虹のワルツ

69. 二歩前の背中(美奈子)

すっかり暗くなってしまった帰り道を歩きながら、私は、どうして琉夏くんがあんなことを言ったのか考えていた。

学園演劇の練習が終わって、みんな揃って途中まで帰ることになって、私はその集団の一番後ろのほうをとろとろと付いていっている。
もとから歩くのが早いわけじゃないけれど、考え事のせいで私の歩みはいつもよりも遅くなっていた。
みんなは楽しそうに何か話をしている。全員で、じゃなくて、たとえばテレビの話をしている先頭の3人、おなかが減ったから何か食べに行こうかと相談しに行く男子たち、とか。
琉夏くんは私の近くを黙ったまま歩いていて、ときどき誰かに話しかけらられては何かの返事をしていた。


結局、練習が終わった後に、“教室を飛び出していった彼女”のことをみんなで話し合った。悪口を言うんじゃなくて、本当にどうするか真面目に話し合った。
代役をつれてくるとか、実行委員に任せるのが普通なのかもしれないけれど、どうしようかって言い出したのはその場にいた劇参加者の一人だった。
でも私も、委員長に任せるのはちょっと無責任だと思っていたし、参加するみんながこうやって色々考えて結論を導き出して、そういうのって大事だなって実感していたから、嫌だとも面倒だとも思うことはなかった。台詞を覚えてただ舞台に立つだけなら簡単だけど、こうやってみんなで協力してよりよいものにしようっていうのがきっと、大事なんだろうなって思った。
きっと琉夏くんも同じように考えていたから、あのとき誰も言えなかったことを口にしてしまったんだろう。
夏碕ちゃんとカレンが来る前から、あの子の態度は不機嫌だったし、私も、たぶん他のみんなも、あの子が琥一くんを好きだってことは知ってたんだと思う。琥一くんは、どうなのかわからないけど、たぶん今日の一件で勘付いたに違いないと思う。きっと、夏碕ちゃんも。
彼女としては本人にばれてしまって、しかも琉夏くんになじられて、そうなった今となってはあの子を呼び戻すのは難しいんじゃないかって、誰かが言った。その口調の中には、協調性のない人は来て欲しくないっていう色が含まれているように思われた。
別の誰かは、ちょっぴり面白半分に夏碕ちゃんを呼んできたらどうかって言い出した。
けど、委員長が言うには『瑞野さんは投票でも上位だったけど、演劇の話をしたらバンドのほうで忙しいからって丁重にお断りされてしまった』とのことで、さすがに私たちの中には非常時にかこつけて夏碕ちゃんを呼んでくるあつかましい人はいなかった。
だったら、投票で次に上位だった人を呼んでくるのがいいんじゃないかという話が進みそうになったとき、私の近くにいた誰かがつぶやいた。
『っていうかアイツが上位だったことに驚きだぜ俺は。なんか裏工作したのかもなー』
そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。
でも、仮にあの子が何かしていたとしても、それってなんとしてでも劇に出たかったからに違いない。それはもしかしたら、琥一くんのためなのかもしれない。褒められたことじゃないけれど、けど、私は彼女を責める気にはなれない。
もしも私が同じような立場だったら、どうにかして大好きな人と近づきたいって思う。それも、普段は彼の隣にいるはずの女の子がいないのであれば、せめてそのときだけは私のほうを見て笑って欲しいって、きっとそう思う。
あの子は確かにあんなことを言って場を乱してしまったけど、私はみんなが言うように責めることも、そう思うこともできなかった。
だまりこくっている間に、委員長は投票の次点の子に連絡をとろうとしていた。それを、サッカー部の鈴木くんが止める。
「いや、琥一と話したけど、俺と琥一のペアの女の子を入れ替えて、アイツ呼び戻したらどーよって思ってさ」
確かに鈴木くんのペアの子はあの子だった。けど……。そんな顔をしてみんなが不思議そうに見ていると、
「だってさぁ、アレじゃまるで俺が嫌われてるみたいだしさぁ……ああいう感じになって俺も申し訳ないと思ってるし」
鈴木くんは申し訳なさそうに言っているけど、両手は頭の後ろで組んで、どこかおちゃらけているようにも見えた。誰かがくすりと笑う。
誰も鈴木くんのせいだと思っていない。鈴木くんだってわかってると思う。もしかしたら、この話を言い出したのは琥一くんなのかもしれない。今考えてみれば、そうだったとしてもおかしくないと思える。
「そんでさぁ、俺と琥一と佐々木さんで説得してくるからー」
立ち上がった鈴木くんにつられるようにして、琥一くんと一人の女の子が立ち上がった。彼女、佐々木さん、というのは琥一くんとペアになっていた女の子だ。
急な展開にぽかんとしているみんなをそのままに、三人は連れ立って教室を出ようとしていた。その一番最後尾の、大きな背中に私は呼びかけてしまう。
「それでいいの?」と。
たぶんそれは、琥一くんが、自分のことを好きな女の子と一緒に踊っているのを夏碕ちゃんが見てしまうだろうことも含めて、私はそう言ってしまったんだと思う。
琥一くんは振り向いて、ひとつ深呼吸のようなため息をしてから困ったように口元を緩めた。
「それで収まるなら、安いモンだろ」
ちらっと彼が向けた視線の先には、琉夏くんがいた。二人の視線が合うことはなく、結局三人はどこかへ行ったまま、戻ってくるのを待つこともなく私たちは帰宅し始めた。


きっと琥一くんも、琉夏くんがどういうつもりであんなことを言ったのかわかっているに違いないと思う。
それだけじゃなくて、わかっていたからこそ、説得する気にもなったんだって、私は信じている。
あの時、琉夏くんは思いつめたように黙っていたけれど、ほんの少しだけバツの悪そうな顔をしていた。


「美奈子」
「――えっ?」

つま先を見つめながら考え込んでいた私の頭の上から聴きなれた声が降ってくる。
反射的に顔を上げると、琉夏くんが私の考えなんて露知らずって笑顔で「ね?美奈子もそう思うよね?」って迫ってきた。
「えっ?そう思うって?何が?」
「うん?いいからいいから。ねっ?」
「うん……?」
何がなんだかわからないまま苦笑いでうなずくと、途端にみんなが笑ったりため息をついたり小さな悲鳴を上げたりする。
「えっ!?な、なに!?」
「何って?俺と美奈子がラブラブって話」
「ええっ!?」
みんなの間で勝手に進んでいた話って、っていうか何話してるの……。と言うこともできず、暗がりの中できっと私の顔は真っ赤になっていたことだろうとぼんやり考えていた。
なんだかさっきまで考えていたこともあって、それって誰かたちと比べてお似合いとか、そういうことなのかなって勘繰ってしまった。
琥一くんと、あの子?それとも夏碕ちゃん?
私は、琥一くんと夏碕ちゃんは似合ってるって思うのに、幸せになって欲しいのに。

「いやーやっぱお似合いだなー」
「絵になるもんねぇ、美奈ちゃんと桜井くん」
「割って入れないってカンジだよねー?」
「ねー」
ニコニコどころかニヤニヤ笑いのみんなの顔からは意地悪さすら感じられる。
「ちょ、ちょっとみんな……もー!」
「あれ?怒ってるの?」
「そうじゃなくて!」
琉夏くんが茶化すように言うものだからついつい大声を出してしまうと、みんなは「夫婦喧嘩夫婦喧嘩」って楽しそうに笑ってる。他人事だと思って……。

「ショックだ」
琉夏くんは額に手を当ててつぶやいた。
「は?」
怪訝な顔をしている私の前に、琉夏くんは突然跪いた。片手を胸に、もう片手を横に広げて。
「我が愛しのジュリエット、何故そういうことをおっしゃるのです」
「じゅ……」
どうやら琉夏くんは突然ロミオになってしまったらしく、普段は到底聞けないような口調で私を見上げている。
そういえば、背の高い琉夏くんに見上げられるのって初めてかもしれない。
「もう、琉夏くんってば……早く帰ろうよ」
恥ずかしくって歩き出そうとすると、片手をつかまれてしまった。
「琉夏くんじゃない、ロミオ」
劇の主役が琉夏くんって聞いたときには、真面目にやってくれるのかそりゃあ不安だったけど、こんなところで真面目になってもしょうがないと思う。
「はいはい、帰りましょうねロミオ様」
いい加減、みんなが笑いをこらえているのも恥ずかしくって、私は琉夏くんの手を引っ張った。けれど、当たり前と言えば当たり前で、琉夏くんはびくとも動かない。
「帰りません。貴女の愛を聞くまでは」
うわぁ。と、誰かが噴出したのがわかった。
けど、私は正直それどころじゃない。いくら“擬似ロミオ”だからって、こんな台詞言われて冷静でいられるわけがない。
ついでにまなざしも真剣そのもので、本当に琉夏くんに言われてたらどうしようって、そんなことまで考えてしまっていた。
「ジュリエット、」
ふわりと微笑んだ琉夏くんの手に、軽く力がこめられる。
心臓が、はねた。

「わ…………わたしも、お慕いしています」

ああ、言っちゃった。
こんな恥ずかしい台詞を恥ずかしい口調で言うなんて!
顔から火が出そう。本当に、暗くなっていてよかったって思う。
みんなはさっきと同じように茶化したり笑ったりしながら、遠巻きに私たちを見つめていた。
琉夏くんはしばらくそのままでいたけれど、一度瞬きをしてから勢いよく立ち上がった。
「よっし、じゃあ帰ろう!」
「ぶはっ!切り替えはえーよロミオ!」
「えっ?ロミオ?だれそれ?」
けろっとした顔の琉夏くんに手を引かれながら、私もみんなと一緒に歩き出す。
拍子抜けしたのはみんなだけじゃなくて、きっと私が一番びっくりしていたに違いない。
それにしても…………心臓に悪かった。
あまりにもドキドキしすぎてしまったせいで、送ってもらった家の前まで、つないだままの手に気づけなかった。

「美奈子、本番で“琉夏くん”なんて言っちゃだめだからな?」
「言わないよ……もう!」

私がムキになると、琉夏くんが笑う。秋の夜空に、小さな笑い声が響いていった。

20120122