるし」
ブツブツを呟いているのが珍しくて、俺は笑った。中々おもしろそうなものが見れるようなので、紺野にも連絡して当日遊びに行ってやると言うと、
「えっ、でも、初心者ですし、演奏する曲だってあの、アレですよ?」
「アレってなんだよ」
「……ロックンロール?」
それはそうだろう。ギターとベースとドラムの編成で、それ以外に何が出来るのか、あるのなら俺だって聴きたい。
首をかしげながら苦笑して、瑞野は続ける。
「設楽先輩はあまり興味、ないんじゃないかなー……って思って」
「まぁ、ないな。聴かないし」
「だったら――」
「興味関心がないからって、それがつまらないと決め付けるのは、浅はかすぎるんじゃないか?」
そう言うと、瑞野は目を丸くした。
「……そう、ですよね」
なにやら考え込むように口元に手を持っていってブツブツと呟いている。
こんなヤツだったか?と、つられて俺も考え込みそうになってしまい、しばしの間二人して黙り込んでしまった。
「あ、すみません……」
「何だよ、悩みでもあるのか?」
「悩みって、ほどでは…………」
ああ、何だよ、じれったい。
「お前、ギターの約束してる人間と今すぐ会わなきゃいけないのか?」
腕を組んでそう言うと、瑞野はキョトンとした顔をする。こういう顔もするのか、と、変な感心をしてしまった。
「え?……いえ、大分早く着いちゃって、まだええと、40分ほど時間が……」
あまりにも早すぎるだろうと呆れながら、俺は周りを見回した。下りエスカレーターの降り口近くに喫茶店らしき店が開いているのが見える。
俺は促すように視線を動かした。
「来い。話くらいなら聞いてやる」

期待せずに入った店だったが、内装は品が良いし、漂ってくる紅茶の香りも中々のものだったので俺の機嫌は悪くはならなかった。
どうやら取り揃えた紅茶の種類が自慢の店らしく、店員に案内され席に着くと同時に広げられたメニューにはびっしりと茶葉の名前が並んでいる。
セットメニューのところに載せられたケーキは、今日は何があるのかと聞くと、すぐにトレイに並べられた十種類程のケーキやマフィンが運ばれてきた。
「これと、それからキームンを。お前は?」
「え、っと……これを、お願いします」
「かしこまりました。お飲み物はいかがなさいますか?」
「…………えっと、」
白いブラウスが爽やかな女性店員は急かしたりはしないものの、瑞野はおかまいなしに焦っているように思えた。ちらと向けられた視線が助けを求められているようで、思わず苦笑して声をかける。
「紅茶は普段、飲まないのか?」
「はい、あまり……」
何がどう恥ずかしいのかわからないが、顔を赤くしているのを見ると、大人びていても瑞野だってまだ高校生なんだなと妙な感慨を覚えてしまう。
黙り込むだけで決めかねている俺たちに、ごく自然に店員が割り込んだ。おすすめは自家精製のモンターニュブルーだが飲みやすいのでどうかとの申し出に、瑞野はやや投げやりに「そうします」とだけ答えて俯いた。

「先輩は慣れてるんですね、こういうお店も」
立ち去った店員をちらりと見て、それから俺を見ながらしみじみとそう言う。
「こういうって、どういうのだよ」
「……えー、と、お高い喫茶店?」
さっきの『ロックンロール?』と同じような言い方に笑いながら、別に高くはないだろうと言うとなにやらがっかりしている。実際のところ、俺はメニューの値段表示には目も通していないのではっきりとは言えないが。
瑞野の感覚ではそうなのだろうが、それでもそわそわしたりキョロキョロしたりしないぶん、場馴れしているように見せることだけはできていると思う。部活動のおかげで度胸があるのだろうか。それは、学園祭のステージでわかることなのかもしれない。

「それで、お前は何を悩んでるんだ」
店員が注文したものを全て運び、再び立ち去ったタイミングで口を開いた。
磨きぬかれた三又のフォークを持ったまま、瑞野はまたも考え込んでいる。
「……先輩は、小さい頃からピアノをなさってたんですよね?」
「は?……まあ、そうだけど」
何を突然言い出すのやらと怪訝な顔をしている俺を他所に、瑞野はティーカップに口を付けた。「いい香り」と喜びながら。
「その…………将来ピアノの道に進もうって思ったのは、いつですか?」

いつだろう。
考えてみれば去年、結局自分にはピアノしかないのだと思ってそう決めたような気もするが、実際のところそれは昔から考えていたことで、ニコライに負けて逃げたこととその結果はきっかけに過ぎないような気もした。
「……さぁ、いつだろうな。それが何か関係あるのか?」
あまり深く聞かれても上手く答えられないようで、逆に聞き返してみた。
「関係っていうか、なんというか……。先輩は、どうやって将来のこと決めたのか聞いてみたかっただけです」
お気を悪くされたのならすみません。
そう言って瑞野は軽く頭を下げようとしたが、俺はそれを留める。別に気分が悪いわけじゃない。
「つまり、お前の悩みは将来について、ってことでいいのか?」
「……ばっさり言っちゃうと、そうです、ね」
「ふぅん……」
お互い手をつけずにいたケーキに視線を落とす。俺が一口食べると、瑞野もおずおずとフォークを差し入れた。トライフルロールの断面には綺麗にフルーツが並んでいる。切った後のことまで考えて作るんだから、パティシエはさぞ苦心しているだろうと、そんなことを考えた。

「お前がそういうことを言うのは、意外だな」
「そ……、そうですか?」
「ああ。ひょっとしてお前は一芸だけの俺を羨んでるのかもしれないけど、俺は逆にお前みたいに、オールマイティーになんでもできるやつが羨ましいよ」
所詮は無いものねだりなのだと、知っていながら誰もが望むことをやめられないのだろう。
瑞野は黙っていた。
「去年まではたまにこう思ってた。“ピアノばかりやっていなければ、他に選択肢はあったのかもしれない”って。
……音大の連中なんて俺と似たり寄ったりでさ、時々そんな愚痴を言い合ったりもする。そのくせ今から別のことしようなんて微塵も考えない。音楽が好きだって気持ちもあるだろうけど、もう俺たちはここからドロップアウトできないんだ」
しがらみやらプライドやらのおかげで。
他人から羨ましがられる反面、こちらには相応の苦痛だって存在するのだ。
冷めかかった紅茶で喉を潤して、言葉を続けた。きっとそれは俺が、誰かに吐き出したかったことなのだろう。
これは愚痴じゃない。ただ聞いてほしいだけなのだから、極力威圧感を与えないように気を遣った。自分がそうしているのが、不思議だった。
「俺みたいな人間の可能性なんてものは、この先も伸びていけるかどうかとか、それくらいしかない。道が一つしかないってのはある意味じゃ苦しいときもある。……去年までの俺がそうだったわけだけど。でも一生かけて見つかるかどうかわからない、向いている何かっていうのを見つけられた分、俺はラッキーな方かもしれないな。
お前はそれを、これから見つけるために頑張らなきゃいけないかもしれないけど、そういう可能性が残されてることを羨ましいと思ってる人間だって、俺の他にもいるに違いない。それだけは、わかっておけ」

瑞野はケーキをつつく手を止めて、まばたきすら惜しむように俺の話を聞いていた。
「はい……」
考え込んでいるのかなんなのか知らないが、ティーカップを両手で包むようにしている。
こういう、いわば頼りなげな姿を見るのは初めてだった。うすらぼんやりしているような顔も妙に不安な気持ちにさせる。
きっとどうにも放っておけないような気がして、だから俺はここでお茶なんかする羽目になったのだろう。
「ほら、ぼやぼやしてると待ち合わせに間に合わなくなるんじゃないか?」
一口分切り取られただけで口に入らなかったトライフルロールを示すと、瑞野は慌てて食べ始めた。
「美味しい……!」
目じりを下げて喜んでいる瑞野を見て、今日はやたらと色んな表情にお目にかかるものだと思った。
ああ、なるほど。こんなに表情豊かな瑞野を見たことがないから、意外に思うのか。
「さっき言ったことと矛盾するかもしれないけど、」
「はい?」
ケーキに夢中になっていたせいで、慌てて顔を上げた瑞野に苦笑しつつ、俺は続ける。
「一般論で言えば俺みたいな人間のほうが特殊なんだ。これからのことを考えるのはいいことだと思うけど、あまり気負いすぎるなよ」
追い詰めてもいいことなんてないからな。
そう言うと瑞野が何か言いたげな顔になるものの、失言を恐れているのか口を開くことはしなかった。
大体何を言いたいのかはわかる。
「俺だって、お前たちより無駄に一年長く生きてるわけじゃない」
だからそう、目を丸くして驚かれるとちょっとだけ癇に障る。
まぁ、言わないけど。

20110606